第27話 相場という言葉
第七迷宮第六層、北工区六〇四。
見上げるほど高い岩天井から、湿り気を帯びたぬるい風が絶え間なく吹き抜けていた。足元には不揃いな玄武岩の敷石が敷き詰められ、壁面の窪みでは青白い魔素の燐光が淀んでいる。
「……志賀先生、こっちの通路で間違いありませんか」
背後から低い声をかけてきたのは、クラン・シルフィードの団長、久我山亮だった。三十四歳。がっしりとした体躯に歴戦の傷跡を残す革鎧をまとい、大剣の柄に手をかけて周囲を油断なく警戒している。
「ええ。ここは本番の第一退路として使えます。敷石の継ぎ目を見てください。黒ずみが乾いていて、微小な振動が右から左へ抜けている。組み替えの圧力が逃げている証拠です」
俺は膝をつき、指先で敷石の冷たさと隙間に詰まった砂埃の湿り具合を確かめた。耳を澄ませば、迷宮の奥底で軋むような地鳴りが微かに響いている。
「すごい……! 本当に手順書の項目四と七のとおりだ!」
感嘆の声を上げたのは、久我山の後ろに控えていた若い前衛だった。宇佐美翔、二十歳。まだ真新しい軽鎧を身につけ、背嚢からボロボロになるまで読み込まれた公社手順書の写しを取り出して熱心に見比べている。
「宇佐美、私語を慎め。先生のお仕事の邪魔をするな」
「あ、すみません! でも団長、本当に教科書どおりの反応が出てるんですよ! 敷石の温度差と排水溝の匂いの組み合わせで、通路の寿命が分かるなんて……」
無邪気に目を輝かせる宇佐美に、俺は苦笑いを浮かべた。
「邪魔なんてとんでもないよ。よく読み込んでくれているね、宇佐美くん」
「はい! 公社のデータベースに上がったその日に印刷して、毎日素読してます! 俺たちみたいな若手前衛にとって、退路があるって確信できるだけで、どれだけ足が前に出るか……!」
横でバインダーを抱えていた十和田が、誇らしげに胸を張った。
「うちの志賀さんの手順書は、現場で実際に使えるように作ってありますからね。机の上の理論とは違うんです」
「これこれ、十和田さん。威張るんじゃないよ」
俺は野帳に素早くペンを走らせた。
今回の依頼は、十日後の日曜に予定されているシルフィードの第六層巡回調査に向けた事前測量と退路確保だ。予定の同行時間は六時間を想定していたが、すでに八時間が経過していた。
第六層は、俺にとっても歩き慣れた区域ではない。十七項目のうち十六項目まで確認したところで、安全マージンにわずかな違和感が残った。床と壁の所見は一致していたが、風の抜ける周期がわずかに不規則だったのだ。そのため、無償で二時間の延長を申し出て、予備の支線まで足を伸ばしていた。
「久我山さん、地図ができました」
俺は清書したばかりの縮尺図を久我山に手渡した。
「青い実線で引いた二本が、十日後でも確実に残る退路です。万が一の閉塞時には、南側の工区六一二へ抜けてください。そして……この赤い点線、六〇四の北東支線ですが」
「こっちは通れるんですか?」
「この北東支線は四日以内に閉じる見込みです。天井の排水溝に滞留が見られます。十日後の本番では、絶対に足を踏み入れないでください。幅を持たせて『四日以内』と判定しましたが、早ければ明後日には閉塞が始まります」
「四日以内……! 分かりました、隊の作戦要領に赤字で記載しておきます」
久我山は震える手で地図を受け取り、まじまじと見つめた。
◇
地上へ帰還し、夕暮れの迷宮管理棟ロビー。
自動販売機の前のベンチに腰掛けると、腰の奥にズシンと重い痛みが走った。十和田がすかさず温かいお茶の缶を差し出してくれる。
「お疲れ様でした、志賀さん。腰、大丈夫ですか?」
「ああ、座ればなんとかなるよ。ありがとう」
そこへ、着替えと武器の返納を済ませた久我山と宇佐美が小走りでやってきた。
「志賀先生、本日は本当にありがとうございました! 予定時間を二時間も過ぎてまで丁寧に見ていただいて……」
久我山は深々と頭を下げた。
「いや、俺の確認が遅かっただけですから。延長分は請求しませんので気にしないでください」
「そんな! とんでもないです! 実はですね……うちのような中堅クランは、大手の測量会社や有名な斥候に依頼を出しても、門前払いばかりだったんです。『第六層ごときに専門家を派遣する枠はない』と鼻で笑われましてね」
久我山は悔しそうに拳を握りしめ、それから安堵の息を吐いた。
「隊員たちの命を預かる身として、ずっと胃が痛む思いでした。大手はどこもAI測量ばかり重宝して、現場の泥臭い安全なんて見てくれない。志賀先生が受けてくださって、本当に救われました」
「志賀さん! 俺、本番でも先生の図を胸ポケットに入れて歩きます!」
宇佐美が屈託のない笑顔で言った。
「項目九の『側壁の擦過痕』、俺も目を凝らして見てみます。先生みたいに、迷宮の息遣いを感じられる探索者になりたいです!」
まっすぐな敬意を向けられ、俺はくすぐったいような、居心地の悪さを覚えた。
必要とされている。
その実感が胸を温める一方で、断れない理由がまた一つ増えていく重みを感じていた。
◇
翌日、公社の近くにある七尾佳奈の事務所。
ガラス張りの応接室で、七尾さんは俺が提出したシルフィード宛の請求書の控えを見て、細い眉をピクリと跳ね上げた。
「……志賀さん」
「はい」
「この『第六層同行測量業務・一式:五万円』というのは、何の冗談ですか」
氷のように冷ややかな声だった。
「え? 冗談って……日当五万円でお願いしたんですが」
「志賀さん。あなた、ご自分の立場を理解していますか?」
七尾さんは眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、書類を机に叩きつけるように置いた。
「公社に観測手順書が正式登録され、浅層・中層の公開検証を完全的中させた技術者ですよ? 中堅クラン向けの中層同行ナビゲーションの相場は、最低でも日当十五万円からです。大手クランの遠征や、深層の事前測量ともなれば、一回で五十万円から百万円が動く世界です」
「じゅう……ごまん?」
俺は目を丸くした。
「そんな大金、うちのような個人事業主が請求できるわけないでしょう。アルゴノートの月給の半分ですよ?」
「アルゴノートの搾取価格を基準にするのをやめなさい! 相場を破壊するような安値で受けることは、業界全体の秩序を乱すだけでなく、あなたの時間を安売りして体力をすり減らすだけです!」
七尾さんに鋭く一喝され、俺は縮こまった。
「は、はあ……でも、もう五万円で請求書を出してしまいましたし……次から考えます……」
「まったく……十和田さん、あなたからも言ってやってください」
「私も散々止めたんですけど、志賀さんが『相手に悪い』ってきかなくて……」
十和田が肩をすくめた。七尾さんは額を押さえて深いため息をついた。
「いいですか。相手は命を買っているんです。相応の対価を払う覚悟のある相手とだけ付き合わなければ、あなたの体がいくつあっても足りませんよ。早急に料金表と標準契約書を作ります。それまで新規の契約は一切結ばないでくださいね」
◇
事務所を出てアパートに戻ると、すでに夜の九時を回っていた。
届出書類の下書きを始めようとしたところで、机の上の携帯電話が短く振動した。
画面には『氷室灯』の文字。
「もしもし、氷室さん。どうしました?」
『志賀さん。今、七尾さんから聞きました』
受話器から流れてきたのは、いつもの抑揚のない、しかしどこか芯の硬い声だった。
『中層同行を、五万円で受けたというのは事実ですか』
「あ、ええと……はい。シルフィードさんの件ですね」
電話口の氷室さんは、数秒の沈黙の後、短く言い放った。
『安いです』
その言葉の響きに、俺は思わず第十層の潜行契約を結んだ日のことを思い出した。あの時も、彼女は俺の提示した金額に対して、まったく同じ調子で「安いです」と言い切ったのだ。
『志賀さんの観測は、迷宮で死なないための技術です。五万円で命を買えるなら、誰も苦労しません』
「いや、でも相手は中堅のクランですし、俺もまだ駆け出しの個人事業主ですから……」
『値段をつけないのは、相手への親切ではありません。志賀さんの時間が奪われれば、私の潜行計画にも影響が出ます。志賀さんの体は一つしかありません』
「う……」
『来週、契約書の見直しを七尾さんと行います。失礼します』
それだけ告げて、通話は一方的に切れた。
「……安いです、か」
受話器を置き、俺はぽつりと呟いた。
七尾さんも、氷室さんも、十和田も、みんな同じことを言う。
頭では分かっているのだ。だが、十四年間「お前の代わりなどいくらでもいる」と言われ続けてきた中年の心には、十五万円という数字はあまりにも重く、恐ろしかった。
相場から目を背けたまま、俺は痛む腰をさすり、深夜の書類仕事へと戻っていった。




