第14話 開くのを待つ
退路の寿命を管理しながらの撤退は、前進する時の数倍の神経を削った。
安定帯を背にして主退路Aに飛び込んだ瞬間から、迷宮の内壁が不気味な唸りを上げていた。足元の敷石が微かに振動し、天井からは細かい岩粉が絶え間なく降り注ぐ。
「志賀さん、前方に異常はありません。直進できます」
先行する氷室灯が、刀を握ったまま振り返らずに告げた。足取りは驚くほど軽やかで、深層の魔素による重圧など微塵も感じさせていない。
「待ってください。ペースはそのままで……右の壁際へ寄ってください」
左手首のストップウォッチを一瞥する。撤退開始からまだ十二分。
主退路Aの見積もり寿命は四十八分だった。順調にいけばあと十五分で抜けられるはずだったが、壁の軋み音は計算より明らかにピッチが速い。
――ギギギ……パキン。
壁の奥で岩盤が剪断破壊を起こす破断音が連続した。
「……おかしい」
予備の古い超音波測距器を取り出し、側壁にセンサーを押し当てる。反射波の位相が激しく狂っていた。
「組み替えが加速しています。連鎖反応だ。さっき緊急退路Cの寿命が縮んだ影響が、もう波及してきてる」
前方の天井に目に見えるほどの亀裂が走り、雷鳴のような音を立てて裂け目が広がった。
「私が亀裂を両断して、崩落を遅らせます」
「駄目です! 引いてください!」
叫び、俺は彼女の肩口のベルトを後ろから掴んだ。
直後、天井から数十トンの巨岩が雪崩を打って落下してきた。凄まじい衝撃波と粉塵に通路が包まれる。
ドォォォン……!
幅四メートルの主通路は、完全に岩塊で埋め尽くされていた。隙間風すら通さない完全な閉塞。ストップウォッチは、撤退開始からまだ十四分しか指していなかった。
「……主退路A、閉塞」
三十四分残っているはずだった道が、一瞬でゼロになった。
「志賀さん、申し訳ありません。私がもっと早く――」
「氷室さんのせいじゃありません。迷宮が予定より早く呼吸しただけです」
荒い息を整え、俺は即座に足を反転させた。
「第二退路へ切り替えます。走ってください!」
「はい!」
退路は寿命が尽きるまで使い切るものじゃない。危険を感じた瞬間に余力を残して乗り換えるためにある。
◇
第二退路であるルートBは、側壁沿いの細い迂回路だった。幅は人一人がようやく通れる程度で、頭上からは鋭利な岩柱が無数に垂れ下がっている。
「はっ……はっ……くそっ……!」
三十九歳の運動不足の身体に、二十五キロの機材と深層の重圧が鉛のようにのしかかる。新調した高荷重衝撃吸収ブーツが足首への負担を和らげてくれていなければ、とっくに動けなくなっていただろう。
酸素残量は四十二パーセント。呼吸が荒いせいで、消費スピードが計算より二割増しで早い。
「……志賀さん、前方に熱源反応。複数です」
氷室の声が響いた。曲がり角の先から、カチカチと関節を鳴らす音が湧き出す。第十層の固有種――黒曜殻蠍。体長二メートルの漆黒の甲殻生物が、三匹、通路を塞いでいた。
「私が処理します。十秒待ってください」
氷室が刀を構え、前傾姿勢を取った。
「駄目だ、氷室さん! 倒さなくていい!」
「……え?」
「ここは地盤が薄いんです。全力で剣圧を放てば、この迂回路そのものが下の空洞へ崩落します」
足元の隙間から水流の音が聞こえていた。測距器の超音波データが、床面の厚みが五十センチしかないと警告している。
「敵を倒す必要はありません。二十秒だけ足止めしてください。時間を稼ぐだけでいい」
「……了解」
氷室は踏み込みの力を抑えて地を蹴った。
刃が閃く。敵を両断する剛剣ではなく、関節の隙間と脚の付け根だけを突く精密な連撃だった。火花が暗闇を照らし、脚を砕かれた蠍たちが威嚇音を上げて態勢を崩す。
深層において、戦闘力は道を開く暴力じゃない。時計の針を止める『秒を買う道具』だ。
「今です、志賀さん! 頭上を抜けてください!」
「うおおっ……!」
呻き声を上げながら、俺は氷室が作った頭上のわずかな隙間へ身を滑り込ませた。通り抜けたのを確認した氷室は刀の腹を叩き込んで距離を取り、風のように背後へ追いついた。
「行きますよ、第三退路の接続点へ!」
だが、駆け抜けた先でズズズ……と地響きが轟いた。天井の崩落ではない。通路そのものが横方向に滑るようにズレたのだ。
断層の水平せん断によって、目の前にあったはずの出口が壁の向こうへ消え去っていた。
「……嘘だろ」
主退路Aは崩落。第二退路Bは断層のずれで消失。残されたのは、最初から最も不安定で使いたくなかった『第三退路』だけだった。
◇
辿り着いた第三退路の予定位置は、完全な袋小路だった。
巨大な黒曜石の絶壁が行く手を遮っている。道がない。
「……志賀さん」
氷室が背後を警戒しながら呼んだ。背後からは先ほどの蠍の這い寄る音と、崩落を繰り返す迷宮の咆哮が迫っている。
酸素残量は三十パーセントを切り、太ももは痙攣を始めていた。
「……壁を、斬りますか」
「厚みが数メートルあります。斬り抜ける前に背後から組み替えの圧力が押し寄せて圧殺されるのがオチです」
「では……どうすれば」
「待ちます」
「待つ……?」
氷室が怪訝そうに目を瞬かせた。魔物が迫り、瓦礫が降る極限状況で、『待つ』という選択肢は狂気にしか見えない。
「そうです。開くのを待つんです」
壁に背を預け、俺は震える手で古い超音波測距器を壁の継ぎ目に当てた。
重低音の底に混ざる高い金属音。チチチ、という微小破壊の音。敷石の隙間から湧き出す空気の泡。
「さっき主退路Aが潰れ、第二退路が横にスライドしました。となれば、このブロックにかかる応力は、限界まで引張側に偏っています」
ストップウォッチの秒針を凝視する。
「壊れる順番には癖があるんです。一つの部屋が押し潰されたら、空気と魔素の抜け道を作るために、別の場所の噛み合わせが外れる。……この壁は行き止まりじゃない。まだ開いていないだけの、次の扉です」
氷室は何も言わず、刀を両手で構え直して俺の前に立ちはだかった。
「何秒、稼げばいいですか」
「あと……四十五秒です。それまで、何があってもこの場を動かないでください」
「了解しました」
闇の奥から黒曜殻蠍が姿を現した。狭い通路を殺気が満たす。
カチ、カチ、カチ……と秒針が刻まれていく。
残り三十秒。
魔物が跳躍した。氷室の刃が一閃し、毒針が宙を舞う。氷室は一歩も引かず、最小限の太刀筋で攻撃を弾き、時間を削り取っていく。
残り二十秒。
壁の奥からピシリと亀裂の音が響いた。古い測距器の針が跳ね上がる。敷石の隙間の水流が引き波のように吸い込まれていく。
「志賀さん!」
「あと十秒! 耐えてください!」
九、八、七……。
背後の黒曜石の壁全体がドクンと波打った。
三、二、一……。
「今だ! 氷室さん、後ろへ飛んで」
叫びと同時に、巨大な絶壁が地響きとともに内側へ滑落した。
ゴォォォォン……!
壁が反転し、幅三メートルの真新しい通路が口を開けた。冷涼な空気とともに、上層からの風が抜けてくる。
「っ……!」
氷室が後方へ宙返りし、開いたばかりの開口部へ滑り込んできた。俺は彼女の腕を掴み、新しい回廊へ雪崩れ込んだ。
直後、天井の巨岩が落ちてきて入口を完全に塞いだ。
ドガァァァン!
開くのを待ち、開いた瞬間に駆け抜け、背後の閉塞で追撃を断つ。
浅層の配信でやっていた「まだ開いていない道を待つ」技が、深層において俺たちの命を救い出していた。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
壁に手をつき、猛烈な息切れに襲われながら膝をついた。
だが倒れ込む前に、震える指で測距器のボタンを押し、壁面の継ぎ目を指でなぞった。古代規格の施工印と、崩落に耐えうる頑牢な角柱の境界線。
「……記録、完了」
壊れない構造基準点。このポイントさえ押さえておけば、迷宮がどれだけ組み替わろうとも、第十層の入口からこの第三退路を経由して安定帯へ至る再現可能な座標が手に入る。
公社の地図が空白だった第十層に、人類で初めて確実な一本の線が引かれた。
◇
重い足を引きずり、傾斜の急な石段を登り続けた。
やがて頭上に、第九層最奥に設置された公社の中継アンテナの緑と青のインジケーターランプが見えた。
ピピッ、ピピピピッ……!
境界線を越えた瞬間、胸ポケットの端末が電子音を鳴り響かせた。圏外の表示が消え、アンテナピクトが最大まで立ち上がる。
『不在着信:七尾佳奈(42件)』
『緊急メッセージ:現在の位置を至急返信してください』
『エージェント通知:予定生存限界時刻を通過しました。公社救助隊の待機要請を――』
画面を埋め尽くす通知の光を見つめながら、俺はその場にどさりと尻餅をついた。
背嚢が重い。足が棒のようだ。腰が砕けそうに痛む。だが肺を満たす空気は、確かに公社の換気システムが送り込んでくる地上の空気だった。
「……帰ってきた」
口からこぼれたのは、情けないほど掠れた呟きだった。
冷たい敷石の上に倒れ込み、天井の蛍光灯を見上げた。生きて帰ってきた。人類最強の少女を連れて、誰一人欠けることなく、第十層の暗黒から自力で這い上がってきたのだ。
コト、と静かな足音が近づいてきた。
見上げると、煤と岩粉で頬を少し汚した氷室灯が、俺の顔を覗き込んでいた。その白い顔が、ふっとわずかに緩んだように見えた。彼女は刀を下ろすと、丁寧に両手を前で揃え、深々と頭を下げた。
「……志賀さん。ありがとうございました」
短く、飾らない言葉。だがその声の奥には、どんな莫大な報酬よりも重く温かい実感が込められていた。
「……いえ。お疲れ様でした、氷室さん」
俺は泥だらけの手を挙げて、弱々しく笑った。
遠く、第八層へと続く通路の先から冷たい風が吹き抜けていく。俺たちの最初の深層潜行は、こうして完全な生還という形で幕を閉じた。




