第15話 帰ってきた人間の飯
大穴の地上ゲートをくぐった瞬間、冷涼な夜風が肌を撫でた。
迷宮の重苦しい魔素から解放され、肺いっぱいに本物の外気を吸い込むと、排気ガスと土の匂いが混ざり合い、全身から一気に力が抜け落ちそうになった。
簡易健診と除染シャワーを終えたときには、すでに深夜一時を回っていた。
「……腹が、減りました」
施設を出た路傍で、氷室灯が虚ろな目で呟いた。濡れた髪をタオルで拭いたまま、刀のケースを引きずっている。深層であれだけの神速を見せた人類最強の姿はなく、空腹で行き倒れ寸前の野良猫のようだった。
「そうですね。まる一日、あのパウチ入りゼリーばかりでしたから」
向かったのは、ゲート前で二十四時間営業している大衆定食屋だった。油煙と醤油の焦げた匂いが充満する店内に雪崩れ込み、奥の座敷席に腰を下ろす。
「……何にします、氷室さん」
「……」
氷室はメニュー表を両手で掲げ、睨みつけたまま動かなくなった。目が泳いでいる。
「……あの、氷室さん?」
「文字が……多くて、決められません」
真顔でとんでもないことを言い出した。第十九層の空間錯乱には立ち向かえるのに、五十品並んだメニューには手も足も出ないらしい。
「分かりました。生姜焼き定食の肉二倍盛り、ご飯大盛りでいいですか。豚汁も付けます」
「……それで、お願いします」
十分後。湯気を上げる巨大な丼と鉄板が運ばれてきた瞬間、氷室の目がカッと見開かれた。濃いタレを纏った豚肩ロースに、千切りキャベツ。そして具沢山の豚汁。
「いただきます」
両手で割り箸を割ろうとした氷室だったが、斜めにバキリとへし折ってしまった。
「あ……」
「……はい、これ使ってください」
苦笑いしながら自分の割り箸を割って手渡してやる。
氷室は受け取ると、山盛りの白飯の上に生姜焼きをバウンドさせ、そのまま口いっぱいに頬張った。咀嚼するたびに白かった頬が微かに紅潮していく。
「……おいしいです。温かいです。味が……ちゃんとします」
「そりゃあ、出来立ての飯ですからね」
俺も豚肉を口に放り込み、熱いご飯をかき込んだ。
肉汁と脂、タレの甘辛さが広がる。五臓六腑に染み渡るとはまさにこのことだ。生きている。冷たい石の迷宮から帰ってきて、温かい飯を胃袋に流し込んでいる。その事実が、涙が出そうになるほど嬉しかった。
だが、感動に浸っていたのも束の間だった。向かいを見ると、氷室が茶碗を握りしめたまま、コクリと舟を漕いでいた。
「……氷室さん?」
返事がない。口の端に米粒を一つつけたまま、座った姿勢で寝落ちしかけていた。極限の緊張が解け、満腹になった途端にブレーカーが落ちたのだ。
「ちょっと、氷室さん、起きてください! 味噌汁こぼしますよ!」
慌てて彼女の腕を支え、手から茶碗を回収した。
世界に数人しかいないS級探索者が、座敷で居眠りしている。地上に上がった途端に力関係が完全に逆転しているおかしさに、俺は吹き出してしまった。
◇
タクシーで氷室を送り届け、俺が自分の築二十五年のアパートに帰り着いたのは、東の空が白み始めた頃だった。
玄関の鍵を開け、靴を脱ぐ。
その瞬間、第十層で氷室に言った自分の言葉が頭をよぎった。
『探索者の勝利は、自分のアパートのドアを開けて、靴を脱いだ瞬間に初めて確定するんです』
三和土にへたり込み、ボロボロになった両足のブーツを見つめた。
「……よく保ってくれたよ」
十八万四千円の高荷重衝撃吸収ブーツ。第十層の黒曜石を踏み越え、瓦礫を蹴り、蠍の酸を浴びた靴底はすり減って深い裂け目が刻まれていた。右足のワイヤーレースは千切れ、もう深層へ履いていくことはできない。
だが、このブーツが身代わりになってくれたからこそ足首は折れずに済んだ。良い道具に金をかける意味を噛み締めた。
熱いシャワーを浴びて泥と汗を流し、湯沸かし器でお湯を沸かして、スーパーで買った少し高めのドリップ珈琲を淹れた。香ばしい苦味が疲弊した頭を穏やかに覚醒させていく。
机の上にノートパソコンを開き、口座と探索者ポータルを表示させた。
前払金三百万のうち、装備代などで使ったのは約三十五万。残りは二百六十五万。
さらに画面には、エージェント事務所からの確定通知が届いていた。
『月額基本報酬:1,500,000円(当月末日振込確定)』
『第十層到達成果報酬(概算):2,400,000円(事後審査完了後に支給)』
二百四十万……。成果報酬の五パーセントという特約が、第十層の到達認定によってそのまま跳ね返ってきたのだ。手取りで合わせて五百万円以上の金が並ぼうとしていた。
「……嘘みたいだな」
ほんの三週間前まで、俺はアルゴノートをクビになり、減っていく残高に怯えていたのだ。
即座に操作し、滞納しかけていた住民税と健康保険料、光熱費の支払いを全てオンラインで済ませた。引き落とし不能の赤い警告文字が一瞬で消え去る。
胃の奥を締め付けていた重圧がふっと消えていく。金がある。それだけで人間はこんなにも息がしやすくなるのか。
珈琲を啜り、窓からの朝日に目を細める。次はもっと良い下着と、腰用のしっかりしたサポーターを買おう。机も、図面を広げやすい大きな作業台に買い替えたい。地に足のついた贅沢の計画が、胸に湧き上がっていた。
◇
翌日の午後。俺は都心の高層ビルにある、七尾佳奈のエージェント事務所に呼び出されていた。
ガラス張りの会議室で、スーツ姿の七尾がタブレットを叩いている。隣にはジャージ姿の氷室が座り、出された緑茶を啜っていた。
「……無事で何よりでした、志賀さん。不在着信四十二件は心臓に悪かったですよ」
「申し訳ありません。電波が戻ったのが第九層最奥でしたので」
「分かっています。深層の通信不通は仕様ですから。……それより、これです」
七尾がテーブル中央に端末を滑らせてきた。画面には、俺が持ち帰った記録メモリの解析データが表示されていた。
「第十層安定帯への到達ログと第十一層降下口の測量データ。公社の技術部門に照会をかけましたが本物です。……正直驚きました。浅層限定の元マッパーが、本当に灯さんを連れ帰ってくるとは」
七尾の声には、困惑と興奮が混ざっていた。
「灯さんのスポンサー各社も沸き立っています。『単独最強の灯が、専属ナビを得て第十層を完全攻略』――この見出しだけで億単位の宣伝効果です。つきましては、あなたが持ち帰った記録映像と測量データを、ノーカットのアーカイブとして全編公開したいと考えています」
「……全部、ですか」
「ええ。第十層の正確な構造、組み替え時間、降下口の座標。これらを全世界へ公開すれば、再生数も知名度も天井知らずになります。あなたへの注目度も跳ね上がり、次回の臨時帯同許可も一発で通るでしょう」
七尾の論理は明快だった。だが、俺は首を横に振った。
「駄目です。それはできません」
「……は? なぜですか、志賀さん。これはあなたにとっても莫大なメリットがある話です」
「第十層の座標と詳細な経路は、公開してはいけません」
俺は静かに、だがはっきりと言い切った。
「第十層の組み替えは数時間周期です。俺たちが通った道は、もうこの世界には存在していません。それなのに確定ルートとして座標や地図を世に出せば、それを見た若い探索者や中堅クランが『自分たちも行ける』と勘違いして飛び込みます。そして空間錯乱に巻き込まれて全滅する」
安易な地図を鵜呑みにして死にかけていった新人を、俺は何人も見てきたのだ。
「初潜行の前に、俺は七尾さんに条件を出しましたよね。『記録アーカイブは公開する。ただし公開範囲は持ち帰ってから自分が決める』と」
「……ええ。確かに伺いました」
「なら、その権利を行使します。公開するのは、俺たちの行動ログと状況判断の部分だけに編集してください。具体的な座標、壁の微小変形の測定値、降下口の位置情報はすべて黒塗りにします。『戦えない人間が深層から自力で帰ってきた』という事実と、その判断手順だけを世に出すんです」
「そんな虫食いの記録で、世間が納得するとお思いですか?」
七尾が不満を隠さずに問い詰めてくる。その時だった。
「志賀さんの言う通りにしてください」
黙って茶を啜っていた氷室が、静かに口を開いた。
「灯さん?」
「迷宮の中で私の命を守ったのは志賀さんの判断です。七尾さんではありません」
氷室の涼やかな瞳がエージェントを射抜いた。
「斬れない問題は、志賀さんが最優先です。記録の扱いも志賀さんの指示に従ってください」
「……っ」
七尾が息を呑み、額を押さえた。氷室本人がそこまで全幅の信頼を置いている以上、口を挟む余地はなかった。
「……分かりました。公開範囲の編集は志賀さんに一任します。今週末までに仕上げてください」
「了解しました。ありがとうございます」
打ち合わせが終わり、エレベーターホールへ向かう廊下で、氷室が俺の隣に並んだ。彼女は足を止め、俺の顔を真っ直ぐに見上げてきた。
「志賀さん」
「はい?」
「次も……お願いします」
迷いのない、澄んだ声だった。
「今回の潜行で確信しました。志賀さんと一緒なら、私はもっと先へ行けます。だから……次の潜行も、私の専属ナビとして隣にいてください」
頭を下げられる。雇い主であるはずの人類最強が、しがない三十九歳の中年に頭を下げて継続を頼んでいる。
通りすがる社員たちが信じられない目で振り返っていた。居心地の悪さはあったが、胸の奥には温かい誇らしさが広がっていた。
「……臨時帯同許可が次も下りるか、まだ分かりませんよ」
「下りるように、七尾さんに言います」
「はは……それなら心強いです」
俺は苦笑し、彼女の真摯な視線を受け止めた。
「分かりました。俺で良ければ、次もよろしくお願いします、氷室さん」
一回限りの仕事だったはずの契約が、確かな継続へと変わった瞬間だった。地上での新たな闘いが、ここから始まろうとしていた。




