第26話 問い合わせ二十七件
審査会の翌週、月曜日の朝。
六畳間の真ん中に置いた折りたたみ机の上は、早くも手狭になっていた。
ノートパソコンの画面には、手順書の公社登録を受けて開設した問い合わせフォームが表示されている。その脇には、公社へ提出する事前届出書の用紙束と、第七迷宮浅層の観測野帳のコピーが積み上がっていた。
「……志賀さん、また増えてます」
机の向こうで正座した十和田結が、掠れた声を出した。
「朝の時点で、未読が二十七件になりました」
「……二十七?」
俺はインスタントコーヒーのカップを持ったまま固まった。
「先週の焼肉の夜は、確か五件だったよな」
「金曜日に公社の『局所構造変動・観測手順書』が一般公開された途端、土日で一気に跳ね上がりました」
十和田はパーカーの袖をまくり、スプレッドシートを開いた。
月額十五万円で弟子兼スタッフとして正式に雇って数日。彼女の事務処理能力は目覚ましかった。俺が紙と頭の中だけで完結させていた雑務が、次々と電子化されていく。
「内容ごとに四つに分けました。『同行依頼』、『事前測量』、『講習開催』、そして『スカウト・技術提携』です。怪しい勧誘や無資格での深層案内といった公社規定違反の十二件は弾きました。残ったのが、この十五件です」
十和田がまとめたリストには、見覚えのある名が並んでいた。画面のメールを一つ開く。
『拝啓 公社登録の手順書を拝読いたしました。当クランにおきましては、来月の第六層巡回に際し、志賀先生の卓抜した観測技術による退路確保を賜りたく――』
「……先生」
思わず背筋がぞわぞわして首を縮めた。
「十和田さん、先生なんて勘弁してくれよ。先月までアルゴノートで荷物持ち扱いだったんだぞ」
「公社に登録された専門技術者なんですから堂々としてください。ほら、この三件なんて特に切実です」
十和田が画面のセルを黄色く強調した。
『【中道ナビゲーション依頼の件】クラン・シルフィード 団長・久我山亮』
『【深層事前測量に関するご相談】蒼天騎士団 渉外担当・桐生澪』
『【所属契約・技術提携の打診】株式会社メイズ測量研究所 営業部長・鵫原伸行』
「シルフィードは第六層から第八層が主戦場の中堅実力派です。蒼天騎士団は大手の一角。メイズ測量研究所は地図や機器を開発している民間企業ですね」
氷室さんからの専属ナビ報酬、月額百五十万円。十和田の給与と経費を引いても十分な額が手元に残る。先週は配信の初収益十二万八千円も入った。金銭的に焦る必要はない。
だが文面からは、第六層の急な組み替えに苦しむシルフィードの切迫した空気が滲んでいた。
「……困ってるんだな」
「志賀さん」
十和田がジト目を向けた。
「頼まれると断れない性格なんですから自重してくださいよ。私たちのリソースは有限なんですから」
「分かってるよ。でも、頼ってきた人たちを門前払いするわけにはいかないだろう」
「……そう言うと思いました」
十和田はため息をつきつつ笑った。
「じゃあ、講習や日程の合わない遠征はお断りして、現地確認が必要な案件に絞りましょう。それでも十一件あります」
「十一件か。よし、電話で話を聞いてみよう」
◇
午後一番、俺は携帯電話を耳に当てた。
まずは一件目、クラン・シルフィードの久我山亮氏。
『もしもし! シルフィードの久我山です!』
現場叩き上げらしい太い声が響いた。
「初めまして、地図屋の志賀です。問い合わせをいただきまして」
『志賀さん! ありがとうございます! 来週後半に第六層の巡回調査があるのですが、先月の組み替え以降、北側通路の挙動が怪しくて退路が読めないんです。十三日後の本番に先立ち、事前測量か同行をお願いできませんか』
「第六層の北側ですね。あそこは第五層からの排水脈で敷石の熱変化が出やすい区画です。本番前に一度歩いて、退路の候補を二本ほど特定しておくのが安全だと思います」
『おお……! やはり話が早い! ぜひお願いしたいです!』
久我山氏が弾んだ声を上げ、少し改まった調子で続けた。
『それで……大変不躾ですが、お見積もりはいかほどでしょうか。当方のような中堅クランの手が届く額なのかどうか……』
見積もり。その言葉に喉が詰まった。
値付けなどしたことがない。アルゴノートの十四年間、手取りは二十八万円前後。日給ならせいぜい一万円程度だ。
(……いくらと言えばいいんだ?)
向かいで十和田が『相場は高めに!』とメモを掲げている。だが氷室さんの月額百五十万円は特例だ。普通の中堅クランに吹っ掛けられるはずがない。高額を言って断られるのも怖かった。
「ええと……」
俺は唾を飲み込み、靴の損耗や日当を計算した。
「浅層の事前測量は三万円でお願いしているのですが、今回は中層の第六層で一日拘束になりますので……日当として、五万円ほど頂戴できればと。ご予算的に厳しいでしょうか」
受話器の向こうが完全に沈黙した。
(……高すぎたか?)
「あの、ご無理でしたら四万円でも――」
『ち、違います! とんでもない!』
割れんばかりの大声が返ってきた。
『ご、五万円!? 一日五万円で志賀先生が来てくださるんですか!?』
「は、はい。俺でよろしければ」
『聞き間違いじゃないですね!? 諸経費は別ですよね!?』
「いえ、交通費実費だけで結構ですが……」
『受けます! ぜひお願いします! 日程は合わせますので!』
久我山氏は熱烈に捲し立てて通話を終えた。
「……ふう。怒られずに済んだよ」
胸を撫で下ろすと、十和田が頭を抱えていた。
「志賀さん……中層同行で日当五万円って本気ですか? 安すぎます! 相場のわけないでしょう!」
「相手の顔も知らずにふっかけるのは性に合わないんだよ。次行こう、蒼天騎士団だ」
二本目、蒼天騎士団の渉外担当・桐生澪氏。理知的な女性の声だった。
「第十層手前の構造安定性調査ですね。浅層なら三万、中層の観測が絡むなら日当五万円でお願いできればと……」
『……左様でございますか』
桐生氏は一瞬息を呑んだが、すぐに冷静に応じた。
『破格のご提示、恐れ入ります。社内手続きを進め、日程候補を送付いたします』
その後も連絡を重ね、結果として十一件(浅層事前測量六件、中層測量・同行五件)を引き受けることになった。すべての日程をカレンダーに落とし終えた頃には、夕方五時を回っていた。
「全部決まったぞ。困ってる人の力になれて誰も損してないじゃないか」
俺が笑うと、十和田は青ざめた顔でカレンダーを見つめていた。
◇
その日の深夜。
アパートの台所で、もやしとネギだけの袋ラーメンを二つの丼に分けた。
「十和田さん、飯にしよう」
「……いただきます」
十和田はノートパソコンの画面を見つめたまま箸を取った。画面には、彼女が作った『三週間分の運行計画表』が映し出されている。
色とりどりの帯で埋まった表を見て、俺は箸を止めた。
「……これは?」
「志賀さんが今日受けた、十一件のスケジュールです」
十和田の声は平坦だった。
「手順書登録技術者として潜る以上、全案件に『事前届出書』と『事後観測報告書』の提出が義務付けられています。事前届出は七十二時間前、事後報告は帰還後四十八時間以内です」
十和田が画面を指差す。
「火曜は第四層、水曜は第三層、木曜は第六層。金曜は公社窓口で報告書三件提出。土曜は別クランの第五層同行、日曜は報告書作成。そして十三日後、翌週の日曜がシルフィードさんの第六層本番です。現場だけで三週間のうち十四日。書類作成と窓口提出が合計二十二回発生します」
「にじゅう……に?」
「はい。現地を歩く時間より、書類を書いて役所へ走る時間のほうが長いんです。四十八時間以内にログを出さなければ登録停止処分になります。予備日はゼロです」
十和田がじっと俺を見た。
「志賀さん、これ数字の上で完全に破綻してます。睡眠時間を削らないと回りません」
「う……」
言葉に詰まる。だが、頭の中で経験が勝手に言い訳を探した。
「だ、大丈夫だよ。移動の電車で野帳を整理するし、書類は十和田さんが手伝ってくれるんだろう? 昔アルゴノートにいた頃はこれくらい普通だった」
「昔は事務員が全部やってたでしょう! それに腰……また痛むんじゃないですか? 湿布で誤魔化せませんよ」
「コルセットを巻けば歩けるさ。頼りにしてくれた人たちを裏切るわけにはいかないよ」
俺は笑ってスープを飲み干した。
十四年間、底辺で使い潰されてきた男が、いま自分の名で請われ、誰かの役に立とうとしている。その高揚感が警告を麻痺させていた。
丁寧に歩き、正確な図を渡せばいい。安く引き受けて全力で応えれば、誰も傷つかない。そう信じて疑わなかった。
「……わかりました」
十和田は小さく息を吐いた。
「私も契約社員ですから、死ぬ気で書類を作って窓口へ走ります。でも志賀さん、一つだけ約束してください」
十和田は真剣な眼差しで俺を見据えた。
「現場での観測だけは、絶対に手を抜かないでください。時間を気にして手順を飛ばすようなことだけは、絶対にしないでくださいね」
「当たり前だろ」
俺は笑って答えた。
「俺から地図と観察を取ったら、何も残らないんだから」
隙間なく埋まったカレンダー。
自ら削り落とした『余白』が、やがて取り返しのつかない亀裂を生むのだと、この時の俺はまだ微塵も知らなかった。




