第31話 原因は俺だ
シルフィードの第六層巡回における落石事故から三日後、水曜日の午前十時。
迷宮管理公社本庁舎の四階にある区画測量課の第一会議室には、重苦しい静寂と、冷え切ったエアコンの風が漂っていた。
円卓の周囲に座っているのは五人。
上座に腕を組み、端末の画面を鋭い視線で見つめる宮原怜。
その隣で、何台もの端末を並べてログの照合を猛烈な速度で行っている技術官の汐見航。
対面には、隊長服の胸元に黒い喪章のような腕章をつけた久我山亮。
そして、俺と、膝の上に手帳をぎゅっと抱え込んだ十和田結だった。
「……では、第七迷宮第六層北工区六一〇における天井崩落事案について、合同事故検証の報告に入ります」
宮原さんが乾いた声で切り出し、手元のタブレットを操作して壁面の大型モニターに図面を投影した。
モニターの左側には、事故当日にシルフィードが所持していた俺の手描き縮尺図。中央には、迷宮測量AI『オルタマップ・バージョン四』が前週に算出した標準通行予測マップ。そして右側には、崩落現場から公社のドローン部隊が回収した最新の三次元スキャンデータが表示されている。
「汐見技官、解析結果の概要を」
「はい」
汐見くんが縁なし眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、モニターの特定箇所をレーザーポインターで指した。かつては俺の手順を「人力の勘」と否定していた青年だが、中層での検証を経て以来、その態度には冷徹なまでの公平さが備わっていた。
「崩落が発生した北側支線六一〇――通称『馬の背』通路についてです。まず、公社のオルタマップによる事故三日前の再編予測値ですが、当該区画の安定度は八十二パーセント。『構造的欠陥なし・通行推奨ルート』と判定されていました。AIの学習モデルにおいても、この崩落の前兆は一切検知されていません」
汐見くんは淡々とキーボードを叩き、グラフを重ねる。
「次に、志賀氏がシルフィードへ提出した事前測量図および追加測量メモの照合です。志賀氏の図面においても、当該支線は『構造安定・通行可』と記載されています。AIの算定結果と志賀氏の判定に齟齬はなく、双方ともに通常の手順に基づく測量結果として整合していました」
「待ってください」
久我山さんが低い声で口を挟んだ。日焼けした顔には深い隈が刻まれ、声は擦れていた。
「俺の責任です。あの支線で小休止を取ると決めたのは俺だ。巡回スケジュールの遅れを取り戻そうと、休憩位置を一つ手前に繰り上げて、隊員たちをあそこで座らせた。予定どおりに抜けていれば、崩落の前に全員が通過し終わっていたかもしれない。宇佐美が脚を挟まれたのは、俺の行程判断の甘さだ。先生の図面には何ひとつ落ち度はありません」
「久我山団長」
宮原さんが冷徹な声で遮った。感情を交えず、ただ書類の言葉だけで語る。
「本検証の目的は、誰かを吊るし上げることではありません。事象の因果関係を公的に確定させ、記録として残すことです。……汐見技官、崩落の直接要因は」
「地層上部に滞留していた局所的な吸水玄武岩層の、垂直方向への剪断破壊です」
汐見くんが画面を切り替えた。
「第六層の深部から上がってきた魔素蒸気が、北側支線の天井裏に存在する未観測の空洞に滞留。そこに微細な結露水が混ざり合い、岩盤の自重が通常の三倍以上に跳ね上がっていました。これは壁面や床面に水平方向の歪みを生じさせない、きわめて特異な『垂直滑落』です。現在の公社標準観測基準、およびオルタマップの現行アルゴリズムでは、事前に予知することは不可能です。不可抗力の突発的構造破綻――それが技術班の統一見解です」
「……以上が、区画測量課としての検証結果です」
宮原さんが書類を整え、卓上に置いた。
「志賀道久氏が作成した経路図に過失・瑕疵は認められず。また、南側に設定されていた第一退路が完璧に機能し、全滅を未然に防いだ功績は極めて大きい。公社としては、本件に関して志賀氏への処分、あるいは登録上のペナルティは一切科しません。……志賀さん、何か確認事項はありますか」
部屋中の視線が、俺に集まった。
無罪。
公的な免責。それどころか、死者を防いだことへの評価。
誰も俺を責めていない。久我山さんは感謝の目で俺を見つめ、汐見くんは事実を淡々と提示し、宮原さんは制度としての無過失を保証してくれた。
だが――。
俺の喉の奥には、熱い鉄の塊が張り付いたままだった。
「……いえ。ありません。詳細な検証、ありがとうございました」
どうにかその言葉だけを絞り出し、俺は深く頭を下げた。
隣で、十和田がホッと小さく胸を撫で下ろす気配がした。
◇
その日の深夜。
古い木造アパートの六畳間。畳の上に座布団を敷き、低い文机の上に何冊もの野帳を並べていた。
天井の裸電球が、紙面を黄色く照らしている。
隣の台所から、冷蔵庫の低い唸り声だけが聞こえていた。
「…………」
俺は震える指先で、先週木曜日の日付が打たれた一冊の野帳を開いた。
シルフィード向けの追加測量を行った日の記録。
ページには、第六層北側支線のスケッチと、十七項目の観測チェックリストが並んでいる。
項目一、床面の傾斜変位――異常なし。
項目二、敷石の継ぎ目の目地開き――許容値内。
項目三、側壁の垂直度測定――変化なし。
項目四、水平方向の魔素変形圧――〇・〇四ミリテスラ、安定。
ペンで規則正しく書き込まれた数字と記号。俺が十四年間、アルゴノートで培ってきた観測の記録だ。
だが、ページの下半分に視線を落とした瞬間、俺の指がピタリと止まった。
項目十五、天井裏の浸透水および排水痕の有無。
――空欄。
項目十六、上層通気孔からの気流圧力差。
――空欄。
項目十七、天井結合部クラックの珪素析出度。
――空欄。
三つの空白。
チェックマークも、測定値も、何ひとつ書かれていない。
その空白の横に、乱れた筆跡で、自分自身の文字が殴り書きされていた。
『床・壁ともに変位なし。全体構造は安定と推定。時間不足のため天井側三項目はスキップ、後日再確認要』
「…………っ」
胃の奥から、苦い酸が込み上げてきた。
あの日の記憶が、鮮明に蘇る。
第三層と第四層の測量を終え、痛む腰を庇いながら駆け込んだ第六層。
公社への報告書提出期限が迫り、翌日にはメイズ測量研究所との面談が控え、週末には第四層の講習が入っていた。
時間がなかった。
体力が尽きかけていた。
だから俺は、「床と壁が安定しているから、上も大丈夫だろう」と、都合のいい推測で自分を誤魔化したのだ。
汐見くんは言った。
『水平方向に歪みを生じさせない、特異な垂直滑落。事前の予知は不可能』だと。
嘘だ。
公社の観測基準やAIには見えなくても、俺が作った『観測手順書』の十七項目には、その前兆を捉えるための項目が最初から含まれていた。
項目十五で浸透水の有無を見れば、玄武岩の吸水が分かった。
項目十六で気流を測れば、天井裏の空洞の内圧変化が分かった。
項目十七で珪素の析出を見れば、天井の剪断破壊が数日以内に起きると断定できたはずなのだ。
予知できなかったのではない。
俺が、見なかったのだ。
安値で十一件の依頼を抱え込み、スケジュールを詰め込み、自分の体力と時間の限界から目を背けて、観測の余白を削り落とした。
その結果が、あの崩落だった。
宇佐美くんの右脚を砕いたのは、迷宮の気まぐれでも、久我山さんの判断ミスでもない。
俺が野帳に残した、この三つの空白だ。
二十年間、無事故でやってきた。
誰にも死者を出さず、大怪我もさせずにやってきたという俺の職人としての自負。
それが、ただ運が良かっただけに過ぎなかったという冷厳な事実が、暗い部屋の中で俺の喉元に刃を突きつけていた。
◇
翌日の昼休み。
俺は迷宮管理公社の本庁舎を再び訪れていた。
四階の廊下の隅、自動販売機が並ぶ休憩スペース。昼食のサンドイッチを手に戻ってきた宮原さんを、俺は呼び止めた。
「宮原さん。少しだけ、お時間をいただけますか」
宮原さんは眼鏡の奥の目をわずかに細め、俺の顔色を見てから短く頷いた。
「……手短に。次の会議まで十五分です」
俺たちは非常階段の踊り場へ移動した。コンクリートの壁に囲まれた、誰も通らない静かな空間。
俺は胸ポケットから、昨夜の野帳を取り出し、宮原さんへ差し出した。
「これを見ていただきたいんです」
宮原さんは怪訝そうに眉を寄せながら、野帳を受け取り、ページをめくった。
「これは……先週の第六層の?」
「はい。下半分を見てください。項目十五、十六、十七が空欄になっています」
「…………」
「木曜日の追加測量の際、俺は時間が足りず、天井側の三項目を確認しないまま『構造安定』と判定してシルフィードへ図面を渡しました。……昨日の検証で汐見技官がおっしゃった『天井裏の玄武岩の吸水と剪断破壊』は、この三項目を確認していれば、事前に察知できました」
宮原さんの手が、ぴたりと止まった。
彼女の視線が、野帳の空白と、俺の顔の間を往復する。
「……志賀さん。昨日の会議で、公社の公式見解は確定しました。あなたの図面に過失はなく、不可抗力の自然崩落であると」
「知っています。ですが、事実は違います」
俺は乾いた唇を開いた。声が震えないよう、奥歯を噛み締める。
「俺の手順書は、『十七項目をすべて確認すること』を前提に作られています。それを俺自身が、過密日程を理由に端折った。……宇佐美くんが怪我をした原因は、俺の設計の余白不足です」
「それを私に告げて、どうするつもりですか」
宮原さんの声が、一段低くなった。いつもの事務的で冷徹な口調の奥に、鋭い棘が含まれていた。
「公式見解を覆して、あなたに過失があったと記者会見でも開きますか? 公社登録を取り消し、手順書の公開を停止し、損害賠償をシルフィードに支払いますか? それで誰が救われるんですか。怪我をしたあの新人の脚が治るんですか?」
「……いえ。そんなことをしても、何の解決にもならないことは分かっています」
「なら、なぜ言ったのです」
「隠したまま、次の図面を引くわけにはいかないからです」
俺は宮原さんの目をまっすぐに見つめ返した。
「俺の手順書を信じて、若い探索者たちが迷宮へ潜っています。もし『床と壁が安定していれば大丈夫』という前例が一人歩きしたら、いつか本当に死者が出ます。……俺の過失を公表して処罰を受ける必要はありません。ですが、手順書には手を入れなければならない」
宮原さんは長く息を吐き、眼鏡を外して眉間を指先で押さえた。
「……具体的には?」
「『観測項目に一件でも未確認の項目が存在する場合、その旨と未確認項目を図面および報告書に明記し、依頼者へ口頭で直接通知すること』。そして、『未確認項目がある区画は、通行可ではなく要再確認区画として扱うこと』。……この運用基準を、公社に登録されている手順書に追記してください」
静寂が踊り場を支配した。
遠くで、エレベーターの到着を告げるチャイムの音が微かに響く。
宮原さんは眼鏡をかけ直し、野帳を俺に突き返した。
「……呆れましたね。自分から藪を突いて蛇を出し、自分でその毒を飲むような真似をして」
「すみません」
「謝らないでください。……分かりました。手順書の改訂補則として、今の条文を本日付で追加登録します。公社の公式結論は覆しませんが、区画測量課の運用通達として各クランへ共有します」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはありません」
宮原さんはくるりと踵を返し、非常扉のノブに手をかけた。
そして、扉を開ける直前、振り返らずに背中越しに言った。
「志賀さん。あなたの技術が本物であることと、あなた一人の肉体に限界があることは、全く別の問題です。……安売りして全部抱え込み、時間が足りなくなって人を死なせかける。そんなものは職人の美徳でも何でもありません。ただの怠慢です」
「……はい」
「あなたの時間が足りないという事実も、いずれ制度の問題になります。……自分の足元を、よく見つめ直すことですね」
バタン、と重い防火扉が閉まった。
残された踊り場で、俺は深く頭を垂れた。
宮原さんの厳しい言葉が、痛む腰の奥深くまで染み渡っていた。
◇
公社を出た後、俺は十和田と合流し、駅前の寂れた定食屋に入った。
午後二時を過ぎた店内には、油の匂いとテレビのワイドショーの音だけが流れていた。
テーブルの上には、冷めかけた生姜焼き定食と、湯呑みが二つ。
「……志賀さん。宮原さんと、何を話されたんですか」
十和田が、箸を止めて俺を見た。その大きな瞳には、隠しきれない不安が揺れていた。
俺は湯呑みを両手で包み、温もりを感じながら、昨夜野帳で見つけた事実と、宮原さんに手順書の追記を頼んだことを、淡々と、簡潔に話した。
言い訳は一切挟まなかった。ただ、何を見落とし、何が起きたかという事実だけを。
「…………」
十和田は、黙って聞いていた。
そして、俺が話し終えると、膝の上で握りしめた小さな拳をわなわなと震わせた。
「……私の、せいです」
「え?」
「私が、スケジュールを管理していたのに……! 志賀さんが木曜日にどれだけ疲れていたか、一番近くで見ていたはずなのに……! 事前届出と報告書の山に追われて、志賀さんが現地でどれだけ時間を削っていたか……私、気付けませんでした……!」
「十和田さん、それは違う」
「違くないです!」
十和田が顔を上げた。その目には涙が浮かんでいた。だが、彼女はそれを拭おうともせず、必死に言葉を絞り出した。
「私、記録係なのに……志賀さんの弟子なのに……! 志賀さんに無理をさせて、書類ばかり押し付けて……私、あの時も……」
十和田の言葉が、ふっと途切れた。
喉の奥で何かが引っかかったように、彼女は唇を噛み締め、俯いた。
俺は何も言わず、彼女の言葉の続きを待ったが、十和田はそれ以上何も言わなかった。
「十和田さん。観測項目を削ったのは俺の判断だ。君に責任はない」
「……でも、志賀さん」
十和田は涙をぐっと呑み込み、真剣な眼差しで俺を見つめた。
「もう、こんなの絶対にダメです。志賀さんが一人で全部背負って、断れないからって安く全部引き受けて……そんなの、絶対に破綻します」
「……ああ。分かっている」
「私、決めました」
十和田は鼻を小さくすすり、手帳を開いた。
「これからの依頼は、全部私が最初に受けます。志賀さんが無理なスケジュールで潜らないように、誰が何と言ってきても、基準に合わない仕事は私が全部弾きます。……志賀さんの仕事と、志賀さんが守ろうとしている人たちを守るのが、私の役目ですから」
十九歳の少女の、あまりにも真っ直ぐな宣言。
俺は自分の不甲斐なさに苦笑しながら、小さく頷いた。
「……頼むよ、十和田さん」
「はい!」
定食屋の薄暗いテーブルの上で、俺たちの新しいルールが、静かに産声を上げていた。




