第25話 焼肉と看板
審査会から一週間が経った、日曜日の午後。
六畳間のアパートの机の上で、古びたノートパソコンの画面を見つめていた。
「……志賀さん、出ましたよ!」
横から身を乗り出した十和田が、マウスのホイールを弾いた。
第二章の第十層遠征アーカイブを公開した直後、七尾さんが申請を出してくれていた配信プラットフォームの収益化審査。その承認通知とともに、管理画面のダッシュボードに初めての数字が表示されていた。
『当月推定収益額:十二万八千四百円』
画面を見つめたまま、俺は思わず息を呑んだ。
「……十二万?」
「すごいです志賀さん! 中層検証の切り抜き動画がバズったおかげで、過去のアーカイブまで一気に再生数が回ってます! ほら、広告収益だけで八万、検証配信の時のスーパーチャットが四万八千円入ってます!」
十和田が自分のことのように飛び跳ねて喜んでいる。
十二万八千円。
生活を劇的に変えるような大金ではない。だが、アルゴノートを追い出されて以来、細々と小遣い稼ぎ程度にしかならなかった配信が、初めて目に見える『仕事』として実を結んだ瞬間だった。
「……十和田さん」
「はい?」
「今日、空いてるかい」
「え? 空いてますけど……」
「氷室さんを呼ぼう。飯を食いに行くぞ。奢りだ」
「えっ、本当ですか!? やったあ!」
◇
駅前商店街の路地裏にある、大衆焼肉店。
煙の立ち込めるボックス席の網の上で、分厚い牛タンとカルビが小気味よい音を立てて脂を弾いていた。
「う、美味い……! 牛タンってこんなに柔らかいんですか!」
十和田が頬を染めて叫び、レモンだれをつけた肉を口いっぱいに放り込んでいる。
その正面では――。
「カルビ十人前、ハラミ五人前、白米大盛り、追加をお願いします」
氷室さんが一切の表情を変えずに、店員へ淡々と驚異的な追加注文を告げていた。すでにテーブルの端には、空になった肉の平皿がうずたかく積まれている。
「氷室さん、相変わらずいい食いっぷりですね……」
「迷宮探索はカロリーを消費します。食べられるときに摂取するのが生存の基本です」
無表情なまま、山盛りのご飯の上にタレ漬けカルビを三枚同時に載せ、見事な手つきで口に運ぶ。地上での生活能力は壊滅的だが、食事に対する姿勢だけはどこまでも合理的だった。
トングを持つ手付きすら、まるで深層の魔獣を仕留めるかのように無駄がない。
「志賀さん、公社の常設帯同登録、おめでとうございます。これで次の潜行計画が立てやすくなりました」
「ありがとうございます。氷室さんのおかげですよ」
俺は冷えたビールを一口煽り、コップを置いた。
そして、隣でトングを握りしめている十和田に向き直った。
「……十和田さん、少し改まった話があるんだ」
「ふぇ? な、なんですか?」
肉を噛みしめていた十和田が、目を丸くして動きを止めた。
俺は胸ポケットから、七尾さんに相談して作成してもらった一枚の契約書を取り出し、テーブルの上に置いた。
「十和田結さん。俺の事務所――といってもこのアパートだけど、そこの専属スタッフ兼弟子として、正式に働いてくれないかい」
「……え?」
十和田の手から、トングがぽろりと落ちた。
「業務内容は三つ。第一に、深層潜行時の記録係。第二に、公社へ提出する事前届出書および観測報告書の作成管理。第三に、配信のコメント管理とアーカイブ編集だ。そして最も重要な条件として、迷宮内では俺の退路指示に絶対従うこと」
俺は契約書の給与欄を指差した。
「固定給として、月額十五万円を支払う。氷室さんからの専属ナビ報酬と、今回の配信収益を合わせれば、無理なく払える金額だ。社会保険の手続きは七尾さんの事務所が代行してくれる」
「じゅう、ごまん……」
「今まで無給で手伝わせて悪かった。公社の記録義務を一人で回せない俺には、君の手がどうしても必要なんだ。君がいてくれなければ、あの手順書は完成しなかった。……弟子にしてくれって話、ずっと返事を待たせて悪かったね」
十和田は契約書を見つめたまま、微動だにしなかった。
やがて、その大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。
「……私、ずっと足手まといだと思ってました。あの第五層で志賀さんに助けられて、勝手に押しかけて……迷惑なんじゃないかって」
「迷惑なわけないだろう。あの手順書を形にしてくれたのは君だ」
「はい……。私、一生ついていきます。書類も配信も、全部完璧にやってみせますから」
十和田は袖で涙を拭いながら、力強く頷いた。
その様子を黙って見ていた氷室さんが、もぐもぐと肉を飲み込み、真顔で財布を取り出した。
「志賀さん。十和田さんの給与の半分を、私が負担しましょうか」
「いやいや氷室さん! なんでそうなるんですか、俺が雇うんですから!」
「優秀な記録係の確保は、私の安全マージンに直結します。先行投資として合理的です」
「結構です! そういうややこしいことはやめてください!」
慌てて断る俺の姿に、十和田が涙を浮かべたまま吹き出した。
煙に燻されながら、三人で笑い合う。
かつてすべてを失ったと思っていた中年が、人を一人雇い、責任を持つ側になった。胸の奥に、小さく温かい火が灯るのを感じていた。
――もっとも、最後にお会計の伝票を見た瞬間、氷室さんの食べた肉の総額に俺の顔は真っ青になったのだが。
◇
焼肉屋からの帰り道。
夜風に当たりながら、俺と十和田は並んで歩いていた。
スマホの画面を開くと、配信チャンネルのコミュニティ欄には、常連となったリスナーたちからの温かい書き込みが並んでいた。
『おじさん、中層立会お疲れ様!』
『次の配信いつですか? 気長に待ってます』
『手順書公開してほしいくらい面白かった』
かつて誰にも見向きもされず、数字すら動かなかった配信。そこに、自分を待ってくれている人々の居場所が確かに出来ていた。
「……ん? 志賀さん、これ見てください」
十和田が足を止め、端末の問い合わせ管理画面を開いた。
「公社の登録リストに志賀さんの名前が載ったからでしょうか……問い合わせフォームに、何件かメッセージが届いてます」
「え? メッセージ?」
画面を覗き込むと、そこには見知らぬクラン名がずらりと並んでいた。
『【中道ナビゲーション依頼の件】クラン・シルフィード』
『【深層事前測量に関するご相談】蒼天騎士団』
『【所属契約・技術提携の打診】株式会社メイズ測量研究所』
「……なんだこれ」
「志賀さんの手順書を見て、中堅クランから同行や調査の依頼が来てるみたいです! すでに五件も……!」
公認の記録を手に入れた途端、外の世界が急激に動き出していた。
断れない性格の俺の頭上に、早くも新たな厄介ごとの気配が漂い始めている。
「……十和田さん、これの返信も頼んでいいかい」
「はい! まずは怪しいスカウトや無茶な案件を全部弾いておきますね。志賀さんは地図のことだけに集中してください」
胸を張る頼もしい弟子の声に苦笑しながら、俺は夜空を見上げた。一人では抱えきれなかった重荷を、こうして誰かと分け合える日が来るとは思わなかった。
◇
都心の大手クラン『アルゴノート』本部ビル。
地下の装備整備室に重苦しい沈黙が淀んでいた。アルゴノートの現場を預かる榊久史は、オイルの染みた布で無言のまま刃を拭っていた。
「……榊さん」
現れたのは第一探索隊の主力前衛を務める探索者だった。右腕に痛々しいギプスが巻かれている。
「大友か。腕の様子はどうだ」
「全治三ヶ月です。来月の第十三層遠征は出られそうにありません」
大友は唇を噛み、押し殺した声で言った。
「あの時、オルタマップは退路正常と表示し続けていました。でも実際は二時間前から閉塞が始まっていた。志賀さんがいた頃なら、あんな引き際の見誤りは絶対にあり得なかった」
榊は何も答えず、作業台を見つめた。
「隊員の間でも不満が出ています。AIに切り替えてから深層での判断が遅れている。鷺沼団長は学習コストだと突っぱねていますが……次は死人が出ますよ」
「……分かっている」
大友が去った後、乾いた靴音とともに団長の鷺沼恭平が現れた。端正なスーツ姿に自信満々の笑みを浮かべている。
「榊、まだいたのかね。来月の第十三層遠征だが、大友の離脱に伴い日程を二週間ほど後ろに倒すことにした。スポンサーにはより万全を期すための戦略的日程調整と説明してある。株価も順調だ」
「……遠征の見送りか」
「見送りではない、調整だ」
鷺沼は軽やかに笑った。
「オルタマップの改修も進んでいる。現場の些細な不協和音など、次の成功で消し飛ぶさ」
内側の亀裂を一瞥もせず、鷺沼は背を向けて去っていった。
榊は煙草をくわえ、火を点けた。紫煙の向こうを見つめ、苦い呟きを漏らす。
「……道久。お前が抜けた穴は、思っていた以上に深いらしいぞ」




