第29話 買い取りの申し出
金曜日の午前十一時。
新宿の高層オフィスビル最上階にある、株式会社メイズ測量研究所の本社応接室。
床一面に敷き詰められた毛足の長い絨毯と、全面ガラス張りの窓から見下ろす東京の街並み。六畳間の木造アパートで書類に埋もれていた俺と十和田にとって、そこはあまりにも場違いな世界だった。
テーブルを挟んだ向かい側には、仕立ての良いネイビーのスーツを着こなし、温和な笑みを浮かべた男が座っていた。名刺には『営業部 部長 鵫原伸行』とある。四十五歳。落ち着いた物腰ながら、眼鏡の奥の瞳にはビジネスマン特有の鋭い光が宿っていた。
俺の隣には、エージェントの七尾佳奈が背筋を伸ばして同席している。
「志賀先生、本日はご足労いただき誠にありがとうございます」
鵫原は丁重に一礼し、上質な革張りのファイルを開いた。
「公社のデータベースで拝見した『局所構造変動・観測手順書』、実に見事な体系化でした。我が社の技術開発部でも精読いたしましたが、特に十七項目の相関マトリクスと、中層における幅つきの予見精度は、現在のAI測量モデルが抱える盲点を完璧に補うものです。これを我が社の測量機器に組み込み、特許化と国内標準化を進めたいと考えております」
「あ、どうも……恐縮です」
俺は居心地の悪さに身を縮めた。
「単刀直入に申し上げます」
鵫原はファイルを俺の前へと滑らせた。そこには、極めて精緻に作られた契約書のドラフトが綴られていた。
「我が社は、志賀先生の観測手順書の全著作権およびノウハウの独占的利用権を、金三百万円で買い取らせていただきたいと考えております」
「さ、三百……?」
「もちろん、それだけではありません」
鵫原は穏やかな笑みを崩さず、さらに一枚の紙をめくった。
「志賀先生には、弊社の『特別技術顧問兼主席フェロー』として正式にご入社いただきたく存じます。提示させていただく条件は、年俸一千二百万円。社会保険、研究開発費、迷宮保険の全額会社負担に加え、専用の測量チームと事務アシスタントを二名配属いたします」
息が止まった。
年俸、一千二百万円。
アルゴノート時代、年収換算で三百万円台前半だった俺にとって、それはまったく現実感の湧かない天文学的な数字だった。
「先生が現在個人で行っていらっしゃる配信活動は、弊社の公式広報チャンネルとして移行し、機材や編集もすべて弊社スタッフが担当します。先生が書類作成や役所の窓口通いに追われる必要は一切なくなります。ただ純粋に、地図のことだけを考えていただければよいのです」
横で十和田がゴクリと息を呑んだのが聞こえた。
それは、まさに今週の俺が喉から手が出るほど欲していた『解決策』そのものに見えた。これを受け入れれば、連日の過密日程から解放され、公社の書類地獄からも抜け出せる。腰を痛めながら深夜にラーメンをすすることも、締め切りに怯えることもなくなるのだ。
◇
しかし、鵫原はそこでわずかに言葉を切り、柔らかく付け加えた。
「ただし……一点だけ、条件の整理が必要となります。現在、先生が個人でお引き受けになっている他クランからの依頼は、すべて弊社経由の正式な法人契約へと切り替えさせていただきます。そして……氷室灯選手との専属ナビゲーション契約につきましても、弊社の法人クライアント契約として再締結させていただく形となります」
「……氷室さんとの契約を、御社経由に?」
「ええ。弊社が間に入ることで、氷室選手に対する万全の後方支援体制を構築できます。先生が単独で背負っていらっしゃる過大な法的リスクを、弊社が肩代わりするということです。先生にとっても、氷室選手にとっても、最も合理的で安全な選択かと存じます」
鵫原の言葉には、何一つ破綻がなかった。
企業の論理として、極めて誠実で、極めて正当な提案だった。彼を悪党と罵る要素など、どこにも見当たらない。
隣の七尾さんは口を挟まず、静かに俺の横顔を見つめていた。
俺は膝の上で両手を握りしめた。
年俸一千二百万円。安定した身分。専属のアシスタント。
喉が鳴るほど魅力的な条件だった。だが、胸の奥底で、冷たい違和感が渦を巻いていた。
「……鵫原さん」
俺はゆっくりと顔を上げた。
「大変ありがたいお話ですし、評価していただいたことには心から感謝します。ですが……このお話は、お受けできません」
「……ほう」
鵫原は表情を崩さず、わずかに眉を動かした。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか。金額にご不満がおありでしょうか。もしそうであれば、年俸千五百万までなら弊社役員会を通す準備がございますが」
「いえ、金額の問題ではありません」
俺は首を横に振った。
「あの手順書は……俺が二十年間、迷宮で死にかけた仲間たちを見てきて、なんとか生きて地上へ帰るために書き留めてきたメモが元になっています。公社の審査会を経て一般公開されたのも、迷宮で命を落とす探索者を一人でも減らすためです。それを一企業が買い取って独占し、特許で他人に使わせないようにするというのは……俺にはできません」
言葉を紡ぐうちに、自分自身の輪郭がはっきりとしてくる感覚があった。
「それに、氷室さんとの契約です。彼女は、俺という個人を信用して命を預けてくれました。深層のあの暗闇の中で、俺が退路を指し示すからこそ、彼女は背中を預けて戦ってくれている。それを会社の看板に付け替えて、間接的なビジネスにするような真似は……俺の職人としての筋が通りません」
言い終えると、応接室に静寂が落ちた。
鵫原は静かに目を閉じ、やがてフッと息を吐いて微笑んだ。
「……なるほど。噂通りの職人気質でいらっしゃる」
鵫原は契約書のファイルをパタンと閉じた。
「独占権の買い取りについては引き下がりましょう。ですが志賀先生、一つだけ質問させてください」
鵫原は眼鏡を押し上げ、真っ直ぐに俺の瞳を射抜いた。
「先生は、ご自分の『一時間』に、一体いくらの値をつけていらっしゃるのですか」
「え……?」
「我が社が年俸一千二百万円を提示したのは、先生の技術が市場においてそれ以上の価値を生み出すと試算したからです。ですが伺うところによれば、先生は中層同行を日当五万円で引き受けておられるとか」
鵫原の声は静かだったが、その指摘はあまりにも鋭かった。
「命を救うため、とおっしゃいましたね。ですが、ご自身の時間を不当な安値で切り売りしていれば、先生の体はすぐに限界を迎えます。倒れてしまえば、救えるはずの命も救えなくなる。ご自身を安売りすることは、巡り巡って、先生を信じた人々を危険に晒すことになるのですよ」
俺は息を呑み、何も言い返せなかった。
鵫原は立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。
「我が社の扉はいつでも開けておきます。先生がご自身の『正当な値段』を見出された時、またお話しできることを楽しみにしております」
◇
ビルを出た後、俺と十和田は駅前のファミリーレストランに入った。
七尾さんは「午後から別の法務案件があるから」と途中で別れたが、去り際に『志賀さん、いい返答でしたよ。少し見直しました』と小さく微笑んでいた。
ボックス席に腰を下ろし、ドリンクバーの烏龍茶を一口飲む。
「……志賀さん」
向かいの席でハンバーグ定食をつついていた十和田が、顔を上げた。
「私……志賀さんが断ってくれて、本当に嬉しかったです」
「そうかい?」
「はい。氷室さんとの約束を売り飛ばすような人だったら、私、今日で弟子を辞めてました」
十和田はニッと笑った。だが、その直後、真顔になってフォークを置いた。
「でも、鵫原部長の言ってたこと、完全に正論でしたよ」
「う……」
「志賀さん、今の値段で十一件も受け続けてたら、一年どころか一ヶ月も持ちません。現に今週だけで腰が悲鳴を上げて、睡眠時間を削って、氷室さんの届出まで飛ばしかけたじゃないですか」
十和田の言葉が、容赦なく胸を抉る。
「全部受けて全部助けるなんて、神様じゃあるまいし無理なんです。仕事を『断る基準』を持つことと、自分に『きちんとした値段』をつけることって……結局、同じことなんじゃないですか?」
「断る基準と……値段」
俺は手元のコップを見つめた。
「ほら、冷めないうちに食べなさい。ここも俺の奢りだ」
「あ、ごちそうさまです! いただきます!」
十和田は元気よくスプーンを動かしたが、俺の胸の痞えは取れなかった。
鵫原の残した問い。そして十和田の指摘。
下請けとして十四年間、安く使われることでしか自分の居場所を保てなかった男に、その二つの言葉はあまりにも重くのしかかっていた。
だが、悩んでいる時間すら惜しいほど、時計の針は進んでいた。
明後日はいよいよ、シルフィードの第六層本番巡回の日だった。
自分が削ってしまった天井側の三項目の空白を心の隅に抱えたまま、俺はファミレスの伝票を手に取った。




