第28話 同時進行
翌週のスケジュールは、呼吸をする隙間すら削り取っていくような過密さだった。
火曜日は早朝から第三層の事前測量。水曜日は第四層の退路確認。そして木曜日は、シルフィードから追加で入った第六層の北側予備ルートの測量。
三日間で三つの異なる階層を潜り、それぞれの現場で観測ログを取り、地上へ戻っては公社提出用の書類を作成する。移動の電車内では常に膝の上に野帳を広げ、コンビニの冷え切ったおにぎりを口に押し込みながらボールペンを走らせていた。
「……志賀さん、乗り換えです。起きてください」
十和田に肩を揺すられ、俺はハッと目を開けた。中央線の座席から立ち上がろうとした瞬間、腰の奥に焼き針を刺されたような激痛が走り、思わず「ぐっ」と喉を詰まらせて手すりにしがみついた。
「志賀さん! 大丈夫ですか!?」
「あ、ああ……すまない。足が少し痺れただけだ」
苦笑いして誤魔化したが、額には脂汗が滲んでいた。ドラッグストアで買った一番強力な医療用コルセットを二重に巻き、消炎鎮痛の湿布を何枚も貼り替えていたが、日ごとに増す腰椎の軋みは確実に骨の奥へと沈み込んでいた。
火曜日に潜った第三層では、中堅クランの斥候から『手順書に書いてあった敷石の音の聞き分けを教えてほしい』と請われ、予定時間を一時間オーバーして解説した。水曜日の第四層では、狭窄部での退路確保に手間取り、昼食を抜いて観測を続けた。どちらの依頼元からも『さすが公社登録の技術だ』『大手のAIより何倍も頼りになる』と手放しの称賛を受け、期日内に図面を納品した。
だが、その称賛の代償として支払ったのは、現地での徹底的な検証時間だった。
以前なら三度、四度と歩き直して微細な振動の周期を確かめ、時間差で生じる変形圧のブレまで見極めていたところを、過密なスケジュールの制約から『一度の確認』だけで通過せざるを得なくなっていたのだ。
(それでも……他人の斥候やAIの粗い図面に比べれば、俺の図は何倍も正確で安全だ)
長年の職人経験からくる自負が、過労で曇った判断力にそっと甘い毒を注ぎ込んでいた。
そして木曜日の午後、俺たちは再び第七迷宮第六層の湿った空気に包まれていた。
◇
第六層、北工区六一〇。
ここはシルフィードが本番巡回で補給物資を一時デポする予定の小部屋へと続く、細い側道だった。先週『四日以内に閉じる』と判定して立入禁止を伝えた六〇四の北東支線とは別の、六一〇の北側支線である。三日後の本番を控えた久我山から、『念のため、この北側支線が安定しているか最終確認してほしい』と頼み込まれた追加の調査だった。
「……志賀さん、現在時刻は午後二時十五分です」
十和田がストップウォッチの画面を見つめながら、焦りを孕んだ声で告げた。
「四時半には地上へ戻って、公社の測量窓口へ前回同行分の観測ログ報告書を提出しないと、今日の受付締め切りに間に合いません。さらに夕方六時からは、駅前で別のクランとの事前打ち合わせが入ってます」
「分かってる。あと少しだ」
俺は壁面にハロゲンライトを当て、敷石の継ぎ目に手を這わせた。
手順書の項目一から項目七、敷石の熱変化と反響音は正常。項目八から項目十四、側壁の変形圧とクラックの傾きも問題なし。亀裂の広がりはなく、左右の壁面にかかる力は完全に釣り合っていた。敷石を踏み鳴らしたときの低音にも濁りがない。
(床と壁は……完全に安定している。組み替えの予兆はない)
そこまで確認したところで、俺は天井を見上げた。
頭上十メートル。湿った岩肌の亀裂から、黒ずんだ地下水がぽたぽたと不規則に滴り落ちている。
手順書における最後にして極めて重要な確認項目――天井側の三項目。
項目十五『天井排水の変色と流量』。
項目十六『上部気流の偏向周期』。
項目十七『最上部クラックの剪断応力』。
迷宮の組み替えは、下から押し上げられる場合だけでなく、上部の空洞が沈み込んで押し潰される場合がある。この天井側の三項目を正確に測るには、投光器を三脚で固定し、風速計の数値を三十分間連続で記録して周期的な息継ぎがないかを見極める必要がある。上部のクラックにチョークで標線を引き、変位がないかを測定するだけでも、どう短く見積もっても一時間半から二時間はかかる。
(……二時間?)
腕時計の秒針が、無情な速度で回転していた。
今から二時間かければ、公社への報告書提出は確実に締め切りを過ぎる。帰還後四十八時間以内のログ提出という義務を破れば、登録停止処分が科され、明後日以降の全スケジュールが吹き飛ぶ。
「……志賀さん? 天井の測定器、出しますか?」
十和田が背嚢のベルトに手をかけ、俺の顔色を伺っていた。彼女の目にも、連日の書類仕事による濃い隈が浮かんでいる。
俺の心の中で、二つの声が激しくせめぎ合った。
――全部確認しろ。十七項目すべて揃って初めて『手順書』だ。一つでも欠ければ、それはただの当てずっぽうになる。
――だが、床も壁もこれだけ綺麗に噛み合っているじゃないか。十四年間、何千回と迷宮を歩いてきたが、床と壁が完全に安定していて天井だけが単独で崩落したことなど一度もない。例外中の例外を心配して、公社の義務を落とすわけにはいかないだろう。
二十年間、一度もやったことのない妥協。
職人として絶対に踏み越えてはならない一線が、目の前に引かれていた。
「……いや」
俺の口から、乾いた声が漏れた。
「天井の機材は出さなくていい。床と壁の所見だけで十分だ。この北側支線は『安定』と判定する」
「え……? でも、天井の三項目は――」
「目視した限りでは、異常な水漏れはないよ。本番までに時間があれば、また見直せばいい」
自分でも驚くほど滑らかな口調で言い訳を並べ、俺は野帳の判定欄に『北側支線:構造安定・通行可』とペンを走らせた。
図面をバッグに収め、昇降口へと歩き出す。
角を曲がる瞬間、俺は一度だけ足を止め、薄暗い北側支線の奥を振り返った。ぬるい風の奥で、何かが小さく擦れ合うような、岩と岩が軋む音がした気がした。
だが、時計の針は容赦なく進んでいた。俺は背を向け、昇降機へと急いだ。
◇
地上へ戻り、公社の測量窓口へ滑り込みで書類を提出した。窓口の奥には宮原補佐の姿が見えたが、挨拶を交わす余裕すらなく、俺たちは駅前での打ち合わせへと走った。
すべての予定をこなし、アパートへと向かう帰りの満員電車。
吊り革に掴まる俺のポケットで、スマートフォンが短く震えた。メッセージアプリの通知を開く。
『氷室灯:今月の第十一層潜行計画ですが、事前届出は提出されましたか』
画面に並ぶ一行の短い文面を見て、胸の奥がキリキリと痛んだ。
本来なら今週中に公社へ出さなければならなかった、氷室さんとの深層潜行の事前届出。十一件の依頼の書類作成に追われ、すっかり手が回っていなかったのだ。
「……十和田さん、氷室さんの届出、まだ下書きのままだよな」
「はい。他クランの報告書の締め切りが優先でしたから……今から出しても、公社の審査期間を考えると、来週の潜行には間に合いません」
俺は痛む指先を動かし、返信を打ち込んだ。
『志賀:申し訳ありません。公社の手続きが立て込んでおりまして、潜行日程を一週間ほど後ろに倒させていただけないでしょうか』
送信ボタンを押すと、数十秒も経たないうちに返信が返ってきた。
『氷室灯:了解しました。日程は合わせます。ですが、準備は万全にお願いします』
怒りの言葉も、責める言葉もない。ただ事実だけを受け止める淡々とした文字。
それが、かえって痛烈に突き刺さった。
「……志賀さん」
座席に座っていた十和田が、見上げるように言った。
「氷室さんの案件が、一番後回しになってますよ」
「……分かってる」
「氷室さんは志賀さんの専属契約者で、私たちの最大の雇用主です。その氷室さんとの約束を先送りにして、安く受けた他クランの仕事を優先するのって……何かおかしくないですか?」
十和田の真っ直ぐな言葉に、俺は何も言い返せなかった。
すべての人に応えようとすることが、一番大切な相手を裏切ることにつながっている。
深夜、ようやく辿り着いた六畳間のアパート。
靴を脱ぎ捨てて畳の上に座り込むと、張り詰めていた糸が切れたように体が重くなった。十和田は黙ってやかんを火にかけ、温かい麦茶を淹れてくれた。
「志賀さん、明日の午前中ですが……メイズ測量研究所の鵫原部長との面談が入ってます。七尾さんも同席する手はずになっていますから」
「ああ……そうだったな」
俺は机の端に置かれた野帳に目を落とした。
そこには、今日の日付と『北側支線:構造安定・通行可』の走り書き。その文字の横には、本来なら埋まるはずだった天井側三項目のチェック欄が、白い空白のまま取り残されていた。
明日の夜、もう一度見直せばいい。
そう自分に言い聞かせながら、俺は新しい湿布を腰に押し当てた。その空白の持つ冷酷な重みに、この時の俺はまだ気付いていなかった。




