第19話 賭けの受け方
審査会まであと十一日となった水曜日の午後、俺は都心の高層ビルにあるエージェント事務所の応接室に呼び出されていた。
磨き上げられたガラステーブルを挟んで、七尾佳奈と、グレイのスーツを着た中年男性――提携法律事務所の主任弁護士が座っている。テーブルの上には、製本された正式な弁明書の束が置かれていた。
「志賀さん、結論から申し上げます」
弁護士が眼鏡のフレームに指を添え、落ち着いたトーンで切り出した。
「公社側との事前折衝は極めて良好です。こちらの提出する回答書で『偶発的な重複』を主張し、同時に公社が提示する『特定業務不履行に関する誓約書』に署名捺印を行えば、口頭ナビ事案は戒告以下の不処分で決着します。第十層潜行の事後審査についても、氷室選手の単独判断に付随したものとして処理され、帯同許可の凍結は即時解除される見通しです」
「特定業務不履行に関する誓約書……」
俺が繰り返すと、隣の七尾さんが手元の書類を滑らせてきた。
「分かりやすく言えば、『今後いかなる事態が発生しても、公社公認の救助指揮官資格を有しない限り、迷宮内の第三者に対して進路誘導や組み替え予測の伝達を行わない』という誓約です」
七尾さんの声は、冷たいほど平坦だった。
「法務としては百点満点の落とし所です。公社もメンツが立ちますし、志賀さんも前科がつかず、氷室灯の専属ナビという本業へ復帰できる。何も失うものはありません」
「何も失わない……ですか」
俺は机の上の誓約書を見つめた。
目の前で誰かが道に迷い、組み替えの壁に押し潰されそうになっていても、声を出してはならない。画面の向こうで泣き叫ぶ探索者がいても、右に行けとも、そこで待てとも言ってはならない。もし口を開けば、その瞬間に契約違反となり、今度こそ完全に業界から追放される。
あの時、第五層の暗闇で震えていた十和田の手を、自分から振り払うのと同じ約束だった。
「……少し、考えさせてください」
「志賀さん」
七尾さんが眉をひそめた。
「迷う理由がどこにあるんですか? これはあなたを守るための最善策ですよ。相手は迷宮管理公社です。国家機関を相手に意地を張って、勝てるわけがないでしょう」
「分かってます。分かってるんですが……少しだけ、頭を冷やさせてください」
俺は頭を下げ、逃げるように応接室を出た。
◇
ビルのエレベーターホールへ向かう廊下を歩いていると、自動販売機の横のベンチに、黒いジャージ姿の女性が座っていた。
膝の上に長い黒鞘の刀を抱え、視線を宙に漂わせている。
「……氷室さん?」
声をかけると、氷室灯はゆっくりと顔を上げた。化粧気のない整った顔立ちに、いつもの淡々とした表情が浮かぶ。
「志賀さん。終わりましたか」
「ええ、まあ……どうしてここに? 事務所に来る予定なんてありましたっけ」
「装備の手入れが終わったので、七尾氏に報告に来ました。志賀さんが来ていると聞いて、待っていました」
氷室さんは立ち上がり、刀を背中に背負い直した。
「あの……少し、お茶でも飲みませんか。下のカフェで」
「はい」
一階の開放的なカフェのテラス席に移動し、アイスコーヒーを二つ頼んだ。氷室さんはストローを使わず、グラスに直接口をつけて冷たい液体を一気に半分ほど飲み干した。
「志賀さん、浮かない顔をしていますね」
「あはは……分かりますか」
俺は苦笑しながら、先ほど応接室で突きつけられた話をかいつまんで話した。誓約書にサインをすれば、お咎めなしで元の仕事に戻れること。氷室さんとまた深層へ潜れるようになること。ただし、二度と口頭ナビをしてはいけないと約束させられること。
氷室さんは静かに耳を傾けていたが、グラスの結露を指先でなぞりながら、ふと口を開いた。
「口頭ナビをしないと約束するのは、志賀さんにとってどういうことですか」
直球すぎる問いかけだった。
飾り気のない、しかし芯を正確に射抜く言葉に、俺は自分の胸の中に溜まっていた澱を見つめ直した。
「……俺はね、氷室さん。戦闘力のない、ただの地図屋なんです。魔物も斬れないし、重い荷物も持てない。クランでもずっと、『お前の仕事は誰にでもできる』って言われてクビになった」
アイスコーヒーの氷が、カランと音を立てて溶ける。
「でも、あの時……配信の向こうで十和田さんが泣いてるのを見た時、俺の目には道が見えてたんです。ここで待てば壁が開く、右に曲がれば助かるって。二十年迷宮を歩いてきた自分の目が、確かに正解を捉えてた。それを『偶然でした』って嘘をついて、二度と助けませんって紙に判子を押したら……俺は、俺が二十年間やってきた仕事を、自分で殺すことになる」
口にして初めて、自分の本当の気持ちに気づいた。
仕事を失うのが怖いのではない。首が繋がることと引き換えに、自分が迷宮で生きてきた証を自分で踏みにじることが、何よりも耐えられないのだ。
氷室さんはじっと俺を見ていた。その黒い瞳には、一切の揺らぎがなかった。
「迷宮の中での判断は、志賀さんが最優先です」
彼女は淡々と、しかし絶対の確信を込めて言った。
「志賀さんがそちらへ進むと言うなら、私はその通りに刀を振るだけです。地上でも同じです。志賀さんが納得していない道へ、私がついていく理由はありません」
その言葉が、俺の背中を強く、確かに押した。
◇
その足で、俺は十和田を呼び出し、夕方の迷宮管理公社へと向かった。
区画測量課のドアを開け、宮原補佐を呼び出す。案内されたのは、数日前と同じあの狭い第三聴取室だった。
「志賀さん、急にアポイントを取られてどうされたのですか?」
宮原補佐は眼鏡の奥の目を細め、怪訝そうに俺と、後ろに立つ十和田を見比べた。手元にはすでに、エージェント側から届いた和解案の連絡メモが挟まれているのが見えた。
「エージェントの方から、大筋合意の連絡を受けていますが。今日来られたのは、誓約書の事前確認ですか?」
「いいえ」
俺はパイプ椅子に深く腰を下ろし、まっすぐに宮原補佐の目を見据えた。
「和解案には署名しません。誓約書も出しません」
宮原補佐の眉がピクリと跳ね上がった。
「……本気ですか? 何を言っているのか分かっているのですか」
「分かっています。偶然だという嘘はつけません。俺が十和田さんを助けたのも、第十層から生還したのも、すべて自分が積み上げてきた観察と手順に基づいた判断です」
「手順、ですか」
宮原補佐は冷ややかに鼻を鳴らした。
「前回も申し上げたはずです。客観的に提示できないものを、公社は認めるわけにはいかないと」
「ですから、提示します」
俺は十和田から受け取ったクリアファイルを机の上に置いた。昨夜、手帳から清書した二十四項目の観測メモだ。
「俺の手順を文書にします。そして、それを公社の立会のもとで、実際の迷宮で検証してください」
部屋の空気が一変した。
十和田が息を呑み、宮原補佐が手元のペンを止めた。
「……検証? あなたが迷宮の組み替えを予告し、それを公社が現場で確認しろと?」
「はい。組み替えが起きる前に、場所と方向、時間を記した予告書を封筒に入れて封緘し、公社に預けます。予告を出した後は、俺はその区画に一切立ち入りません。組み替えが起きた後、公社の技官が封を開けて、的中しているかどうかを記録してください」
「正気とは思えませんね」
宮原補佐は身を乗り出し、鋭い視線で俺を射抜いた。
「もし一度でも外れれば、あなたの言う『手順』はただの虚偽申告になります。そうなれば口頭ナビの件も悪質なスタンドプレーとして厳重処分が下り、一般探索者登録すら剥奪される可能性がある。配信での信用も失い、氷室選手との契約も見直されるでしょう。あなたが積み上げてきたすべてが消えるんですよ」
「ええ。承知の上です」
俺は微塵も揺れずに答えた。
黙秘して生き残れば、安全かもしれない。だがそれは、次に同じ事故が起きた時に口を塞がれる生き方だ。そんな生き残りに、何の意味があるのか。
宮原補佐は長い沈黙の後、眼鏡を外して眉間を指先で揉んだ。
そして、顔を上げた時――その唇の端が、ほんのわずかに、初めて見るような皮肉な笑みを作っていた。
「……いいでしょう。受けます」
その声は、これまでの事務的な官僚のそれではなく、盤面に駒を打ち込む勝負師の響きを帯びていた。
「浅層で二件、中層で一件。計三件の事前封緘検証を行います。立会は当課のAI測量担当技官を派遣します。費用は公社が持ちますが、結果はすべて公的記録として審査会へ提出されます。いいですね?」
「はい。よろしくお願いします」
「審査会まであと十一日。検証初日を四日後とします。それまでに、他人が読んで理解できる正式な『手順書』を作成して提出してください。間に合わなければ、その時点で不合格です」
宮原補佐は立ち上がり、淀みない動作で書類を片付けた。
賽は投げられた。
逃げ道をすべて塞ぎ、俺は自らの手で、二十年の技術を賭けた制度のリングへと上がり込んでいた。




