第16話 成功と書かれた記事
週末の夜、編集を終えた探索アーカイブを動画プラットフォームにアップロードした。
タイトルはシンプルにした。『【記録】第十層潜行・状況判断ログ(一部情報マスキング済)』。七尾さんには派手な煽り文句を提案されたが、「公的な記録ですから」と押し通した。
具体的な座標、壁面の歪み測定データ、降下口の位置情報は、約束通りすべて黒い帯で塗りつぶした。画面に残したのは、俺たちがどのタイミングで足を止め、何を根拠に撤退を選び、どうやって「開くのを待った」かという、判断と思考のプロセスだけだ。
動画を公開して一時間。
最初は、いつもの暇つぶし配信の常連たちから「おじさん生きてた!」「深層行ったってマジ!?」という呑気なコメントがついていただけだった。
だが、深夜を回った頃から、コメント欄の空気が急速に変質し始めた。
『……おい、これフェイクじゃないぞ』
『第九層の中継境界からエントリーして、第十層の基点P0を通過してる。公社のタイムスタンプが一致してるんだが』
『待て待て、氷室灯の隣にいるの、本当にあの配信のおっさんマッパーか?』
『主退路Aの閉塞を、崩落の二分前に予告して反転させてる。なんで分かるんだ?』
『壁の軋み音と水流の逆流から応力を計算した……? そんなの現場の感覚で読めるわけないだろ』
『第三退路の絶壁の前で「四十五秒待つ」って何だこれ。本当に壁が開いてるぞ……』
『これ、クラン所属の現役マッパーだけど鳥肌立った。地図を捨てて退路の寿命を管理するって発想、完全に狂ってるけど論理的すぎる』
反響の火元は、一般の視聴者ではなかった。
夜勤明けの現役探索者、中堅クランの斥候、公社の測量技官たち――迷宮の深層を知り、その不条理な空間錯乱に一度でも絶望したことのある専門職の人間たちが、真っ先にこの記録の異常性に気づいたのだ。
SNS上には、早くもアーカイブの切り抜きが拡散され始めていた。
『人類最強に専属ナビがついたと聞いて見に行ったら、戦えない中年が深層を歩かせていた件』
『AI自動マッピングが深層で使い物にならない理由と、このおっさんがやってることの比較検証』
『アルゴノートが解雇した元専属マッパーって、もしかしてこの人か……?』
再生数とコメントが跳ね上がっていく。以前は「時代遅れの地図屋」と嘲笑していた界隈の人間たちが、誰一人として反論できずに息を呑んでいる。沈黙と困惑の気配が肌を粟立たせた。
「……なんか、とんでもないことになってきたな」
俺は自嘲気味に呟き、ぬるくなった珈琲を口に含んだ。本人はただ、生き残るために必死で足を動かしていただけなのだが、世間にとってはそうではなかったらしい。
◇
翌朝、ピンポーン、と玄関のチャイムが激しく連打された。
「……はい?」
ドアスコープを覗くと、赤みがかった髪をひとつに束ねた小柄な少女が、息を切らして立っていた。
「志賀さん! 開けてください、十和田です!」
慌てて鍵を開けた瞬間、十和田結が突風のように玄関先へ飛び込んできた。新品だったはずの安物装備は傷だらけで、両手には大きなリュックサックと、どこかのスーパーのビニール袋を抱えている。
「志賀さん、見ました、アーカイブ。第十層に行って、氷室さんと生きて帰ってきたんですよね!?」
「あ、ああ、十和田さん……落ち着いてください。声が大きいです」
「落ち着いてなんかいられません。あの『開くのを待つ』のところ、鳥肌が止まらなくて……浅層で私を助けてくれた時と同じなのに、深層だと全然意味が違ってて、もう……!」
十和田は目を輝かせ、早口で捲し立てた。以前会った時のような怯えや自信のなさは、今の彼女からは完全に消え去っていた。
「それでですね、志賀さん!」
十和田は床に荷物を置き、深々と頭を下げた。
「弟子入りさせてください!」
「……えっ。いや、その話は保留に――」
「はい、保留なのは重々承知です。でも、私、どうしても志賀さんの技術を学びたいんです。給料はいりません。雑用でも、機材の泥落としでも、手帳の清書でも何でもやります。だから、ここに通わせてください!」
「ちょ、ちょっと待ってください、十和田さん。俺のアパートはただの自宅ですし、人に教えられるような大層なものじゃ――」
「お邪魔します!」
「人の話を聞いて!?」
十和田は俺の制止を器用にすり抜け、ずかずかと部屋の中へ上がり込んだ。
そして持ってきたビニール袋から、雑巾と洗剤、それに大量の栄養ドリンクを取り出すと、三和土に置かれた俺の泥だらけの古い測距器とクリップボードを手に取った。
「まずは機材の手入れですね。深層の泥は魔素を含んでるから、早めに中性洗剤で落とさないとセンサーが錆びちゃいますから」
「あ、おい、それは自分で――」
「あと、お部屋が散らかりすぎてます。図面とゴミが混ざってますよ。ゴミ袋どこですか?」
「台所のシンクの下だけど……じゃなくて!」
十和田はてきぱきと腕まくりをして、部屋の片付けと機材磨きを始めてしまった。
押しかけてくる若い探索者と、断り切れないしがない中年。十和田は何かを振り払うように必死で手を動かしているように見えたが、その何かが何なのかは、俺にはまだ分からなかった。
作業場が急に賑やかになり、俺は頭を抱えながらも、心のどこかで温かい安らぎを感じていた。
◇
正午過ぎ。部屋の掃除が一段落したところで、俺のスマートフォンが震えた。
画面を見ると、見慣れない番号からのメッセージが一件届いていた。
『道久。アーカイブ見たぞ。無事で何よりだ。……深層の道は、本当にAIだけで通せると思うか? 榊』
榊からだった。
元同僚であり、今もアルゴノートの現場を預かっている男だ。
多くを語らない彼の短い文面から、現場で何かが起きているという不穏な気配が、痛いほど伝わってきた。
ふと視線を上げると、部屋の片隅のテレビで昼のニュースが流れていた。
『――国内トップクラン「アルゴノート」が、最新鋭ナビAIオルタマップを導入した遠征において第十二層への到達に成功したと発表しました。鷺沼団長は会見で「科学的アプローチの勝利である」と胸を張りました――』
画面には、スポットライトを浴びて自信満々に微笑む鷺沼さんの姿が映し出されていた。
「アルゴノート……成功したんですね」
機材を磨いていた十和田が、テレビを見上げてポツリと呟いた。
「……そうみたいだな」
俺は端末をポケットにしまい、短く答えた。報道では「深層遠征成功」と華々しく讃えられている。だが、榊のあの連絡は何だったのか。胸の奥に小さな棘のような違和感が残った。
その時、郵便受けにカタリと音を立てて何かが投函された。
「郵便ですかね? 取ってきます!」
十和田が小走りで玄関へ向かい、一通の封書を持って戻ってきた。
「志賀さん宛てです。迷宮管理公社から……親展って書いてあります」
「公社から?」
封筒を受け取り、裏面を見る。『迷宮管理公社 関東支部 区画測量課』の青い公印が押されていた。
嫌な予感を覚えながら、ペーパーナイフで封を切る。
中から出てきた一枚の上質紙を広げ、俺は息を呑んだ。
『第十層潜行記録に関する事実確認および聴取のための出頭通知書』
本文には、公的で冷徹な文面が並んでいた。
『貴殿が氷室灯選手に帯同して実施した第十層潜行、ならびに過日発生した第七迷宮における口頭ナビゲーションによる救助関与について、公社規定に基づく事実関係の確認を行います。つきましては、下記日時に当課まで出頭されたく通知いたします。
担当:区画測量課 課長補佐 宮原怜』
「……志賀さん? それ、何ですか?」
不安そうに覗き込んでくる十和田に、俺は通知書を握りしめたまま、かすかに苦笑いを返した。
「……どうやら、地上での本番はこれかららしい」
戦えない男が深層から生還した事実は、制度という名の重い鉄の扉を動かし始めていた。
◇
同じ日の夕刻。
クラン「アルゴノート」本部ビルの地下医療ブロックには、重苦しい沈黙が垂れ込めていた。
集中治療室のガラス越しに、榊久史は眉間に深い皺を刻んで立っていた。ベッドの上には全身に包帯を巻かれ、人工呼吸器を装着された前衛隊員がいる。第十二層の組み替え現場で奇襲を受け、黒曜石の角柱に挟まれて重傷を負った若手のエースだ。
「……災難だったな」
背後から団長の鷺沼恭平が、コーヒーカップを片手に歩み寄ってきた。会見と同じ涼やかな笑みが張り付いている。
「鷺沼。あいつの容態、医者は全治三ヶ月と言っている」
「全治三ヶ月なら復帰できる。それより今日の記者発表は大盛況だった。我がクランの第十二層到達は業界の勢力図を塗り替えたんだ」
「……何が到達だ」
榊は拳を固く握りしめた。
「第十二層の分岐点で、オルタマップが再学習モードに入って三十秒間フリーズした。その間に組み替えが連鎖して退路が潰れたんだぞ。撤退判断が遅れたから、あいつは挟まれたんだ!」
「榊、それはAIの責任じゃない」
鷺沼は冷徹に遮った。
「深層のデータがまだ不足していただけだ。今回持ち帰ったログでモデルはさらに洗練される。進歩に必要な『学習コスト』だよ」
「学習コストだと……!?」
「感情論はやめてくれ。現に成功と報道された。結果が全てだ。来月には第十三層の遠征を組む。隊員の補充は頼んだよ」
去っていく鷺沼の背中を、榊は血の滲む思いで見つめていた。
端末には、今朝見た志賀道久のアーカイブ動画が表示されていた。かつてクランで誰よりも泥臭く足元の安全を守り続けていた男の顔が、脳裏をかすめる。
「……道久」
榊は何かを言いかけて飲み込み、暗い廊下の底を見つめた。
華やかな報道の足元で、名門の屋台骨が音を立てて軋み始めていた。




