第13話 退路の寿命
巨大なドーム状の安定帯に、冷たく重い静寂が澱んでいた。
目の前には、第十一層へと吸い込まれるように続く黒曜石の大石段。その開口部からは、これまで嗅いだこともないほど濃厚な魔素の匂いと、氷のように冷徹な地下風が微かに吹き上がってきていた。手すりには摩耗した古代の文字が刻まれ、その奥の闇には、紫がかった燐光が微かに揺らめいている。
階段の脇には、古代の規格で刻まれた巨大な楔形の道標が立ち、深層のさらなる深淵への到達を無言で告げていた。
だが、その栄光の境界線の手前で、俺はクリップボードを抱えたまま、一歩も動けずに立ち尽くしていた。
「……志賀さん」
氷室灯が、刀の柄から手を離さずに問いかけてきた。その澄んだ瞳は、暗黒の石段の先を真っ直ぐに見据えている。
「何か、問題がありますか」
「……ええ。大問題です」
俺は膝をつき、方眼紙の上に鉛筆で三本の退路のタイムラインを書き殴った。
主退路A、残り四十八分。
予備退路B、残り五十三分。
緊急退路C、残り四十三分。
左手首のストップウォッチが、無情にも秒単位でデジタル数字を削り取っていく。脈拍は百十。呼吸は荒い。背嚢の二十五キロの荷物が、疲弊した肩に重くのしかかっていた。
「降下口の石段を下りて、第十一層の入口周辺の気流と魔素濃度を測定し、ここまで戻ってくる。どんなに急いでも往復で最低一時間……いえ、慎重を期すなら一時間半は必要です」
「私の足なら、三十分で往復できます」
氷室が迷いなく言った。その声には何の誇張もなく、単なる物理的事実としての絶対の自信が込められていた。
「志賀さんはここで待機してください。私が一人で階段を下り、道標の刻印を記録して戻ってきます。途中で魔物が出現しても、足を止めずに処理します」
行ける。人類最強の圧倒的な身体能力と剣技があれば、時間内に戻ってくることは物理的には可能かもしれない。
悪魔の囁きのように、頭の中で強烈な打算が蠢いた。
もし第十一層の到達記録を持ち帰ればどうなるか。エージェントの七尾さんは絶賛し、スポンサー企業は沸き立ち、公社の事後審査など一発で黙らせることができる。俺の月額百五十万の契約は盤石になり、成果報酬の五パーセント――数千万円の報奨金が確実に手に入る。
何より、無職で飢えていた三十九歳の中年が、自分を役立たずと切り捨てたアルゴノートを見返す最高の成果になるのだ。
喉から手が出るほど欲しい果実が、あと一歩踏み出すだけの場所にぶら下がっていた。
だが――。
「……駄目です」
俺は奥歯を噛み締め、首を横に振った。
「志賀さん?」
「氷室さん。行けますか、と聞かれれば、あなたなら行けるでしょう。ですが、俺の答えはノーです」
「理由を教えてください。敵の脅威なら私が排除できます。空間の歪みも、この安定帯の中であれば――」
「氷室さん」
俺は彼女の言葉を遮った。声を荒らげたわけではない。ただ、現場で十四年間、死んでいった探索者の背中を見送ってきた男の、冷徹な現実を口にした。
「俺は、あなたが行けるかどうかで判断していません。帰り道が何本残るかで決めているんです」
氷室の黒い瞳が、微かに揺れた。
「三本の退路の閉塞予測は、四十三分から五十三分の間に集中しています。あなたが階段を下りている間に、一番寿命の短い緊急退路Cが閉じたとします」
俺は鉛筆の芯を方眼紙に強く押し当てた。
「残るのは二本。ですが、組み替えは連鎖します。一本潰れれば、その分の圧力が残りの二本に集中し、退路AとBの寿命も一気に縮む。あと一つ狂えば退路はゼロです。俺たちはこの安定帯に閉じ込められて餓死します」
俺は立ち上がり、氷室の真っ直ぐな視線を受け止めた。
「あなたが三十分で戻ってきたとしても、その時には残された退路は一本しかなく、その一本もあと五分で閉じるかもしれない。そんな博打に、俺はあなたの命を賭けられません」
息を吸い、俺は一番伝えたかった言葉を口にした。
「探索者の勝利は、一番深い場所に触れた時じゃないんです。自分のアパートのドアを開けて、靴を脱いだ瞬間に初めて確定するんです。……俺があなたから受け取った前払金三百万と、毎月の報酬は、あなたを深層の奥へ連れていくための金じゃありません。あなたを生きて地上へ帰すための対価です」
周囲の空気が張り詰めた。
相手は世界に数人しかいないS級探索者。片や、登録区分すら浅層限定のしがない元マッパー。立場も戦闘力も、何一つ釣り合っていない。本来なら、雇い主の意向に逆らう権限など俺にあるはずがなかった。
だが、氷室灯は抗弁しなかった。
怒りも、失望も、焦燥も、その白い横顔には浮かばなかった。
彼女はゆっくりと刀の柄から手を離し、姿勢を正した。
「……分かりました。引き返します」
たった一言だった。
あまりにもあっさりとした承諾に、逆に俺の方が拍子抜けして、思わず目を白黒させてしまった。
「……え? あ、あの、本当にいいんですか? ここで戻ったら、今回の潜行記録は『第十層到達』止まりですよ。七尾さんにも文句を言われるかもしれませんし……」
「志賀さん」
氷室が首を横に振った。その表情には、澄み切った納得の色があった。
「私は契約の時、あなたに言いました。私が求めているのは、全能の予言者ではなく、退路の選択肢を提示してくれる技術者だと。……斬れない問題に関しては、志賀さんの判断が最優先です。あなたが引くと言うなら、引くのが最も合理的です」
一切の迷いのない言葉だった。
最強の探索者が、しがない中年の判断に命を預けて全面的に従っている。その信頼の純度と重みに、俺の背筋に冷や汗が流れた。
止める権限を持つということは、その判断に全責任を負うということだ。
「……分かりました。それじゃ、大至急で撤退の準備をしましょう」
雇い主が引くと言ってくれたのだ。ここからは一分一秒の遅れも許されない。俺はクリップボードを抱え直し、背嚢のベルトをもう一度固く締め上げた。
◇
撤退を開始する直前、俺たちは安定帯の岩陰に腰を下ろし、最後の小休止を取っていた。
「氷室さん、五分だけ時間をください。降下口の正確な座標と、この安定帯の空間周期のデータだけは、公社の記録装置に焼き付けておきます」
「はい。お願いします」
俺は防水紙にペンを走らせ、石段の傾斜角、道標の古代文字、そして安定帯を形成している四方の角柱の配置を素早くスケッチした。測距器のレーザーを照射し、四点の基準座標を記録メモリへ焼き付ける。
手ぶらで帰るわけにはいかない。深層の奥深く、誰も足を踏み入れられなかった第十一層の入口が『実在する』という確定座標――これさえ持ち帰れば、公社の事後審査でも十分に戦えるはずだった。
作業を終え、息をついた時だった。
「……ん」
隣から、小さなくぐもった声が聞こえてきた。
見ると、氷室が非常用の高カロリー行動食のアルミパウチを両手で握りしめ、眉間にシワを寄せて格闘していた。人工リンゴ味の甘酸っぱい香りが微かに漂う合成ゼリーのパウチだ。
「……氷室さん、何してるんですか?」
「開かないのです」
氷室は真顔で言った。握力なら素手で林檎を粉砕できるはずの女が、パウチの『あけくち』の小さな切れ目を見つけられず、包装を引きちぎろうとして悪戦苦闘していた。
「……貸してください」
思わず苦笑しながらパウチを受け取り、切れ目に爪を立ててペリリと開けてやった。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
氷室はペースト状の栄養食をぎこちなく口に含み、モグモグと咀嚼した。戦闘では神仏のように研ぎ澄まされているのに、日常の動作になると途端に不器用になる。その落差が、極度の緊張の中にあった俺の心を微かに緩めてくれた。
「志賀さん」
パウチを飲み干した氷室が、静かに尋ねてきた。
「次は、いつ潜れますか」
俺は胸元の臨時帯同許可証に手を触れた。今回の潜行限りで切れる、期限付きの紙切れ。事後審査を通過できるかどうかも、まだ分からない。
だが、俺は隣の少女を見つめ、小さく微笑んだ。
「この記録を無事に持ち帰れば……なんとかなりますよ。そのために、まずは生きてここを出ましょう」
「はい」
氷室が力強く頷き、身軽に立ち上がった。その背中には、一切の未練も悔恨の色もなかった。
三本の退路の寿命が尽きる前に、俺たちは今来た暗黒の回廊へと、地上を目指して駆け出した。背後で、迷宮が次の形へと軋み始めていた。




