第17話 出頭通知
迷宮管理公社関東支部の庁舎は、湿気たコンクリートと古紙の匂いが染みついていた。
正面玄関を抜けて四階へ上がる。薄暗い廊下の突き当たりにある『区画測量課』の引き戸を開けると、乾いた打鍵音と紙をめくる擦過音が耳に入った。
壁際には変色したスチール書架が並び、背表紙の褪せた測量ファイルが天井近くまで押し込まれている。予算を削られ続けた部署特有のくたびれた空気だった。
だが、その部屋の中央だけが切り取られたように異様だった。
鈍い銀色に輝く最新鋭の大型端末。静かな冷却音とともに、曲面ディスプレイの上に迷宮構造の立体ワイヤーフレームが青く明滅している。筐体には大きく『オルタマップ・エンタープライズ・エディション』のロゴが刻印されていた。
「……おい、あれだろ。例の『予言おじさん』」
「氷室灯の金魚のフンやってるっていう……」
「アルゴノートをクビになった地図屋だろ? 戦えない中年が深層から生還したとか言って」
「どうせ氷室が全部片付けたんだろ。深層の空間錯乱を人力で抜けたなんて、運か演出に決まってる」
仕切りの向こうから、若い技官たちの冷ややかな視線が向けられていた。胸ポケットに差した新品のタッチペン。彼らの机の上には紙の方眼紙など一枚もなく、すべて青白い画面で統一されている。
俺の手元にあるのは、使い古して角の丸くなった革張りの野帳と、十年以上握り続けて塗装の剥げた古い光学測距器だけだ。かつてアルゴノートで鷺沼さんたちから向けられていた視線と寸分違わず同じだった。
時代遅れ。非効率。勘に頼る老害。
そんな無言の視線を受け流しながら、俺は膝の上のビジネスバッグの持ち手を握り直した。
「――志賀道久さんですね」
冷徹に通る声が頭上から降ってきた。
顔を上げると、紺色のスリーピーススーツを着こなした女性が黒革のバインダーを抱えて立っていた。
三十二、三といったところだろうか。銀縁眼鏡の奥の瞳は剃刀のように鋭い。スーツの袖口には、現場用の硬質測量テープで擦れたような微かな毛羽立ちがあった。現場を踏んだ人間の匂いが混ざっている。
「区画測量課、課長補佐の宮原です。奥の第三聴取室へどうぞ」
◇
案内された第三聴取室は、四畳半ほどの狭い部屋だった。
灰色の長机が一台とパイプ椅子。机の上には書類が並べられ、その一番上には俺が公開したアーカイブの画面が印刷されていた。
「お掛けください」
宮原補佐は対面に座ると、手元のバインダーを開いた。
「本日の聴取は、二件の事案について事実確認を行うものです。志賀さん、あなたに課せられている疑義は二つあります」
彼女は細い指先で机の上の書類を軽く叩いた。
「一つ目は、過日発生した第七迷宮第五層における民間探索者救助への関与です。十和田結選手らが中規模組み替えにより孤立した際、あなたが配信を通じて無資格で口頭ナビゲーションを行い、脱出を誘導した件」
「……はい」
「二つ目は、先般の第十層潜行に伴う臨時帯同許可の事後審査です。公社規定に基づき、戦闘力のない民間マッパーが深層へ立ち入るにあたり、どのような合理的根拠をもって安全を確保し、進退を判断したかの説明責任」
宮原補佐は眼鏡を押し上げ、感情の読めない瞳で俺を射抜いた。
「まず一件目から伺いましょう。志賀さん、公社認定の『迷宮遭難救助指揮官』の資格はお持ちですか?」
「いえ……持っていません。俺の登録は浅層限定の一般探索者です」
「ええ。公社法第十四条の二において、資格を有しない者が公衆回線を用いて遭難者へ進路指示を行う行為は厳格に禁止されています。指示に従った探索者が死亡した場合、法的責任の所在が曖昧になるからです」
宮原補佐の声には怒りも嘲笑もなかった。ただ整えられた法規の論理だけが紡ぎ出される。
「あの時、十和田選手が助かったのは結果論に過ぎません。もし指示した通路が崩落していたら、彼女たちは確実に死んでいました。その時、誰に対してどう責任を取るおつもりでしたか?」
「それは……」
「さらに言えば、二件目の第十層潜行です。提出されたログを拝見しました。主退路Aの閉塞を事前に予見して反転し、第二退路を捨て、第三退路の行き止まりの前で『四十五秒待機して開通を待った』とありますね」
彼女はじっと俺の目を見た。
「あの状況下で、なぜ四十五秒後に壁が開くと分かったのですか? 空間錯乱下において既存の機器はすべて計測不能だったはずです。何を見て、何を計算し、その結論に至ったのですか?」
部屋の空気がずしりと重くなる。
敷石の継ぎ目から逆流する水の匂い。壁面を伝う熱の偏り。足裏に響く微小破壊音。二十年の記憶から、体が「四十秒から五十秒で開く」と理解した。だが、それを書類に書ける数式やログで説明できるわけがない。
「……勘、です」
絞り出した俺の声は狭い部屋に小さく響いた。
「勘?」
「はい。二十年、迷宮を歩いてきました。壁の軋み方や水の流れ方を見ていると……大体、どの順番で壊れてどこが動くのかが感覚として分かるんです。だから、あの時も……勘で判断しました」
沈黙が落ちた。宮原補佐は深く息を吐き出すと、ペンをことりと机に置いた。
「……志賀さん。勘、ですか。公社の聴取の場で口にしていい言葉ではありませんね」
彼女は身を乗り出し、机の上に両肘をついた。
「いいですか。制度というものは再現性と客観性の上にしか成り立ちません。『長年の勘で分かりました』などという説明が通るなら、あらゆる無謀な探索者が『俺の勘だ』と言って深層へ突撃し死んでいくのを、公社は止められなくなります」
冷たい言葉が鋭く胸に突き刺さる。
「記録に残せない技能は、制度の上では存在しないのと同じです」
彼女は手元の書類を束ねた。
「客観的なデータや手順として提示されない限り、公社としては『悪質なスタンドプレーが偶然の幸運で惨事を免れただけ』と判断せざるを得ません。公社は偶然に再現性を認めるわけにはいかないのです」
宮原補佐は立ち上がり、バインダーを抱えた。
「本日の聴取内容に基づき、二週間後の審査会へ諮問します。それまでの間、処分ならびに事後審査結果は保留とします」
そしてドアの前で足を止め、冷徹に宣告した。
「ただし――結論が出るまでの間、志賀道久名義で提出される次回以降の深層帯同許可申請、ならびに中層以上の潜行申請の受理を一時凍結します」
「凍結……」
「安全を担保できない民間人を深層へ通すわけにはいきませんから」
宮原補佐はそれだけ言い残し、部屋を出て行った。
仕事を続けられるかを決めるのは、迷宮を歩く足でも地図でもない。ビルの密室で交わされる書類の文字と判子の有無なのだという事実が、重く肩にのしかかった。
◇
公社庁舎を出ると、外はすっかり夕暮れだった。駅へ歩きながら七尾さんに電話をかける。
『もしもし、志賀さん。聴取は終わりましたか?』
「ええ。……帯同許可の申請が凍結されました」
事情を説明すると、七尾さんは事務的に応じた。
『宮原怜ですね。想定通りです。ですが、こちらも弁護士と打ち合わせ済みです。「救助は独り言を参考にされただけ」「潜行も氷室選手に追従しただけ」という形を取り、「二度と口頭ナビを行わない誓約書」を出せば厳重注意で手打ちにできます。そうすれば凍結も解除させられます』
「二度とナビをしない誓約書……」
『ええ。安全策です。余計なことを言わなければ確実に生き残れます』
電話が切れた。偶然だと嘘をつき、もう助けないと誓う。そうすれば首は繋がるが、二十年の仕事を自分で否定することだった。
端末を見ると、氷室さんからメッセージが届いていた。
『志賀さん。今日の聴取、どうでしたか。次はいつ潜れますか』
彼女にとって公社の審査など関係ない。ただ次の扉が開くのを待っている。その無垢な信頼が痛かった。
電車に揺られ、アパートへ戻る。外階段を上ると、玄関脇に小さくしゃがみ込む人影があった。
「……十和田さん?」
「あ……志賀さん!」
顔を上げた十和田結は鼻の頭を赤くしていた。足元にはスーパーの袋がある。
「待ってたんです。公社の聴取、今日だって聞いてたから……」
部屋へ招き入れ、湯呑みを並べた。十和田は正座したまま、落ち着かない様子で指を動かしていた。
「……私のせいです、よね。私が第五層で迷子になって、志賀さんが助けてくれたから……目をつけられたんですよね?」
「十和田さんのせいじゃありませんよ」
俺は熱い茶を置き、向かいに座った。
「資格のない者が案内しちゃいけないのは事故を防ぐルールです。宮原補佐の言うことは制度として何も間違っていません」
「でも、志賀さんは助けてくれたのに! あの指示がなかったら私と桧山くんは死んでました! なんで助けた志賀さんが怒られなきゃいけないんですか!」
十和田は悔しそうに瞳を潤ませ、膝を握りしめた。桧山の名を口にした瞬間、表情に翳りが差したが、今はそれ以上に理不尽さに憤っていた。
「おまけに、帯同許可まで止められたんですよね……?」
「まあ、審査会までは二週間ありますから」
俺は湯呑みを両手で包み込んだ。
「七尾さんが書類を作ってくれます。『あれは偶然の独り言だった』ことにして、今後は一切ナビをしないと約束すれば、注意だけで済むそうです」
「偶然……? 志賀さんが……あれを、偶然だって言うんですか……?」
真っ直ぐな瞳に見つめられ、胸の奥を細い針で突かれたような痛みを覚えた。
十和田を助けた時も、絶壁の前で四十五秒待った時も、偶然などではなかった。そこには二十年の観察と判断があった。だが、それを証明する言葉を、俺はまだ何一つ持っていなかった。
「……今は、それしか道がないんですよ」
俺の力ない呟きに、十和田は唇を噛み締め、悔しそうに俯いた。
二週間後の審査会という見えない時計の針が、確実に音を立てて進み始めていた。




