第18話 勘と呼ばれるもの
翌日の朝、七尾さんからメールで添付ファイルが送られてきた。
件名は『【至急・要確認】審査会提出用・弁明書草案』。スマートフォンの画面でPDFを開くと、いかにも法律事務所といった几帳面なフォントで、整然とした文章がびっしりと並んでいた。
『……本件において対象者が発した言動は、過去の探索経験に基づく個人的な独り言の範疇を出るものではなく、特定の第三者に対する避難誘導または進路指示を意図したものではない……』
『……現場の状況と一致した点については、偶発的な空間事象との重複に過ぎず、客観的再現性を主張する意図は一切存在しない……』
『……今後は公認資格の定めのない誘導的言動を厳に慎み、公社規定を遵守することを誓約する……』
読めば読むほど、胃の奥が冷たく重くなっていく。
「……これじゃ、何も言っていないのと同じだな」
思わずため息混じりの声が漏れた。
「何がですか?」
台所からエプロン姿の十和田結が顔を出した。朝八時にやってきて、勝手に朝食の具沢山な豚汁と納豆を用意し、今は俺の汚れた方眼紙の束を日付順にクリップで留める作業をしている。弟子入りは保留のままだが、彼女の手際の良さは日増しに上がっていた。
「七尾さんの弁護士が作った回答書だよ。これを公社に出せば、お咎めなしで済むらしい」
俺が画面を見せると、十和田は眉を寄せ、画面をスクロールしながらじっくりと目を通した。そして、顔を上げてきっぱりと言った。
「嫌です、これ」
「え?」
「だって、全部嘘じゃないですか! 偶然だとか、独り言だったとか……私を助けてくれた時の志賀さんは、独り言なんかじゃありませんでした。『右の壁の亀裂から風が出ているから三十秒待て』って、はっきりと言ってくれたんです」
「十和田さん、でも役所を通すにはこういう言い方が――」
「じゃあ、志賀さんはあの時、本当は何を見てたんですか?」
十和田が真っ直ぐに俺を見据えてきた。
「え?」
「公社の人は『客観的なデータがない』って言ったんですよね。志賀さんは『勘だ』って言った。でも、勘って何なんですか? 志賀さんが頭の中で見ていたものを、言葉にできないんですか?」
十和田はポケットから、小さな革表紙のメモ帳とボールペンを取り出し、机の上にトンと置いた。
「教えてください。志賀さんが迷宮を歩く時、何を見て、何を聴いてるのか。私が全部書き留めますから」
◇
そこから、十和田による執拗なまでの「尋問」が始まった。
「まず、歩き出す時です。志賀さんは必ず立ち止まって、壁を見ますよね。あれは何を見てるんですか?」
「何って……ただの壁だよ。石組みの隙間とか」
「隙間の何を見るんですか! 色ですか? 深さですか?」
「……色、かな。新しい石組みは白っぽいけど、組み替えの圧力がかかってる場所は、微小な摩擦熱と湿気で継ぎ目のモルタルが黒ずんでくるんだ。濡れたように黒ずんでる場所は、応力が集中してる証拠なんだよ」
「継ぎ目の黒ずみ! それです!」
十和田が目を輝かせ、カリカリとペンを走らせる。
「じゃあ、足元は? よく靴の裏で床をトントンって叩いてますよね」
「あれは……反響の音を聞いてるんだ。下が空洞になってるかどうかだけじゃなくて、敷石の噛み合わせの硬さで、この通路が『押されている』か『引っ張られている』かが分かる。詰まった高い音がする時は左右から圧縮されてるから、近いうちに天井が落ちるか壁が迫り出す」
「足裏の反響音……高い音は圧縮、低い音は引っ張り……」
「あとは……水の匂いだな」
「水の匂い?」
「迷宮の地下水は、普段は決まった水路を通って排水溝へ流れてる。でも、どこかの通路が塞がりかけると、水流が堰き止められて別の割れ目から染み出すんだ。泥臭い澱んだ匂いがしたら、その奥の通路はもう死んでる」
十和田のペンが止まらない。
角の埃の積もり方――空気の微小な流れが止まっている袋小路には埃が均等に積もり、風が抜ける生きている通路には吹き溜まりができる。
人の通行量による敷石の中央の減り具合。壁面の冷え方。魔素の滞留による肌のピリつき。天井の隅に張った蜘蛛の巣の揺れ。前回の小規模組み替えからの経過時間――。
最初は「ただの勘だ」と言い張っていた俺だったが、十和田に「どうして」「どうやって」と問われるたびに、二十年間しまい込んでいた無意識の引き出しが次々と開けられていった。
気づけば時計の針は正午を回り、夕方を過ぎ、窓の外はすっかり夜の帳に包まれていた。
ちゃぶ台の上には、十和田の几帳面な字で埋め尽くされたメモ用紙が何枚も並んでいた。
「……二十四項目」
十和田が肩を回しながら、満足そうに息を吐いた。
「志賀さん、これ見てください。二十四個もありますよ。志賀さんが無意識に見てたこと」
並べられた用紙を見つめながら、俺は呆然としていた。
自分では一つの塊として「勘」と呼んでいたものの正体。それは、二十年の間に身体へ染み込んだ、二十四種類もの微細な環境変化の観測ログだったのだ。
「……俺、こんなに色んなものを見てたのか」
「見てたんですよ! 志賀さんは当たり前だと思ってたかもしれないですけど、こんなの普通の探索者は誰も見てません! 私なんて、魔物が出てこないかビクビクしながら前しか見てませんでしたもん!」
十和田は得意げに胸を張った。
自分の感覚が、他人の手によって文字として外に引きずり出された奇妙な感覚。背筋がむず痒いような、それでいて心のどこかの視界が一気に開けたような不思議な高揚感があった。
これなら、説明できるかもしれない。宮原補佐の言う「客観的な手順」にはまだ遠くても、少なくとも「偶然の独り言」ではないことくらいは示せるはずだ。
スマートフォンが微かに震え、氷室さんからのメッセージが表示された。
『刀の研ぎが終わりました。志賀さんの都合が良い日に合わせます』
彼女の変わらない文面に、俺は思わず口元を緩めた。待たせている相手がいる。ここで諦めて嘘をつくわけにはいかない。
◇
だが、その時だった。
メモ用紙を一枚ずつ整理していた十和田の手が、ぴたりと止まった。
「……志賀さん」
「ん? どうした?」
「この項目なんですけど」
十和田が指差したのは、用紙の真ん中あたりに書かれた『壁面の微小破壊音と振動周期』の欄だった。
「これって、壁に耳を当てて、奥でパキパキ鳴ってる音の頻度を聞くんですよね」
「ああ。音の間隔が短くなればなるほど、崩落の瞬間が近い」
「でも……」
十和田はペンを握ったまま、少し不安そうに視線を持ち上げた。
「もし、この音が聞こえない日があったら、どうするんですか?」
「え?」
「迷宮って、たまに全然音を立てないで、急にガラガラッて崩れる場所とかありませんか? あるいは、音はしてるのに全然壊れない場所とか……この二十四の項目が、教えてくれない日ってないんですか?」
十和田の素朴な問いかけに、俺の思考が凍りついた。
教えてくれない日。
自分の予測が、外れた時。
「それは……」
喉が詰まった。
二十年の記憶を必死に手繰り寄せる。外れたことがなかったわけじゃない。思ったより早く崩れたことも、待っても壁が開かなかったこともあった。その時、俺はどうしていたか。
別の道へ走った。あるいは、無理やり壁をよじ登って逃げた。その場の必死の足掻きで生き延びてきただけだ。
「もし……このメモに書いてある通りに見て、それでも外れちゃったら、どうすればいいんですか?」
十和田の瞳が、静かに俺を見つめていた。責める色はない。純粋な疑問だった。
だが、その疑問こそが、職人の「勘」と公社の求める「制度」を隔てる、最も深くて暗いクレバスだった。
宮原補佐の冷徹な声が脳裏に蘇る。
『指示に従った探索者が死亡した場合、法的責任の所在が曖昧になるからです』
そうだ。手順書として他人に渡すということは、それが外れた時の責任まで引き受けるということだ。
外れた時、どうやって命を守るのか。どうやって退路を保証するのか。その仕組みがなければ、どれだけ項目を並べても、公社の前では「ただの危険な占い」に過ぎないのだ。
「……分からないな」
俺は掠れた声で言った。
「外れた時にどうすればいいかなんて、考えたこともなかったよ」
机の上のメモ用紙が、急に恐ろしいものに見えてきた。
二十四の項目を書き出し、自分の技が見えた気になっていた。だが、その先には「外れた時の安全をどう担保するか」という、巨大な空白の穴がぽっかりと口を開けていた。
部屋の明かりが、やけに白く冷たく感じられた。
二週間後の審査会まで、あと十三日。
言葉にすればするほど、乗り越えなければならない壁の高さが、残酷なまでに浮き彫りになっていた。




