第30話 余白を削った日
鵫原との面談から二日後、日曜日の午後。
第七迷宮第四層の安全地帯に、十数人の探索者たちが集まっていた。
この日、俺は中堅クラン連合から依頼された『若手斥候向け・迷宮局所読図講習』の講師を務めていた。手順書が公開される前に口約束していた先約で、今月受けた十一件とは別枠の一件だ。日程の合わない遠征は断ったものの、これだけはどうしても断れず、本番と重なる日曜へずらしてもらっていた。折りたたみ式のホワイトボードに磁石で野帳の拡大図を貼り付け、チョークで敷石の継ぎ目と変形圧の相関図を描いていく。
「……いいですか。敷石の変色は、単なる湿り気ではなく、下層からの魔素の滞留によって起きます。熱を感じたら、まずその熱が四方の壁のどこへ逃げているかを確認してください。逃げ道のない熱は、三日以内に床の跳ね上がりを引き起こします」
受講している若者たちが、息を呑んでペンを走らせる。
「志賀先生、質問です! 公社の手順書にある項目十二のクラックの傾きですが、角度が十五度を超えた場合は即座に撤退すべきでしょうか」
「いい質問ですね。角度だけでなく、亀裂の縁に生じる白い粉――珪素の析出があるかを見てください。粉が乾いていれば、まだ進行は遅い。粉が湿っていれば、数時間以内に剪断破壊が起きます」
「なるほど……! 現場でしか分からない生きた知識だ……!」
受講生たちの熱気と真剣な眼差し。講習は大盛況で、主催者からは『来月もぜひ追加で開催してほしい』と固い握手を求められた。
誰かに教えることの充実感。
だが、その講義中も、俺の意識の半分は別の場所に囚われていた。
(……今頃、シルフィードの本番巡回が始まっているはずだ)
第七迷宮第六層。久我山率いる主力隊が、俺の引いた図面を手に歩いている時刻だった。
木曜日に削ってしまった天井側の三項目。未確認のまま残した空白が、まるで胃の底に飲み込んだ鉛のように重く沈んでいた。
(大丈夫だ。床と壁は完璧に安定していた。今日を乗り切れば、明日の朝一番で現地へ行って、天井を測り直せばいい……)
そう自分に言い聞かせながら、俺は講習の機材を片付け、地上への帰途についた。
◇
後に公社へ提出された通信記録と、久我山自身の証言によって明らかになった第六層の状況は、まさにその時刻に急転していた。
午後二時四十分。クラン・シルフィードの巡回本隊六名は、第六層北工区六一〇、志賀が『構造安定・通行可』と判定した北側支線に差し掛かっていた。
前衛を務めるのは、団長の久我山と、志賀の図面を胸ポケットに入れた新人の宇佐美翔だった。
床の敷石に異常な振動はなく、左右の壁面にもクラックの拡大は見られなかった。志賀の所見どおり、地上と地下を結ぶ水平方向の圧力は完全に均衡を保っていた。
だが――異変は、何の前触れもなく『真上』から訪れた。
頭上十メートル。志賀が時間の不足から確認を飛ばした天井側三項目のうちの一つ――最上部クラックの剪断応力が、臨界点を超えていた。
水脈の滞留によって上部の岩盤が吸水し、急激に重量を増していた天井部が、支えを失って垂直に滑落したのだ。
ドォォォンッ――!!
爆音とともに、数トンの玄武岩が天井から一気に崩れ落ちた。
「退避っ!! 崩落だ、下がれッ!!」
久我山の怒号が響く。
通路の前後が粉塵に包まれ、視界がゼロになる。普通の隊であれば、退路を見失ってパニックに陥るところだった。
だが、久我山の手には、志賀が事前測量で渡した一枚の縮尺図があった。
――『万が一の閉塞時には、南側の工区六一二へ抜けてください』
志賀の声が、久我山の脳裏に蘇る。
「南だ! 第一退路へ走れ! 先生の図にあった迂回路がある、迷うなッ!」
久我山を先頭に、隊員たちは一列になって南側の通路へ雪崩れ込んだ。志賀が指定した第一退路は、崩落の衝撃波を受けながらもビクともせず、確固たる空間を保ち続けていた。
隊員が次々と脱出する。
そして、最後尾から全員を押し出そうとした宇佐美が退路へ飛び込もうとした、その瞬間だった。
背後で遅れて崩れ落ちた巨大な天井岩の破片が、宇佐美の右脚を無残に薙ぎ倒し、玄武岩の敷石との間に挟み込んだ。
「ぐあああっ……!!」
「宇佐美ッ!!」
振り返った久我山と隊員たちが、必死に岩に取り付いた。大剣をバール代わりに差し込み、テコの原理で岩を押し上げ、意識を失いかけた宇佐美を引きずり出すまでに、地獄のような二十分が経過していた。
◇
午後四時十五分。
第四層からの帰りの電車を待つ、迷宮前駅の吹きさらしのホーム。
ベンチに腰掛けていた俺のポケットの中で、スマートフォンがけたたましく鳴り響いた。
画面には『シルフィード 久我山亮』の表示。
「はい、志賀です」
『……志賀先生ですか』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、息も絶え絶えな、酷く擦れた久我山の声だった。背後からは遠く、救急車のサイレンと管理棟の非常ベルが鳴り響いている。
「久我山さん……? どうしました、本番は――」
『第六層で……崩落が起きました』
その瞬間、世界からすべての音が消え去った。
血の気が一気に引いていき、指先が氷のように冷たくなっていく。
『北側支線に入った直後、天井が一気に落ちてきましてね……通路が完全に埋まりました』
「あ……」
喉から掠れた空気しか出ない。
北側支線。
木曜日、俺が床と壁だけを見て、天井側の三項目を確認しないまま『安定』とサインした、あの区画。
『ですが……先生の図面のおかげで、南の退路へ全員を逃がすことができました。先生が退路を二本確保してくれていなければ、うちの隊は全員あそこで生き埋めになって全滅していました。……本当に、ありがとうございました』
「久我山さん、待ってくれ……誰か、怪我を……」
『新人の宇佐美が……退路へ飛び込む寸前、落石に右脚を挟まれました。今、公社の中央病院へ救急搬送されています。命に別状はありませんが……全治二ヶ月の重傷です』
受話器から流れる言葉の一つ一つが、鋭利な刃物となって心臓を突き刺した。
久我山は俺を責めていない。
それどころか、『先生のおかげで死人が出なかった』と、心からの感謝を伝えてきている。
その感謝が、どんな罵倒よりも残酷に俺を切り刻んでいた。
「……志賀さん?」
隣に立っていた十和田が、青ざめた俺の顔を見て息を呑んだ。
俺は何も言えず、ただ震える手でスマートフォンを握りしめたまま、立ち上がった。
◇
夜の八時、公社中央病院の外科病棟。
消毒液の匂いが立ち込める薄暗い廊下で、久我山が壁に背を預けて項垂れていた。
「久我山さん……宇佐美くんは……」
「志賀先生……わざわざ駆けつけていただいて」
久我山は憔悴しきった顔を上げ、小さく首を振った。
「手術は無事に終わりました。右足首の複雑骨折ですが、神経と血管は無事でした。全治二ヶ月、後遺症も残らないそうです。先ほど麻酔から覚めました」
病室のドアを少しだけ開けると、ベッドの上に横たわる宇佐美の姿が見えた。右脚は分厚いギプスで固定され、点滴のチューブが繋がれている。
俺の姿を認めた宇佐美が、蒼白な顔に無理やり笑みを浮かべた。
「……あ、志賀先生……来てくれたんですか」
「宇佐美くん……すまない、俺の……」
「先生、謝らないでくださいよ」
宇佐美は掠れた声で、首を横に振った。
「先生の図面の……第一退路があったから、俺、生きてるんです。あの崩落、前兆なんて全然なかったのに……先生の退路だけは、ちゃんと残ってました。先生の手順書、やっぱり本物です……」
純粋な、一点の曇りもない敬意。
胸ポケットから覗く、血と泥に汚れた縮尺図の端。
俺は奥歯を噛み締め、両拳を爪が掌に食い込むほど握りしめた。
言えなかった。
前兆がなかったのではない。俺が、時間がないという理由で、前兆を観測するための三項目を削り落としたのだとは――麻酔の熱に浮かされる青年の前で、口が裂けても言えなかった。
◇
病院を出たのは、深夜十一時を過ぎていた。
街灯の明かりが冷たく滲む夜道を、俺と十和田は一言も交わさずに歩いていた。
十和田は、俺が何か致命的なことを隠しているのを察しているようだった。だが、彼女は何も尋ねず、ただ俺の半歩後ろをついてきていた。
ポケットの中で、スマートフォンが再び震えた。
画面には『氷室灯』。
俺は立ち止まり、震える指で通話ボタンを押した。
「……もしもし、氷室さん」
『志賀さん。ニュースを見ました。第七迷宮第六層で、シルフィードの隊員が落石事故に遭ったそうですね』
氷室さんの声は、平坦で、冷徹なまでに静かだった。
「はい……先ほど、病院へ行ってきました」
『単刀直入に伺います』
氷室さんは一切の感情を交えず、ただ数字だけを求めてきた。
『志賀さんは今月、何件の案件を引き受けましたか』
「……十一件です」
短い沈黙。
受話器の向こうで、氷室さんが小さく息を吸う気配がした。
『……十一件。その移動と観測と書類作成に、どれだけの時間がかかるか、志賀さんご自身で計算されましたか』
「氷室さん、それは……」
『明日、アパートへ伺います。失礼します』
ツーツーと、無機質な切断音が耳元に残された。
夜風が吹き抜け、痛む腰に冷気が染み込んでいく。
誰も俺を責めなかった。久我山も、宇佐美も、公社の速報も、『不可抗力の突発的組み替えに対し、優れた退路設計によって死者を防いだ』と評価していた。
だが、俺の胸の中にある野帳の、あの白い空白だけが――。
お前が余白を削ったから、人が血を流したのだと、冷たく告発し続けていた。




