第36話 第十一層の四日間
午前六時。第七迷宮の公社前メインゲートは、冷たい朝靄に白く煙っていた。
遠征用リュックの胸元を締め直す俺の隣で、身の丈ほどの大剣を担いだ氷室灯さんが静かに佇んでいる。これから深層へ潜るという気負いも恐怖もなく、散歩に出かけるかのような平然とした横顔だった。
「志賀さん、荷物の重量バランスは大丈夫ですか」
「うん、問題ないよ。腰のサポーターも新調したし、ブロック注射の効果も残ってる」
ゲートの手前で、十和田結がタブレット端末を胸に抱え、落ち着かない様子で足踏みをしていた。
「十和田さん、四日間留守にするけれど、事務所のことはよろしく頼むね」
「はい! 蒼天騎士団様の中間報告データと、公社様への提出書類の最終版は机の上に揃えてあります。それ以外の新規の問い合わせについては……」
「急ぎの案件が来ても、即答は避けて『担当者不在のため保留』と伝えてくれればいいから」
「……保留、ですね」
十和田が短く繰り返した。その瞳に微かな躊躇の色がよぎる。
保留と言えば聞こえはいいが、実質的には機会の破棄だ。三日も待たされれば相手は別のマッパーを探すか無謀な強行軍に出る。保留とは時には相手の反感を買うことだと、十和田も肌で感じているのだ。だが、今の俺には彼女に断る権限を渡す準備ができていなかった。判断の基準をまだ教えていないのだから。
「……じゃあ、行ってくるよ」
「はい! ご無事で!」
十和田に見送られ、俺と氷室さんは坑道へと足を踏み入れた。
◇
潜行一日目の夕刻。俺たちは第九層の最深部、境界ゲートの前に到達した。
足元には公社が敷設した高圧魔素ケーブルの太い束が這っている。赤く点滅する中継ビーコンの前でスマートフォンを取り出すと、電波ピクトが消え、完全な圏外を示す赤い斜線へと切り替わった。
第十層以深は公社の電波が届かない絶対の沈黙領域だ。何が起きても助けを呼ぶ声は地上に届かない。
「……最後の一本、消えたな」
端末の送信トレイには、十和田宛てのメモが下書きのまま残っていた。『困ったことがあったら七尾さんに相談して』と打ちかけ、結局は消した。七尾さんに余計な負担をかけるわけにはいかない。
結局、俺は『無理しないで』とだけ送り、送信完了と同時に通信は途絶した。
「心配ですか」
背後から氷室さんが静かに声をかけてきた。
「まあね。留守番を頼むのは初めてだから。真面目だから抱え込まないかと思って」
「十和田さんは優秀です。あなたが思っている以上に」
「そうだといいんだけどね。……行こうか、氷室さん。ここからは退路の寿命管理の世界だ」
◇
第十層の空間錯乱地帯を慎重に突破し、潜行二日目の正午、俺たちは第十一層に降り立った。
頭上の天井は黒曜石のような特異岩盤で覆われ、空間全体に紫色の燐光が漂っている。距離計のレーザーを照射すると光が屈曲し、二百メートル先の壁が五十メートルと誤表示された。アナログの方位磁針も針が定まらず、不規則に回転を繰り返している。空間の歪みは第十層よりも濃密だった。
「氷室さん、まずは基準点を探そう。組み替えが起きても位置が変わらない『核』となる岩盤だ」
俺は野帳を開き、壁面に手のひらを当てた。
冷たい。だが壁の奥深くに脈打つ魔素の奔流が、皮膚を通じて微かな脈動として伝わってくる。十四年間壁に触り続けてきた感覚を研ぎ澄ます。
「……あった。この角の柱だ。花崗岩質の芯が入ってる。ここなら二週間は座標が狂わない」
特殊マーカーで公社規格の基準点記号を刻み込んだ。
探索中、氷室さんは驚くほど忠実に俺の指示に従った。人類最強と呼ばれる彼女だが、迷宮の構造に関しては一切の我を通さない。
「氷室さん、あの通路は踏まないで。床の反発が柔らかすぎる。五分以内に反転陥没が起きる」
「分かりました」
彼女は足を止め、俺が指差した迂回路へ無言で歩調を合わせる。
三日目の午後には、急激な変形圧の奔流が通路を満たした。小石がカタカタと震え、天井から白い粉塵が落ちてくる。
「引き返す! 全速力で第一基準点まで戻るぞ!」
氷室さんは理由を聞かずに即座に踵を返し、俺の後退を援護した。直後、さっきまでいた通路が轟音と共にねじれ、岩塊が雪崩れ落ちて通路を埋めた。
「……危なかったな」
「見事な退路判断です」
氷室さんは息一つ乱さずに告げた。彼女の絶対的な信頼に支えられ、三日目夕方までに三箇所の基準点を確保できた。これで次回以降、この階層への進入と帰還ルートの計算が可能になる。
◇
その夜。第一基準点の岩陰に張ったテントの中で、俺たちは携帯ストーブの青い火を囲んでいた。
パウチから絞り出す非常用圧縮糧食は、糊のように味気ない。
「……不味いな、これ」
「カロリーと電解質は完璧です」
氷室さんは平然と飲み干すと、空になった容器を潰しながら唐突に言った。
「十和田さんは、地図屋になりますか」
「……え?」
「彼女はあなたの背中を見ています。壁に触れるタイミング、立ち止まる歩数、野帳に書き込む記号。すべて手帳に記録しています。ですが、志賀さんは技術を体系的に教えていませんね」
「……」
耳が痛かった。
「教えるって……俺自身、何を見て判断しているのか言葉にできないんだよ。『空気が冷たい』とか『足裏が硬い』とか、体に染み付いた癖だから、人に教えられる代物じゃない」
「それは違います」
氷室さんは即座に否定した。
「再現できない技術はただの偶然です。ですが志賀さんの退路は偶然ではない。あなたが言語化を怠っているだけです」
ぐうの音も出ない正論だった。十和田は熱心に俺の後を追っている。それなのに俺は「感覚だから」と言い訳をして、彼女に何も手渡していない。もし俺が明日事故に遭ったら、この技術は地上から消えてしまう。
狭いテントの中でストーブの炎を見つめ、俺は深い沈黙に落ちていった。
◇
四日目の夕方。地上ゲートへ帰還すると、スマートフォンのバイブレーションが狂ったように震え始めた。
不在着信やメッセージが画面を埋め尽くす。
蒼天騎士団の最終報告は明朝、公社の提出期限も明後日と、根回し通り枠は確保されていた。だが新規の問い合わせは二十件以上放置され、キャンセルの通知が何通も混ざっていた。四日間消えただけで、これだけの仕事が零れ落ちたのだ。
「……志賀さん!」
ゲート脇で待っていた十和田が駆け寄ってきた。その顔はやつれ、目の下には隈が浮き出ていた。
「お帰りなさいませ! ご無事で本当によかったです……!」
「ただいま、十和田さん。留守番、大変だったね」
「あ、いえ……! あのお二方への書類は揃えてあります! ただ……」
十和田は胸元に抱えた手帳をぎゅっと握りしめ、怯えたように視線を落とした。
「……事務所で、お話しさせてください」
◇
夜七時。アパートに戻り、十和田から渡されたログに目を通した俺は、一枚の用紙で手を止めた。
「……これは?」
「はい……潜行二日目に、クラン『鉄槌の砦』様からお電話をいただきました」
十和田が消え入りそうな声で言った。
「第八層の緊急遠征に伴う事前ルート測量で、提示金額は八十万円でした。ですが本番まで三日しかなく、『十七項目は要点だけでいいから道だけ教えてくれ』と……」
息を呑んだ。第八層の三日、項目の端折り。シルフィードの事故と同じ危険な構図だ。
「それで……どうしたの?」
「……お断り、しました」
十和田は震える手で膝の上のスカートを握りしめた。
「『保留にしろ』と言われていました。でも相手に怒鳴られて……保留にしたら他の業者に頼んで事故を起こすかもしれない、でもうちが受けても絶対に事故が起きる……そう思ったら怖くなって……」
彼女の目から大粒の涙がこぼれた。
「『安全検証基準に満たないためお受けできません』って……勝手に断ってしまいました……! 八十万円のお仕事を潰してしまったんです……! 四日間、さっき志賀さんのお顔を見るまで、ずっと……ずっと怖くて……取り返しのつかないことをしたんじゃないかって……!」
若い女の子が、大金の重みと怒声を一人で受け止め、四日間怯え続けていたのだ。
「……十和田さん」
俺は彼女の肩にそっと手を置いた。
「よく断ってくれた。百点満点の判断だよ」
「え……?」
「第八層を三日で見るなんて自殺行為だ。もし受けていたら確実に死人が出ていた。君が断ってくれたおかげで、彼らの命もうちの看板も守られたんだ。本当に、よくやってくれた」
「志賀、さん……」
「怖かったよな。一人で背負わせて悪かった」
十和田は声を上げて泣き崩れた。手帳には、相手の言った無茶な要求と、うちの受注基準の該当項目が赤ペンで几帳面に突き合わされていた。彼女は恐怖に震えながらも、論理的に戦っていたのだ。
彼女はもうただの事務員ではない。俺の理念を理解し、正しい判断を下せる相棒だ。
ならば俺のやるべきことは一つしかない。人を増やすのではない。持っている技術をすべて教え、任せるのだ。
背中を見せるだけの師匠は、今日で終わりにしなければならない。暗い六畳間で、俺は固く決意した。




