第93話 最終戦闘評価室
ダンジョンの奥へ進むほど、魔物の密度は増していた。
もはや探索という言葉が似合う状況ではない。通路の先にも後ろにも、醜悪な獣面を持つコボルトが群れ、その後方からは三メートルを超えるトロルが壁を擦りながら迫ってくる。頭上では、爬虫類じみた身体の背から薄い翅を展開した飛行型が、不快な羽音を響かせていた。
ブブブブブッ――!
「多すぎるだろ!」
蓮は振り返りざまに右手を振った。
重力場が歪み、飛びかかってきたコボルト数体がまとめて床へ叩きつけられる。その後ろを走っていた個体まで巻き込まれ、狭い通路の上で折り重なった。
倒しきる必要はない。
ここで一体ずつ相手をしていても意味がなかった。原因は管理システムにある。それを直さない限り、この異常は終わらない。
「イザナミ、管理区画はまだ?」
『施設情報の欠損が大きく、正確な経路を確定できません。ただし、現在の進行方向で管理階層へ接近しています』
「なら、このまま行く!」
前方からトロルが現れ、巨大な腕を振り上げた。
蓮は速度を落とさない。
重力制御。
巨体の重心が突然横へ引かれた。
「グォッ!?」
トロルが壁へ激突する。
蓮はその横を駆け抜けた。
すぐ後ろで轟音が響いた。まだ追ってきている。
そのまま走り続けると、やがて通路の先に、それまでとは明らかに異なる巨大な扉が見えてきた。
「イザナミ。あれは?」
『保存情報を照合。管理区画直前に設置された最終戦闘評価室です』
「最終戦闘評価室?」
蓮は走りながら扉を見た。
「……名前からして嫌な予感しかしないんだけど」
『施設上の正式名称は最終戦闘評価室です』
「それは聞いた」
扉が左右へ開く。
蓮は迷わずその中へ飛び込んだ。
直後、背後で低い駆動音が響き、巨大な扉が閉まり始める。
「え?」
追ってきたコボルトが隙間へ飛び込もうとしたが、間に合わない。
ドン!
扉が閉じた。
すぐ向こう側から何体もの魔物が激突する音が響き、爪が金属面を引っ掻いた。
だが、扉はびくともしない。
『最終戦闘評価開始後、外部生物の侵入を防止する隔離機構が作動しています』
「そこは正常なのかよ」
『当該機構は独立系統です』
「だったら他もそのくらい頑丈に作っとけよ……」
蓮は呼吸を整えながら前を向いた。
広大な空間だった。天井は高く、床や壁には無数の傷が刻まれている。
その中央に、何かが立っていた。
「…………」
四メートル近い巨体。
人型ではある。
だが、人ではない。
異様に発達した胸部と肩。太い脚。巨大な腕。
その上に載っているのは、牛の頭だった。
湾曲した二本の角。鼻孔から荒い息が漏れ、右手には巨大な両刃の斧が握られている。
「……ミノタウロス」
『登録名称を照合』
短い間があった。
『MINOTAUR。登録名称と一致します』
「本当にミノタウロスなのかよ」
牛頭が上がった。
蓮を見る。
巨大な斧が持ち上げられる。
「ヴォオオオオオオオオッ!」
咆哮が部屋を震わせた。
「そこまでゲームに忠実じゃなくていいんだよ!」
蓮はREGULATOR製の単分子ブレードを抜いた。
ミノタウロスが床を蹴る。
「速っ――」
巨体が一瞬で間合いを詰め、斧が振り下ろされた。
蓮は横へ跳ぶ。
轟音とともに床が砕け、破片が飛んだ。
その中へ蓮は踏み込む。
単分子ブレードを振るったが、ミノタウロスは身体を捻った。刃は脇腹を浅く走り、肉を裂く。
「ヴォオッ!」
返すように裏拳が飛んできた。
蓮は防御場を展開しながら後退する。
衝撃。
「ぐっ!」
身体が浮き、数メートル押し飛ばされた。
どうにか着地する。
「馬鹿力だな……」
だが、切れる。
単分子ブレードは問題なく通用していた。当てさえすれば、肉も骨も断てる。
問題は、その一撃を当てるまでだった。
再び斧が横薙ぎに振るわれる。
蓮は身体を沈めた。
巨大な刃が頭上を通過し、風圧だけで髪が揺れる。
重力制御。
ミノタウロスの右足へ瞬間的に負荷をかける。
巨体の姿勢がわずかに崩れた。
「今!」
蓮は一気に踏み込み、斧を握る右腕を狙った。
単分子ブレードが肘の少し下を走る。筋肉も骨もほとんど抵抗にならず、巨大な斧を握ったままの右前腕が床へ落ちた。
「ヴォオオオオオオオオオッ!」
血が噴き出す。
ミノタウロスが右腕を抱えるように身を引いた。
蓮も距離を取る。
「これで斧は――」
ミノタウロスが動いた。
「……え?」
左手を伸ばし、床に落ちた自分の右前腕を掴んだ。
切断された右手は、まだ巨大な斧を握っている。
「おい」
持ち上げた。
「おいおいおい」
斧を握ったままの、自分の腕を。
「そういう使い方する!?」
「ヴォオオッ!」
振った。
「っ!」
蓮は防御場を最大展開した。
切断された前腕ごと、斧が横薙ぎに叩きつけられる。
ドンッ!
「ぐあっ!」
身体が吹き飛んだ。
床から足が離れ、数メートル飛ばされる。
さらに。
背中から壁へ激突した。
バキッ!
壁に亀裂が走る。
「がっ……!」
そのまま床へ落ちる。
『天城蓮。身体各部に衝撃損傷』
「見れば……分かる……」
防御場とアーマーがなければ、今ので終わっていた。
ミノタウロスが迫る。
切断された腕をもう一度振りかぶった。
「くそ……!」
蓮は立ち上がる。
今度は分かっている。
その腕と斧を合わせた攻撃範囲も。
「その距離なら――」
大きく後退する。
一歩。
二歩。
さらに一歩。
十分。
さっきの攻撃より明らかに外だ。
ミノタウロスが振った。
切断された前腕が弧を描く。
届かない。
そのはずだった。
その瞬間。
死んだ右手の指が開いた。
「え?」
巨大な斧が抜けた。
遠心力に引かれ、そのまま飛んでくる。
「は?」
蓮は反射的に身体を反らした。
刃が顔のすぐ前を通過し、数本の髪が宙を舞う。
直後。
ドゴォン!
斧が壁へ深々と突き刺さった。
「…………」
蓮は壁を見る。
ミノタウロスも壁を見る。
そして、左手に持っている自分の切断された右前腕を見る。
その先には、もう斧がない。
「……お前も予想してなかっただろ」
「…………」
「それは反則だろ」
「ヴォオオオオオッ!」
「誤魔化したな!?」
ミノタウロスが切断された右前腕を振りかぶった。
「まだ使うのかよ!」
投げた。
「うわっ!」
蓮が横へ跳ぶ。
切断された腕が回転しながら飛んでいき、背後の床へ叩きつけられた。
斧も、右前腕も失った。
それでも終わらない。
ミノタウロスが走る。
「まだ来るのか!」
左拳。
蓮が避ける。
床が砕ける。
続けて蹴り。
防御場で受ける。
衝撃に押され、蓮の身体が後ろへ滑った。
「っ……!」
間を置かず、ミノタウロスがさらに踏み込む。
右肩が動いた。
「え?」
蓮の目が一瞬、そこへ向く。
右腕。
正確には、肘から先がもうない右腕。
その無い方の右腕を、ミノタウロスが大きく振り抜いた。
「そっちで殴るのかよ!?」
拳などない。
前腕もない。
それでも、残された肘から上を叩きつけるように振ってくる。
蓮は身を反らした。
肘の断端が目の前を通過し、血飛沫が散る。
「いや、怖いって!」
ミノタウロスは止まらない。
左拳を避け、続く蹴りから距離を取る。
その直後、牛頭が低く沈んだ。
二本の角が蓮へ向く。
『突進行動を予測』
「見れば分かる!」
ミノタウロスが床を蹴った。
速い。
正面から二本の角が迫る。
蓮は逃げない。
最後まで引きつける。
近い。
さらに。
「今!」
重力場を一瞬だけ横へずらした。
踏み込みが崩れる。
ほんのわずか。
それで十分だった。
蓮は横へ抜け、同時に単分子ブレードを振るった。
刃が首を通過する。
牛頭が宙へ浮いた。
巨大な身体は、そのまま二歩進んだ。
一歩。
二歩。
止まる。
膝をついた。
そして。
ドォン――。
倒れた。
「…………」
蓮はしばらく動けなかった。
荒い呼吸を繰り返す。
『生体反応停止を確認』
「……やっとか」
単分子ブレードを下ろした。
「強すぎるだろ、こいつ……」
部屋に機械音が響く。
《最終戦闘評価終了》
正面の扉が開いた。
「……やっぱりボス部屋じゃねえか」
蓮は痛む背中を押さえながら、その先へ進んだ。
◇
その頃。
エルフの集落では、まだ戦いが続いていた。
美冬は大型パルスガンを腰だめに構えた。
光が走る。
トロルの胸が大きく抉れた。
だが、倒れない。
傷口が蠢き、すでに再生を始めている。
「もう一発!」
二射目。
今度は頭部を撃ち抜いた。
巨体が崩れる。
その横を、何体ものコボルトが駆け抜けようとしていた。
小柄な身体に不釣り合いなほど大きな獣面。突き出した顎には不揃いな牙が並び、両手の指からは長く湾曲した爪が伸びている。低い姿勢で走り、速度が上がると四足に近い動きへ変わった。
避難する住民を追う。
だが、その前へ小さな影が飛び込んだ。
「そこまでじゃ!」
レモだった。
大鎌が閃く。
単分子の刃がコボルトをまとめて切り裂き、その直後には別方向にいた個体まで吹き飛んだ。
レモは大鎌を操りながら、同時に環境ナノマシンまで並列制御している。
「レモちゃん! 危なくなったら、すぐ逃げるのよ!」
「分かっておる!」
上空から、不快な羽音が迫る。
ブブブブブッ――!
飛行型。
爬虫類じみた身体の背中が開き、その内側から何枚もの半透明の薄い翅が展開された。
避難中のエルフへ急降下する。
戦術ドローンが反応した。
だが、そのままでは住民が射線に入る。
ドローンは発射せず、横へ高速移動した。
角度を変える。
射線が開く。
発射。
飛行型が撃ち抜かれ、勢いのまま地面へ転がった。
別のドローンが屋根の上を通過する。
さらに一体を捕捉し、その情報を共有された別機が先回りして撃墜した。
それでも、数が多すぎる。
エルフたちは弓を射続け、剣と槍で防衛線を維持していた。十機の戦術ドローンも休むことなく戦い、美冬もレモも応戦している。
それでも、少しずつ押されていた。
倒した数以上に、森の向こうから魔物が現れる。
ダンジョンから溢れた群れが、まだ続いているのだ。
その時だった。
ゴォォォォォォォォ――!
山々が震えた。
巨大な影が稜線を越える。
「ドラゴン!」
エルフたちに動揺が走った。
「こんな時に!?」
美冬も空を見上げた。
だが。
「おお!」
レモだけが嬉しそうに声を上げた。
「ハムちゃん!」
巨大なドラゴンが旋回する。
「グォオオオオオオッ!」
「ハムちゃん! こっちじゃ!」
レモが手を振る。
ドラゴンが明らかに反応した。
「……ハムちゃん?」
近くにいたエルフが呆然とする。
「まさか……魔王の娘?」
別のエルフがレモを見る。
「人間の街にいるっていう……」
「ドラゴンを従えてるって噂の?」
レモが胸を張った。
「その通りじゃ!」
大鎌を掲げる。
「魔王の娘たる妾が来たからには、安心するがよい!」
そして空を指した。
「あれは妾のハムちゃんじゃ!」
ハムちゃんが降下した。
巨大な翼が大気を叩き、コボルトの群れがまとめて吹き飛ぶ。
首を巡らせる。
口腔内へ光が集まった。
閃光。
巨大な光柱が森際を薙ぎ払い、魔物の群れをまとめて消し飛ばした。
戦線に大きな穴が開く。
「今だ!」
エルフの探索者が叫んだ。
矢が飛び、剣士たちが前へ出る。
戦術ドローンも攻撃範囲を広げた。
押され続けていた防衛線が止まる。
そして、ゆっくりと押し返し始めた。
そこへ。
『神崎美冬』
「何?」
『人類自治政府救援隊、戦域へ到着します』
低い飛行音が近づいてくる。
複数の輸送機が山を越え、集落上空へ進入した。
戦闘訓練を受けた人員が次々と降下する。
救護要員。
技術要員。
そして。
輸送機の腹部から、巨大な機械が降ろされた。
ドン!
地面が揺れる。
人型ではない。
低く横に広がった装甲車体から、太い六本の脚が伸びている。それぞれの脚が独立して地面を捉え、着地の衝撃を吸収した。
人類側の大型戦術機だった。
もう一機。
さらに一機。
上部のセンサー群が周囲を走査し、敵性生物と人間、エルフ、避難中の住民を瞬時に識別する。戦術ドローンから送られてくる情報も統合され、各機へ共有されていった。
「大型個体を優先! 避難経路を確保!」
救援隊の指揮官が声を上げた。
大型戦術機の六本の脚が動く。
低い姿勢のまま、巨体からは想像できない速度で戦場を駆けた。
トロルが咆哮を上げ、巨大な腕を振り下ろす。
大型戦術機が受け止めた。
六本の脚が地面へ沈む。
それでも倒れない。
機械のアームがトロルの腕を掴み、そのまま巨体を持ち上げる。
投げた。
三メートルを超えるトロルが宙を舞い、地面へ叩きつけられた。
間を置かず、別の大型戦術機が射撃を加える。
再生する暇を与えない。
戦況が一気に変わった。
ハムちゃんが魔物の密集を崩す。
戦術ドローンが空と避難経路を守る。
大型戦術機がトロルを押さえる。
人間の戦闘要員が防衛線へ加わり、エルフの探索者たちも前へ出た。
美冬は大型パルスガンを腰だめに構える。
さっきまでとは違う。
もう、こちらが押している。
「今度は、こっちの番ね」
引き金を引いた。
◇
蓮は管理室の中央に立っていた。
空中にいくつもの警告表示が浮かんでいる。
「イザナミ、接続」
『接続を確認』
情報が流れ込んでくる。
生物生成、個体数管理、区画制御、清掃、救助。
複数の機能が停止し、あるいは矛盾した命令を繰り返していた。
「よくこれで動いてたな……」
『正常稼働とは評価できません』
「それは分かる」
蓮は修復を始めた。
破損した処理系統を切り離し、矛盾した管理情報を整理する。停止していた機能を一つずつ戻していくと、空中に浮かんでいた赤い警告が順番に消えていった。
最後の表示が消える。
《MANAGEMENT SYSTEM:NORMAL》
「……戻った」
『管理システムの正常稼働を確認しました』
その直後だった。
ぬるり。
「ん?」
壁際から透明なものが出てきた。
スライム。
一匹。
さらに一匹。
床と壁の境目からも現れる。
「…………」
天井の継ぎ目。
通気口。
排水口。
壁の微細な隙間。
ありとあらゆる場所から、スライムが這い出してきた。
「うわ……」
十や二十ではない。
次から次へと出てくる。
『生物量管理機能が再起動しました』
「ああ……そういうことか」
ダンジョン全域でも、同じことが起きていた。
通路を埋めていたコボルトへ何匹ものスライムが取りつく。
コボルトは暴れ、爪で引き剥がそうとするが、一匹を剥がしている間に二匹、三匹と身体へまとわりつく。
トロルにも。
飛行型にも。
異常増殖した魔物へ、次々とスライムが群がっていった。
トロルが壁へ身体を叩きつける。
何匹かのスライムが潰れた。
それでも別の個体が取りつく。
飛行型の背中を覆い、薄い翅の動きを止める。
床へ落ちたところへ、さらにスライムが群がった。
やがて魔物たちの動きが鈍くなり、一体、また一体と動かなくなっていく。
あとは時間をかけて消化されるだけだった。
「清掃係ってレベルじゃないな……」
『スライム群は生物量調整、有機物処理、探索者救助など、複数の保守機能を担っています』
「なるほどね」
蓮は管理項目を確認していく。
そこで、一つの項目に目を止めた。
《EXPLORER RESCUE TRANSPORT》
《OFF》
「あ」
以前から停止していた機能。
戦闘不能になった探索者をスライムが保護し、入口まで運ぶためのシステム。
「これも直ってる?」
『機能診断が可能です』
「やって」
数秒。
『正常動作を確認』
「じゃあ、オン」
《EXPLORER RESCUE TRANSPORT》
《ON》
「これでいい」
◇
『神崎美冬』
「はい」
『天城蓮がダンジョン管理システムを復旧しました』
美冬は山の方へ目を向けた。
「天城さんは?」
『生存を確認しています』
「……そう」
美冬は小さく息を吐いた。
それから周囲を見回す。
少し離れたところで、レモが残ったコボルトを相手にしていた。
「レモちゃん!」
「何じゃ!」
「天城さん、大丈夫だって! ダンジョンのシステムも直したって!」
「おお! さすがレンじゃ!」
もう戦況は決していた。
新たな魔物はダンジョンから出てこない。地上に残った個体も、急速に数を減らしている。
集落は守られた。
建物には被害が出ている。
負傷者もいる。
それでも、防衛線は最後まで破られなかった。
救護班は負傷者の治療を続け、技術要員は周辺設備とダンジョンの監視を始めていた。
戦いが終わった地上には、大量の死骸が残されている。
コボルト。
飛行型。
トロル。
事後処理班がすぐに回収へ動いた。
小型ドローンが死骸を走査して生体反応の有無を確認し、必要な試料を採取する。大型の死骸は作業機械で運ばれ、小型のものも次々と集められていった。
回収された死骸は集落から離れた処理区域へ移され、移動式の高温処理装置による焼却準備が進められていた。
しばらくして。
『神崎美冬。天城蓮がダンジョン入口の封鎖解除を開始します』
「分かりました」
美冬は振り返った。
「レモちゃん!」
「何じゃ?」
「天城さんが出てくるって」
「おお!」
レモが駆けてくる。
「迎えに行くのじゃ!」
◇
ダンジョン入口。
蓮は、自分自身が作った壁の前に立っていた。
「外は?」
『安全を確認しています』
「開ける」
ナノマシンへ指示を送った。
岩石と施設構造材が変形し、中央に細い隙間が生まれる。
光が差し込んだ。
外気が入ってくる。
隙間が広がっていく。
蓮が外へ出ると、壁が開ききるより先に聞き慣れた声が飛んできた。
「レン!」
入口の前にはレモが立ち、その隣には黒いパワーアーマー姿の美冬がいた。
「遅いのじゃ!」
「ごめん」
美冬は何も言わず、蓮を上から下まで見た。
アーマーには傷がある。
壁へ叩きつけられた衝撃の痕跡も残っている。
「……全然無事そうに見えないんですけど」
「ちょっと強いのがいた」
「ちょっと?」
「かなり」
「何と戦ったんですか?」
「ミノタウロス」
「何ですか、それ」
「牛の頭したでかい奴。斧持ってた」
「それで?」
「途中から自分の切れた腕を武器にしてきた」
「…………」
美冬が眉を寄せる。
「どういう意味ですか?」
「説明すると長い」
「あとで聞きます」
「はい」
レモが蓮のアーマーへ触れた。
「怪我をしておるではないか」
「大丈夫だよ」
「本当か?」
「帰ったらちゃんと診てもらう」
「ならよい」
蓮は周囲を見た。
エルフの探索者たち。
住民。
人類側の救援隊。
六本の脚で地面に立つ大型戦術機。
医療班。
技術班。
事後処理班。
まだ多くの者が動いている。
「集落は?」
美冬が頷いた。
「無事です」
「そっか」
蓮は大きく息を吐いた。
「よかった」
◇
三人が湖畔へ戻った頃には、太陽はかなり西へ傾いていた。
テント。
テーブル。
椅子。
バーベキューセット。
クーラーボックス。
三本の釣り竿。
朝に広げたものが、そのまま残っている。
「何一つ使ってないな」
「使う前に魔物が出てきたのじゃ!」
「そうだったな」
美冬が苦笑する。
結局、魚は一匹も釣れなかった。肉も野菜も焼かなかった。
三人で椅子に座って湖を眺める時間すらないまま、一日はほとんど終わってしまった。
蓮がテントを畳み、美冬が食器と調理器具を片付ける。レモは釣り竿を集めていた。
「レン」
「ん?」
「妾は一匹も釣っておらぬ」
「俺もだよ」
「妾が一番大きな魚を釣る予定だったのじゃ」
「予定だったな」
「バーベキューもしておらぬ」
「してないね」
レモが頬を膨らませる。
「今日は何をしに来たのじゃ」
「ダンジョン直して、スタンピード止めて、エルフの集落を――」
「そうではないのじゃ!」
「分かってるって」
蓮は笑った。
「また来よう」
レモが蓮を見る。
「本当か?」
「今度こそ釣りして、バーベキューしよう」
「約束じゃぞ」
「はいはい」
「『はい』は一回なのじゃ」
「はい」
レモは満足そうに頷いた。
蓮は美冬を見る。
「神崎さんもね」
「え?」
「次も来るでしょ?」
美冬は一瞬だけ黙った。
それから笑った。
「ええ。今度こそ、ちゃんと休日にしましょう」
◇
荷物を積み終える頃には、夕日が山の稜線へ近づいていた。
三人を乗せた水陸両用ライトプレーンが湖面を走る。
速度が上がり、水面を叩いていた音が消えた。
機体が浮かび上がり、湖を離れて夕暮れの空へ上昇していく。
前席では蓮が操縦桿を握っている。
後部座席には、美冬とレモが並んで座っていた。
「おお……」
レモが窓に顔を寄せる。
西の空は赤く染まっていた。
山々の向こうへ沈み始めた太陽。
橙色に染まる雲。
眼下の湖にも、同じ光が長く伸びている。
「綺麗じゃな」
「そうね」
美冬も窓の外を見る。
朝には、三人で一日を過ごすつもりだった。
湖で釣りをして。
バーベキューをして。
何もしない時間を過ごして。
実際には、そのどれもできなかった。
魔物の大群と戦い、巨大なドラゴンまで現れ、人類自治政府の救援隊まで出動した。
蓮は一人でダンジョンへ入り、傷だらけになって戻ってきた。
とんでもない休日だった。
それでも、美冬は前を見る。
操縦席の蓮と、隣で夕日に夢中になっているレモを眺めているうちに、朝方ふと浮かんだ考えがもう一度頭をよぎった。
三人で出かける姿が、まるで家族みたいだと。
朝は自分でも妙なことを考えたと思った。
けれど今は。
美冬は、その考えを慌てて打ち消さなかった。
「ミフユ」
「なに?」
「笑っておるぞ」
「……そう?」
「うむ」
美冬は窓の外へ顔を向けた。
「夕日が綺麗だからじゃない?」
「そうか?」
「そうよ」
レモも再び夕日を見る。
プロペラの音だけが、しばらく機内に響いていた。
美冬はシートへ身体を預ける。
今日は疲れた。
帰ったらシャワーを浴びて、早く休もう。
そう考えて。
「…………」
ふと。
思い出した。
美冬の笑顔が消えた。
「……天城さん」
「ん?」
「一つ、聞いていいですか?」
「何?」
「私が漆黒の銃戦士だって、いつから知ってたんですか?」
「…………」
返事がない。
「天城さん?」
「いや……」
「いつからですか?」
「……割と最初から」
「割と最初って?」
「最初に会った時には」
「最初からじゃないですか!」
レモが美冬を見る。
「漆黒の銃戦士とは何じゃ?」
「レモちゃんはちょっと待ってて」
「う、うむ」
美冬は前席の背もたれへ身を乗り出した。
「じゃあ、あの時も知ってたんですよね?」
「どの時?」
「私が声を変えてた時です!」
「ああ」
「ああ、じゃありません!」
「いや、隠したいみたいだったから、言わない方がいいかなって」
「だったら次の日、なんで私に『神崎さんも一度ダンジョンに行ってみれば?』なんて言ったんですか!」
「…………」
「知ってて言ったんですよね?」
「……はい」
「私、あの時なんて答えました?」
「『そうですね……考えておきます』」
「覚えてるじゃないですか!」
レモが二人を交互に見る。
「何の話をしておるのじゃ?」
「レモちゃん、本当にちょっと待ってて」
「うむ……」
「それに!」
「まだあるの?」
「あります!」
美冬の顔が赤くなる。
「あの時、私、声まで変えて……『俺には、この方が合っている』とか言ったんですよ!」
「あれは格好よかったよ」
「今それを言わないでください!」
「褒めてるんだけど」
「余計に恥ずかしいんです!」
蓮は操縦席から動けない。
美冬は前席の背もたれに手を置いた。
「天城さん」
「はい」
「人類居住区まで、まだ時間ありますよね?」
「……あります」
「ちょうどいいですね」
「何が?」
「最初から全部、説明してください」
「…………」
蓮は正面を向いたまま黙った。
「レモ」
「何じゃ?」
「助けて」
「嫌じゃ」
「即答?」
「レンが悪いような気がするのじゃ」
「まだ事情も聞いてないだろ」
「ミフユの顔を見れば分かる」
「そんなに?」
「分かりますよね、レモちゃん」
「うむ」
「ほら」
「何がほらなの?」
ライトプレーンは夕日に照らされながら、人類居住区を目指して飛び続けた。
第九十三話 了
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