第23話 第五層の立会
審査会まで、あと三日。
第七迷宮第五層――中層への境界階段を下りた瞬間、周囲の空気が一変した。
浅層のじめじめとした湿気とは異なり、肌をちくちくと刺すような魔素の熱気が漂っている。天井は高く抜け、巨人のあばら骨のような黒い玄武岩の柱が等間隔に連なっていた。
「……ここから先が中層か」
首筋を伝う汗をぬぐう。個人登録が浅層限定の俺にとって、本来は立ち入りが許されない禁足地だ。今回は公社の検証立会という特例措置によって、臨時の通行が認められていた。
「志賀さん、足元に気をつけてください。第四層とは石の密度が違います」
後ろを歩く十和田がバインダーを抱えながら周囲を警戒する。かつて第五層で遭難しかけた記憶があるはずだが、その足取りに迷いはなかった。
さらに後方には、重いスキャナー機材を背負った汐見技官と二名の測量員が続く。汐見技官の表情は、第四層のとき以上に険しかった。
「……当課のAI『オルタマップ』の予測値が出ました」
汐見技官がタブレットの画面を掲げる。
『第五層・南工区五〇八。向こう十二時間以内の天井崩落確率七十八%』
「南工区五〇八は、ここから南へ三百メートルの主通路です。過去の探索クランの通行頻度と魔素濃度推移から算出された最適予測です」
「そうですか」
俺は短く応え、周囲の壁面へ視線を巡らせた。俺の感覚が捉えているのは南ではない。
「……十和田さん、手順書の観測を始めよう」
「はい!」
玄武岩の柱の根元に膝をつく。
「手順書第一段階、床反響。……反響音、極めて低い。圧縮ではなく下層からの引き込み。第二段階、接合亀裂。柱の北側基部に幅〇・五ミリの微細クラック。剥離粉塵は白」
十和田が素早くペンを走らせる。
「第三段階、気流と匂い。風速秒速一・五メートル、硫黄臭の上昇気流あり。……判定フローに移る。柱の配列が西へ偏心している。組み替えの起点は南じゃない」
俺は立ち上がり、北西に伸びる細い側道――『工区五一五』を指差した。
「北西の五一五工区。西壁の倒壊と、それに伴う通路の屈曲閉塞が起きる」
汐見技官が眉を跳ね上げた。
「工区五一五? 志賀氏、そこは過去半年間、一切の変動がない安定区画です。AIの算定モデルでも変動確率は四%未満。あり得ません」
「手順書の全項目が、ここに応力が集中していると示しています」
俺は十和田から予告書用紙を受け取り、ペンを走らせた。
『予測事案:第七迷宮第五層・工区五一五』
『変動形態:西側壁の倒壊による通路屈曲閉塞』
『発生予測時刻:本日十六時から二十時の間(暫定マージン前後八時間)』
宮原補佐が書き加えた幅の欄も含め記入し、封筒に公印と署名を施した。
公社の誇る最新AIの『南工区五〇八』か。中年地図屋が石を叩いて導いた『北西工区五一五』か。完全な真っ向勝負だった。
◇
検証地点を見下ろす高台の安全区画。
公社の仮設観測テントの前にパイプ椅子が並べられていた。
午後六時。刻一刻と時間が過ぎていく。
坑口側の通信所から、柏木課長が重い足取りで合流してきた。
「おい汐見、まだなのか。第五層の立会は危険手当も跳ね上がるんだ。無駄骨なら早く引き揚げたいんだが」
「課長、AIの予測枠である『向こう十二時間』はあと二時間で満了します。南工区五〇八に異常な魔素集積は確認されていません」
南工区の数値は横ばいのままだった。
一方、俺たちが観測した北西工区五一五の監視モニターも、不気味な静寂を保っていた。
「……志賀さん、本当に動くんでしょうか」
十和田が小声で尋ねてきた。
「私の記録、どこか間違ってなかったでしょうか」
「十和田さん。迷宮は誰が正しいかなんて気にしてくれないよ。俺たちが測った数字に嘘はない。信じて待つだけだ」
不安はあった。外せば昨日宮原補佐が作ってくれた幅つき的中も吹き飛ぶ。二度と迷宮に入れなくなる。
だが、手順書がある。自分一人で抱えていた勘を十七の項目として書き出したのだ。自分の不安を理由に前言を撤回したら、手順書への裏切りになる。
時計の針が、午後六時四十分を指した。
その時だった。
ピピッ、ピピッ――!
汐見技官の端末から、けたたましいアラートが鳴り響いた。
「変位センサー感知!」
測量員が叫んだ。
「南工区か!」
「いえ……北西、工区五一五です!」
「なんだと!?」
ズズズズ……と大地を揺るがす地響きが足元から伝わってきた。岩盤が裂ける破壊音。
テントを飛び出し、高台の手すりから見下ろす。
北西の側道――巨大な玄武岩の板が内側へ倒れ込み、轟音とともに土煙を噴き上げた。通路はへの字に大きく屈曲し、完全に人の通行を遮断した。
――西側壁の倒壊による、通路屈曲閉塞。
発生時刻、午後六時四十二分。予測枠内、まさに中央値での発現だった。
一方の南工区五〇八は、小石一つ落ちてこない。AIの予測は完全に空振りだった。
静寂がテントの周りを包み込んだ。
柏木課長が口を半開きにして固まり、汐見技官は端末を握りしめたまま微動だにしなかった。青白い顔に衝撃が張り付いている。
「……AIの変動確率、四%未満の区画……完全一致……。そんな、馬鹿な……」
やがて汐見技官は我に返ったように背筋を伸ばし、ジュラルミンケースから封緘書を取り出した。
「立会人として開封します。封印の破損なし、署名の同一性を確認」
ペーパーナイフが封を切る乾いた音が、静まり返ったテントの前に響いた。汐見技官は予測書を広げ、声の震えを押し殺しながら読み上げた。
「『第五層・工区五一五。西側壁の倒壊による通路屈曲閉塞。発生予測時刻、十六時から二十時の間』……実際の発生は十八時四十二分。区画、変動形態、時刻のいずれも一致です。暫定マージンを用いるまでもない、予告枠のほぼ中央での的中です」
俺は手元の記録用紙を探した。
「十和田さん、発生時刻と変位角、記録したか?」
「あ、はい! 六時四十二分、西壁の傾斜角はおよそ四十五度で止まっています!」
「よし、崩落面のスキャンデータも公社からもらおう。手順書の裏付けになる」
淡々と記録を取る俺の姿を見て、柏木課長が呟いた。
「……おいおい、勝ったんだぞ。飛び跳ねて喜ばんのかね」
「いえ……喜ぶことじゃありません。迷宮がいつも通り動いただけですから」
俺は小さく首を振った。勝ち誇る気はなかった。AIが外れた理由も分からないし、俺の技が万全だとも思っていない。今日この場所で、手順書が迷宮の呼吸を捕らえられた。その事実だけで十分だった。
◇
中層坑口の公社仮設テント。
検証終了の手続きを終え、撤収の準備が進められていた。
パイプ机で荷物をまとめていると、汐見技官が近づいてきた。唇を引き結び、視線を彷徨わせている。
「……汐見技官?」
彼はおずおずと、タブレットを胸の前に抱え直した。
「……志賀さん」
その呼び方に、俺は目を見張った。『志賀氏』ではない。『志賀さん』と呼んでいた。
「……一つ、伺ってもよろしいですか」
「はい、何でしょう」
「手順書の第四項目……『柱の偏心と魔素滞留の相関』についてです」
汐見技官は真剣な眼差しで、画面の手順書を指差した。
「オルタマップの数理モデルは、通路内の総魔素量だけをパラメータとして処理していました。しかし志賀さんは、柱の傾きによって生じる『局所的な淀み』を見ていた。……あれは、どうやって数値化されたのですか」
敵意は消え去っていた。そこにあったのは、未知の測量技術に直面した技術者の純粋な渇望だった。
「数値化なんて大層なものじゃありませんよ。二十年間、毎日同じ迷宮を歩いていれば、風の抜け方がおかしい場所くらい気付きます」
「……二十年、ですか」
汐見技官は深々と息を吐き、静かに頭を下げた。
「自分たちのモデルの未熟さを痛感しました。完敗です」
「いや、俺の手順書だって宮原補佐に幅を作ってもらわなければ成立しなかった。お互い様ですよ」
俺が苦笑すると、背後から柏木課長が上機嫌で歩み寄ってきた。
「いやあ志賀さん! 見事だったね! 中層での事前予測的中、しかも公社の公式立会だ。これは測量課の大きな実績になる。早速、本庁への報告書にまとめさせてもらうよ」
手のひらを返したような笑顔。だが、それでいいのだ。官僚が利用価値を認めてくれたからこそ、俺の技は制度の中で生き残ることができる。
片隅でスマホを確認していた十和田が、突然素っ頓狂な声を上げた。
「うわっ……志賀さん、これ見てください!」
「ん? どうした?」
画面を覗き込むと、配信の同接数が信じられない数字を叩き出していた。
『同時接続数:1,840人』
普段の十数人しかいなかった配信とは桁が二つ違っていた。掲示板やSNSで公社立会のクリップが急速に拡散されているらしい。
『おいマジで第五層当てたぞ』
『公社のAIが外して予言おじさんがドンピシャ的中させた』
『切り抜き見たけど技官全員固まってて草』
『このおっさん何者だよ、元アルゴノートってマジ?』
濁流のように流れるコメント。評価の反転が、公社の狭いフロアを越えて探索者たちの世界へと広がり始めていた。
「……十和田さん、画面閉じて」
「えっ、なんでですか! こんなに盛り上がってるのに!」
「目が回る。俺はただの地図屋だ」
俺は苦笑しながら機材のバッグを肩に担いだ。
中層の検証は通った。だが、本当の審判は二日後の審査会だ。俺の技が公的に認められた時、俺の生活は何処へ向かうのか。
かすかな期待と重圧を感じながら、俺は地上へ続く階段を見上げた。




