第24話 記録に残らない仕事
迷宮管理公社関東支部、本館三階の第一審査会室。
重厚なマホガニーの円卓を囲むように、数名の審査委員たちが居並んでいた。机の中央には、宮原補佐が作成した『暫定検証結果報告書』と、柏木課長の決裁印が押された分厚いファイルが置かれている。
張り詰めた空気の中、議長を務める初老の男が眼鏡の位置を直し、手元の資料に厳格な目を落とした。
「……それでは、審査番号七〇四号。志賀道久氏に対する口頭ナビゲーション救助事案、ならびに臨時帯同許可の事後審査について、採決に入ります」
議長は顔を上げ、静かな視線を俺に向けた。
「三件の現場検証記録は確認しました。浅層二件、中層一件。いずれも事前封緘された予測枠内での変動を確認しています。特に第五層工区五一五における局所崩落の事前検知は、公社の観測史上稀に見る精度の記録であることは認めます。……柏木課長、課としての見解は」
促された柏木課長が、珍しく背筋をピンと伸ばして咳払いをした。
「はっ。当課といたしましては、志賀氏の手順は十分に客観性と再現性を備えた観測技術であると判断しております。来期の予算要求における新規重点施策のモデルケースとしても、極めて価値が高いと愚考いたします」
ちゃっかり自分の実績としてアピールするあたり、さすがは長年役所に生き残ってきた管理職だった。
だが、円卓の端に座る年配の審査委員が、苦々しい表情で口を挟んだ。
「しかし、だからと言って無資格者による口頭ナビを野放図に認めるわけにはいかない。探索者が独自の勘で他人を誘導する前例を作れば、同様の模倣者が続出し、中層や深層での遭難死が跳ね上がる恐れがある。公社の安全管理基準を私情で緩めるわけにはいかんのだよ」
正論だった。公社という巨大な組織が、得体の知れない個人の技術を警戒するのは当然のことだ。
議長が小さく頷き、一枚の書類を俺の前に滑らせた。
「そこで、条件を提示します」
書類の表題には、『特定観測手順登録ならびに活動認可に関する協定書』と記されていた。
「志賀氏。あなたの提出した『迷宮局所構造変動・観測手順書』を、公社の『検証可能手順』として正式登録します。これに伴い、前回の救助関与に関する事後審査は不問と処する。さらに、あなたの個人探索者登録を『浅層限定』から『中層可』へ区分変更し、認可隊――氷室灯の隊に対する常設帯同登録を認可します」
息を呑んだ。
中層可への区分変更。そして、氷室との潜行のたびに煩雑な審査を要した臨時帯同許可ではなく、正式な『常設帯同登録』。
これで、もうコソコソと書類の隙間を縫うように歩く必要はなくなる。
だが、議長は冷徹な声で言葉を継いだ。
「ただし、引き換えに厳格な義務を課します。今後、あなたが深層へ潜行する際は、すべての行程について事前届出書の提出を義務付ける。さらに現場で口頭ナビまたは経路誘導を行う場合は、手順書の観測ログをすべて記録し、帰還後四十八時間以内に公社へ詳細報告書を提出すること。これを怠った場合、即座に登録を抹消し、厳しい罰則を適用します」
机の上に積まれたのは、何十項目もの記入欄が並ぶ『深層潜行計画書』と『観測実績報告書』の束だった。
息が詰まるような事務手続きの山。
誰にも知られず、気の向くままに迷宮を歩いていたかつての自由は、完全に失われる。公社の監視下に入り、歩いた一歩一歩を書類にして差し出さなければならないのだ。
「……志賀氏。この条件を呑めますか。拒絶するなら、帯同許可は永久凍結となります」
俺は机の上の書類の束を見つめた。
迷いはなかった。条件の中身は、俺が二十年間やってきたこと――石を見て、風を感じ、安全な道を選ぶ作業を、ただ紙の上に書き出すだけのことだと気づいていたからだ。
「……お受けします。すべての記録と報告を怠りません」
深く頭を下げた。
議長が小さく頷き、木槌を鳴らした。
「異議なしと認めます。本件、条件付きにて認可決定とします」
◇
審査会が終わり、公社庁舎の長い廊下を歩いていた。
窓から差し込む夕日が、磨き上げられたリノリウムの床を赤く染めている。
隣を歩く宮原補佐は、分厚いファイルを脇に抱え、いつも通りの早足だった。
「……お疲れ様でした、志賀さん。これで堂々と深層へ入れますよ」
「宮原補佐、本当にありがとうございました。全部、あなたが枠を作ってくれたおかげです」
「礼には及びません。私は公社の記録を守っただけです」
彼女は正面を向いたまま、淡々と言った。
「これで、あなたが何もしなかった日のことも、すべて記録に残るようになります」
「……何もしなかった日、ですか」
「ええ。地図屋の仕事とはそういうものでしょう」
宮原補佐は足を止め、夕暮れの窓の外――第七迷宮の巨大な大穴を見下ろした。
「事故が起きなかったこと、迷わずに帰ってこられたこと、誰も怪我をしなかったこと。それらはすべて、現場では『何事も起きなかった退屈な一日』として片付けられます。事故が起きなければ、誰の手柄にもならない。それが、記録に残らない仕事です」
胸の奥を、静かに突かれた気がした。
アルゴノートにいた十年間、俺はずっとそうやって歩いてきた。何事もなく帰還するたびに、「今日も楽な遠征だったな」と笑われ、地図屋など不要だと切り捨てられた。
「でも、今日からは違います」
宮原補佐は眼鏡の縁に指を添え、俺を振り返った。
「あなたの手順書と報告書がある限り、あなたが事故を防いだという事実は、公社の公的データとして永遠に残り続けます。それは、あなた自身を守る盾にもなるはずです」
「……盾、ですか」
「ええ」
彼女は再び歩き出し、玄関ホールの手前でふと足を緩めた。周囲に誰もいないことを確かめるように声を潜める。
「……それから、志賀さん。一つだけ、頭の隅に置いておいてください」
「はい?」
「最近、深層でのAI測量の精度について、公社の内部で何か報告が上がっているらしいのです」
それだけ言うと、彼女は「では、報告書の提出をお忘れなく」と踵を返し、足早に去っていった。
俺はその背中を、ただ見送るしかなかった。
◇
アパートへ戻る道すがら、十和田が横で嬉しそうに飛び跳ねていた。
「やりましたね志賀さん! 中層可ですよ、常設帯同ですよ。これで氷室さんとの潜行も堂々と行けます」
「ああ、本当に首の皮一枚つながったよ」
「首の皮一枚なんてものじゃないです。公社の公認技術ですよ」
だが、アパートの六畳間に戻り、公社から手渡された書類の束をコタツの上に広げた瞬間、俺たちの歓声はぴたりと止まった。
『事前届出書(様式十二号・正副二部)』
『観測データ転送票(様式十六号)』
『緊急時口頭指示履行調書(様式二十一号)』
何十枚もの複写用紙。各所に配置された詳細な記入項目。
「……これ、全部書くのか」
俺は思わず頭を抱えた。
「潜行前のルート申請に二日、帰還後の観測データ清書に三日……俺一人じゃ、地図を描く前に書類の山に埋もれて餓死するぞ」
机仕事の恐ろしさに青ざめる俺を見て、十和田が呆れたように吹き出した。
「あはは! 何言ってるんですか、志賀さんには私がいるじゃないですか」
「え?」
「私、公社の書類整理くらいならお手の物ですよ。今日の観測記録だって、全部手順書の番号順に清書してありますし」
十和田は誇らしげにバインダーを叩いてみせた。
その頼もしい姿を見つめながら、俺はふと、昔のことを思い出した。
「……そういえば」
「何ですか?」
「いや……大昔、アルゴノートに入りたての頃にも、似たような報告書を書いた気がするな、と思ってね」
ぽつりと呟いて、自分で小さく笑った。
「深層の組み替え周期と、AIの誤差についての報告書だ。鷺沼さんに提出したはずなんだけど……まあ、ただの下っ端の独り言だったから、引き出しの奥で埃でも被ってるだろうさ」
「えー、志賀さんの書いた報告書なら、絶対役に立つはずなのに。もったいないです」
「昔の話だよ」
俺は笑って手を振り、山積みの書類を十和田の前に押しやった。
「とにかく、この書類だ。十和田さん、手伝ってくれるかい」
「任せてください。きっちり整理してみせますから」
腕まくりをして書類に取り掛かる少女の姿を見ながら、俺は肩の力を抜いた。
自由を差し出し、記録という責任を背負った。
だが、その重みのおかげで、俺の足元には確かな居場所ができ始めていた。




