第90話 今日は妾の日じゃ
翌朝。
天城蓮は仕事をしていた。
珍しく、ではない。
本来なら昨日も一昨日も、その前の日もやっていなければならなかった仕事である。
NOAH到着に向けた受け入れ準備は、日を追うごとに量を増していた。居住設備、物資輸送、軌道上での移乗手順、アマテラス側の設備調整。人類自治政府へ行政権限を移したとはいえ、古い船内システムや惑星設備には、今なお蓮でなければ確認できない部分が残っている。
それを三日間放り出した。
昨日、人類居住区へ戻った蓮を待っていたのは、柳原と美冬だった。
二人から何を言われたかは、あまり思い出したくない。
特に柳原は一度も声を荒らげなかった。
それが余計に怖かった。
だから今日は逃げない。
朝から端末を開き、未処理項目を一つずつ片づけている。
「レン」
背後から声がした。
「ん?」
振り返る。
レモが立っていた。
腕を組んでいる。
「話があるのじゃ」
「……何?」
「妾のようないたいけな子供を三日も置いて遊びに行き、何とも思わなかったのか?」
「待て」
蓮はすぐに反論した。
「そこは違う。置いていってない」
「ほう?」
「神崎さんのところに行くように伝えただろ」
「伝えた?」
「ちゃんと書いて――」
そこで蓮は止まった。
レモが無言で自分の外出用鞄へ手を入れた。
紙を一枚取り出す。
テーブルへ置いた。
『レモへ
三日ほど出かける。
神崎さんのところに行ってて。
レン』
「…………」
「これか?」
「……はい」
「レン」
「はい」
「今は何時代じゃ?」
「そこを突く?」
「妾ですら端末を持っておる」
「急いでたんだよ」
「紙に書くより連絡を送る方が早くないか?」
「……そうだね」
「しかもじゃ」
レモが紙を指で叩いた。
「ミフユ本人には何も伝えておらなんだな?」
「…………」
「どうなのじゃ?」
「伝えてません」
「妾がこれを持ってミフユのところへ行ったら、非常に驚いておったぞ」
「でしょうね」
「『天城さんから何か連絡あった?』と聞かれた」
「うん」
「なかった」
「はい」
「電話もなかった」
「はい」
「連絡もなかった」
「はい」
「妾は荷物か?」
「違います」
「ではなぜ配送指示のようになっておる?」
「ごめんなさい」
蓮は素直に謝った。
これは勝てない。
「そもそもじゃ」
まだ終わっていなかった。
「妾の身体年齢は?」
「十歳くらい」
「人類自治政府へ提出した書類では?」
「十歳相当」
「保護者は?」
「……俺」
「その保護者は三日間どこにおった?」
「迷宮とか……海とか……」
「楽しかったか?」
「…………」
「楽しかったのじゃな?」
「まあ……それなりには」
「遊びではないか」
「ガルクの仕入れを手伝う目的もあったんだよ」
「迷宮へ入ったのであろう?」
「入った」
「アルベルトも一緒だった」
「いたね」
「巨大な魔物とも戦った」
「誰から聞いた?」
「アルベルトじゃ」
「あいつ……」
「楽しかったのであろう?」
「……はい」
「遊びではないか」
逃げ道がない。
学校へ通い始めてから、レモは様々なことを覚えた。
読み書きや算術だけではない。
人間社会で暮らすための常識。
家族。
保護者。
子供。
約束。
責任。
そうした概念を驚異的な速度で吸収している。
問題は、それを論理的に組み合わせた時の攻撃力だった。
「ゆえに」
レモが言った。
「今日は妾の日じゃ」
「え?」
「妾に付き合うのじゃ」
「今日!?」
「今日じゃ」
「いや、レモ。見て」
蓮は端末を指差した。
「仕事がこれだけあるんだよ」
「三日」
「はい」
「妾は一日しか要求しておらぬ」
「…………」
「妾は寛大じゃな」
「自分で言う?」
「言う」
「せめて昼まで仕事してから――」
「それとな」
レモの声が少しだけ変わった。
「学校の者たちは、休みの日には家族と出かけることがあるそうじゃ」
蓮は口を閉じた。
「買い物へ行った。川へ遊びに行った。森で父親と虫を捕った。母親と菓子を食べに行った。色々聞いたぞ」
「……うん」
「妾たちは一度もない」
それは、その通りだった。
一緒に暮らしている。
食事もする。
学校であったことを聞く。
宿題を見ることもある。
だが、ただ遊ぶためだけに二人で一日出かけたことはなかった。
「妾は別に寂しくなどなかったぞ」
レモが言った。
「ただ……帰ってくると言った者が帰ってこぬのは、あまり好かん」
「…………」
「しかも紙一枚じゃ」
「最後の一言で全部台無しだよ」
「事実じゃ」
蓮は端末を閉じた。
「分かった」
「おお!」
「今日一日だけな」
「うむ!」
「夕方には帰る」
「約束じゃ」
「で、どこ行く?」
「決めておらぬ!」
「決めてないのかよ」
「ハムちゃんで飛びながら決めるのじゃ!」
◇
中央広場へ出ると、ハムちゃんはいつもの場所にいた。
巨大なドラゴンがレモの姿を見つけ、ゆっくりと頭を持ち上げる。
「ハムちゃん!」
「グルルル……」
レモが駆け寄る。
巨大な鼻先が下がった。
レモは両手で撫でた。
「今日は遠出するぞ!」
「グルル……」
「楽しみか!」
「グルルル……」
「そうかそうか!」
「本当に会話できてるように見えるんだよな……」
蓮は今でも不思議に思う。
ナノ制御を介して何らかの意思交換が行われている可能性は高いが、レモ本人はそんなことを意識していない。
単純にハムちゃんと話しているつもりなのだ。
「レン! 早く乗るのじゃ!」
「はいはい」
「返事は一度!」
「学校で何覚えてるんだよ」
二人を乗せたハムちゃんが翼を広げる。
中央広場に強い風が吹いた。
巨大な身体が浮き上がる。
レモは満面の笑みで前を指差した。
「行くのじゃ、ハムちゃん!」
「グオオオオオッ!」
ハムちゃんが加速した。
◇
森を越えた。
川を越えた。
山の稜線を横切った。
レモは終始楽しそうだった。
行き先など決めていない。
ただ空を飛んでいるだけなのに、それで十分らしい。
やがて眼下に町が見えてきた。
赤茶色の屋根が並び、その周囲には畑が広がっている。
「レン!」
「うん」
「あそこへ行く!」
「エルフの町だな」
「行ったことがあるか?」
「俺はない」
「ならば行くのじゃ!」
決定まで一秒だった。
ハムちゃんが町へ向かって高度を下げる。
「町の真ん中には降りるなよ」
「分かっておる!」
巨大な影が町を横切った。
当然、騒ぎになった。
「ドラゴンだ!」
「こっちへ来るぞ!」
「待て、誰か乗ってる!」
「……あれは!」
「創造神様だ!」
「魔王の娘もいるぞ!」
「創造神が魔王の娘とドラゴンに乗ってきた!」
「何だそれは!?」
町外れの広場へハムちゃんが降りた。
レモが真っ先に飛び降りる。
「ふはははは! 魔王の来訪じゃ!」
「だからそういうこと言うなって」
蓮も降りた。
エルフたちが次々に集まってくる。
「創造神様!」
「ようこそお越しくださいました!」
「いや、俺が普通の人間だって、もう知ってるよね?」
「もちろんです」
「じゃあ創造神って呼ぶのやめない?」
若いエルフが不思議そうな顔をした。
「なぜです?」
「なぜって……俺、天城蓮だから」
「存じております」
「人間なのも?」
「もちろん」
「じゃあレンでいいじゃん」
「それはそれです」
「どういうこと?」
年配のエルフが笑った。
「我々にとっては、もう昔からの呼び名なのですよ。人間だと分かったからといって、急に変えるのも落ち着きません」
「そういうものなの?」
「そういうものです」
横でレモが偉そうに頷いている。
「諦めよ、創造神」
「お前まで呼ぶな」
「妾は魔王の娘だそうじゃぞ」
「それも違う」
「皆がそう呼んでおる」
「広まっちゃっただけだよ!」
エルフたちが笑った。
◇
しばらく町を見て回った。
レモは店を覗き、菓子を買い、エルフの子供たちに囲まれた。
本人は魔王らしく振る舞っているつもりらしい。
「苦しゅうない」
そう言いながら、もらった焼き菓子を食べている時点で威厳はあまりなかった。
そんな時だった。
「創造神様」
「だからレンで――もういいや。何?」
一人のエルフが声をかけてきた。
「お願いがあるのですが」
町の北側には、昔から住民が利用している森があるという。
北の杜と呼ばれ、薪や薬草、木の実などを採る場所だった。
ところが最近、巨大な魔物が住み着いた。
家畜が消え、森へ入った者も襲われた。
幸い死者は出ていないが、何人か怪我をしている。
「大蜘蛛です」
「蜘蛛?」
「かなり大きな個体です。森の奥に巣を作ってしまって」
「狩人は?」
「何度か入ったのですが、糸がひどくて近づけません」
蓮は森の方角を見る。
「俺たち、今日は遊びに来ただけなんだけどな」
「困っておるのであろう?」
レモが言った。
「まあね」
「ならば助けるのじゃ」
「レモ?」
「妾が引き受けた!」
「勝手に受けるなよ」
「モンスターハントじゃ!」
「その言葉どこで覚えた?」
「アルベルトじゃ!」
「だと思ったよ」
レモは目を輝かせていた。
蓮はため息をつく。
今日はレモの日。
「分かったよ」
「おお!」
「ただし無茶はしない」
「分かっておる!」
「ハムちゃんも森の中には入れない。大きすぎる」
レモがハムちゃんを見る。
森を見る。
「確かに」
「上で待っててもらおう」
◇
北の杜へ入って間もなく、問題の意味が分かった。
「これは厄介だな」
糸だった。
木と木の間。
枝と枝の間。
森の至るところへ張られている。
細いものは光の角度によってほとんど見えない。
蓮が一本を確認する。
かなり強い。
人間が勢いよく走り込めば、絡まるだけでは済まないかもしれない。
「ナノで処理しながら進むか」
「待つのじゃ」
「何?」
レモが肩から斜めに掛けていた小さな外出用鞄を開いた。
中から一本の棒を取り出す。
三十センチほど。
「……何それ」
「ふふん」
レモは得意そうに笑った。
両手で棒を持つ。
捻った。
カチッ。
機械的な音がした。
直後。
棒が伸びた。
内部に収納されていた柄が連続して展開し、一メートルを超える長さになる。
さらに先端が回転した。
カチン。
湾曲した刃が飛び出す。
「…………」
蓮は黙った。
長い柄。
大きく弧を描く刃。
構造だけ見れば、地球で大昔から使われていた草刈り用の大鎌に近い。
だが。
黒い柄。
鈍く光る刃。
それを十歳ほどの少女が両手で構えている。
「死神じゃん」
「何じゃ?」
「どう見ても死神の鎌だよ、それ」
「格好よいであろう!」
「誰に作ってもらった?」
「父上じゃ!」
蓮は黙った。
「……REGULATOR?」
「そうじゃ!」
レモが胸を張る。
「妾が冒険に行く時に使う武器が欲しいと言ったら、父上が作ってくれたのじゃ!」
「何作ってんだ、あいつ……」
「妾に相応しい物を頼んだ」
「注文したのかよ」
「父上も快く作ってくれたぞ」
「そこで断れよ……」
レモが大鎌を構える。
「見ておれ!」
「待て。ちゃんと使える?」
「馬鹿にするでない!」
横薙ぎ。
刃が蜘蛛の糸を通過した。
抵抗らしい抵抗もない。
数本の糸が同時に切れた。
「…………」
蓮が刃を見る。
「切れ味よすぎない?」
「父上が妾専用に調整したと言っておった」
「REGULATOR、あとで話があるからな……」
レモは大鎌を肩へ担いだ。
「どうじゃ!」
「似合ってるのが一番困る」
「ふはははは!」
小さな少女が大鎌を担ぎ、森の奥へ歩いていく。
どう見ても魔物を退治しに行く側ではない。
魔物を率いて現れる側だった。
◇
森の奥へ進むにつれて糸は増えた。
レモが大鎌で切り開く。
蓮は周囲を警戒する。
途中には動物の骨があった。
家畜らしいものも混じっている。
「ここを狩場にしてるみたいだな」
「レン」
「うん」
「上じゃ」
音がした。
木々の間。
巨大な影が動く。
八本の脚。
黒褐色の外殻。
赤い斑紋。
胴体だけで小型車ほどあり、脚を広げれば十メートルを超える。
「でかいな」
「格好よいのじゃ!」
「そういう感想?」
大蜘蛛が動いた。
速い。
巨体から想像できない速度で枝を渡る。
糸が飛んだ。
「レモ!」
レモが大鎌を振る。
刃が糸を断ち切った。
「おお!」
「喜んでる場合じゃない!」
大蜘蛛が木から飛び降りた。
蓮が重力を操作する。
落下軌道が変わる。
巨体が地面へ叩きつけられた。
土が弾ける。
それでも大蜘蛛は立ち上がった。
「硬いな」
「妾に任せよ!」
「全部は任せない!」
大蜘蛛の脚が横から振られた。
レモが身体を沈める。
頭上を巨大な脚が通過した。
大鎌を振り上げる。
刃が脚の関節へ食い込んだ。
一閃。
一本の脚が落ちた。
「おおお!」
「自分で驚くなよ!」
「父上の鎌、すごいのじゃ!」
「それは俺も認める!」
大蜘蛛が甲高い音を上げた。
動きが変わる。
今度は明確にレモを狙った。
「来るぞ!」
「望むところじゃ!」
「そこは下がれ!」
蓮が重力場を展開する。
大蜘蛛の身体が地面へ押しつけられた。
八本――今は七本の脚が土を抉る。
それでも動く。
「レモ!」
「分かっておる!」
大鎌が振られる。
二本目。
さらに三本目。
脚を失った大蜘蛛の身体が傾いた。
蓮が重力を一気に強める。
巨体が地面へ沈む。
「今!」
「おおおおおっ!」
レモが走った。
大鎌を両手で握る。
振り下ろした。
刃が大蜘蛛の頭部と胴体の境目へ深く食い込んだ。
巨体が大きく痙攣する。
そして。
動かなくなった。
「…………」
森に静けさが戻る。
蓮が生命反応を確認した。
「終わった」
レモが大鎌を引き抜いた。
「ふははははは!」
大鎌を掲げる。
「見たか! これぞ魔王の力なのじゃ!」
「半分くらい父上の鎌の力だと思う」
「妾が使ったのじゃから妾の力じゃ!」
「そういう計算?」
「そうじゃ!」
レモは満足そうだった。
大鎌の柄を捻る。
刃が収納され、長い柄も縮んでいく。
カチッ。
再び三十センチほどの棒になった。
それを外出用鞄へ戻す。
「普通にその鞄へ入るのが一番おかしいな……」
「便利であろう?」
「便利だけどさ」
◇
町へ戻る。
待っていたエルフたちが一斉に集まってきた。
「どうでした!?」
「大丈夫。倒したよ」
歓声が上がった。
「これで北の杜へ入れる!」
「ありがとうございます、創造神様!」
「魔王様も!」
「妾は魔王の娘じゃ!」
「そこ訂正するんだ」
レモは大満足だった。
褒められる。
感謝される。
子供たちからも歓声を浴びる。
その時、一人のエルフが尋ねた。
「大蜘蛛は?」
「え?」
「どこで倒しました?」
「森の奥。大きな岩がある辺り」
「死骸は?」
「そのままだけど」
「脚は残っていますか?」
「脚?」
「何本残ってます?」
「俺たちが切ったのは三本くらいだから、残りは――」
「行くぞ!」
「え?」
突然、数人のエルフが走り出した。
「籠持ってこい!」
「大鍋もだ!」
「俺の分も残せよ!」
「早い者勝ちだぞ!」
「若いの呼べ! 運ぶの手伝わせろ!」
次々と北の杜へ走っていく。
「…………」
蓮とレモは並んで見送った。
「レン」
「うん」
「何が起きておる?」
「分からない」
残っていた年配のエルフが不思議そうな顔をした。
「大蜘蛛を置いてきたのでしょう?」
「置いてきたけど」
「なら取りに行きますよ」
「何を?」
「食べられるところを」
蓮は数秒黙った。
「……食べるの?」
エルフの方が驚いた。
「食べないのですか?」
「食べられるの?」
「脚は美味いですよ」
「蜘蛛だよ?」
「大蜘蛛です」
「大きさの問題じゃなくて」
「茹でるんです。殻を割ると白い身が入っています」
「…………」
「特に脚の付け根は美味いですよ」
レモの目が輝いた。
「レン!」
「行かない」
「まだ何も言っておらぬ!」
「顔で分かる」
「食べたいのじゃ!」
「俺はいいよ」
年配のエルフが尋ねる。
「どれくらいの大きさでした?」
「脚を広げれば十メートル以上かな」
「十メートル?」
「うん」
年配のエルフの顔色が変わった。
「おい! 俺の籠も持ってこい!」
「あなたも行くの!?」
走っていった。
「レン!」
「行かないって!」
「妾たちの分がなくなるぞ!」
「いらないよ!」
「妾はいる!」
「さっきまで戦ってた蜘蛛だぞ!」
「倒した魔物を美味しくいただいて何が悪い!」
「急に食育みたいなこと言うなよ!」
◇
結局、大蜘蛛の脚は町へ運び込まれた。
一本だけでも数人がかりだった。
町のエルフたちは慣れている。
関節ごとに切り分け、大鍋で湯を沸かす。
巨大な脚が放り込まれた。
蓮は少し離れたところから見ていた。
「本当に食うんだ……」
「よい匂いがするぞ!」
「そう?」
しばらくすると、蓮にも分かった。
「……あれ?」
嫌な匂いではない。
むしろ、どこか覚えがある。
茹で上がった脚が引き上げられる。
硬い外殻を割る。
中から白い身が現れた。
「…………」
蓮は黙った。
繊維質の白い身。
湯気。
香り。
「なんか……カニみたいだな」
「カニ?」
「地球にいた生き物」
切り分けられた身をレモが受け取る。
「いただくのじゃ!」
一口。
噛む。
レモの動きが止まった。
「どう?」
「…………」
「レモ?」
レモが蓮を見る。
「レン」
「何?」
「美味い」
「本当に?」
「非常に美味いぞ!」
「嘘だ」
「食べてみよ!」
「俺はいい」
「食わず嫌いはよくないと学校で習った!」
「学校、万能だな!」
「ほれ!」
白い身を差し出される。
蓮は大蜘蛛を思い出した。
八本の脚。
巨大な牙。
赤い斑紋。
今、目の前にある白い身を見る。
「…………」
食べた。
噛む。
「…………」
「どうじゃ?」
「……うまい」
「そうであろう!」
「なんだこれ」
淡白だが、旨味がある。
噛むほどに甘みが出る。
カニに似ているが、少し肉に近い弾力もある。
「蜘蛛なんだよな……」
「大蜘蛛じゃ」
「分かってるから言うな」
もう一口食べた。
「また食べたぞ」
「味はうまいんだよ」
「気に入ったのじゃな」
「見た目を思い出さなければね」
いつの間にか町のあちこちで大蜘蛛の脚が茹でられていた。
北の杜を荒らしていた厄介な魔物は、夕方を待たずして宴会の主役になっていた。
レモは大いに食べた。
大いに褒められた。
そして帰り際には、茹でた脚肉を包んでもらった。
「ハムちゃんへの土産じゃ!」
「ドラゴンって蜘蛛食うのかな」
「食う!」
「何で断言できるの?」
「ハムちゃんじゃからな!」
「理由になってないよ」
◇
夕方。
ハムちゃんは人類居住区へ向かって飛んでいた。
レモは上機嫌だった。
「今日はよい日であったな!」
「そうだね」
「空を飛んだ!」
「うん」
「エルフの町へ行った!」
「うん」
「魔物を倒した!」
「うん」
「皆に感謝された!」
「よかったな」
「大蜘蛛も美味かった!」
「結局それが一番じゃない?」
「全部大事じゃ!」
レモはしばらく眼下を眺めていた。
やがて小さく言った。
「学校で話すことが一つ増えたのじゃ」
蓮はレモを見る。
「大蜘蛛を食べた話?」
「それも話す」
「先生、困るだろうな」
「なぜじゃ?」
「いや、いいよ」
人類居住区が見えてきた。
「楽しかった?」
蓮が聞いた。
「当然じゃ!」
「ならよかった」
「レン」
「何?」
「妾は別に寂しくなどなかったぞ」
「うん」
「ただ、次に出かける時は紙一枚では許さぬ」
「……はい」
「ちゃんと妾に言うのじゃ」
「分かった」
「約束じゃぞ」
「約束する」
「うむ!」
レモがハムちゃんの首を撫でた。
「帰るぞ、ハムちゃん!」
「グルルル……」
「中央広場じゃ!」
巨大な翼が傾く。
ハムちゃんが高度を下げた。
◇
中央広場。
ハムちゃんの巨大な脚が地面へついた。
「帰ったのじゃ!」
レモが飛び降りる。
蓮もその後に続いた。
そして。
止まった。
「…………」
広場に二人立っていた。
神崎美冬。
柳原。
昨日も見た。
似たような光景を。
「おかえり、レモちゃん」
「ミフユ!」
「楽しかった?」
「非常に!」
「そう。よかった」
美冬が笑う。
次に蓮を見る。
「天城さん」
「……ただいま」
「今日、仕事するって言ってませんでした?」
「言いました」
「朝、端末にログインした記録はありました」
「しました」
「その後、ずっと反応がないんですけど」
「事情がありまして」
「へえ」
「今日は妾の日だったのじゃ!」
レモが胸を張った。
「レモちゃん?」
「何じゃ?」
「どういうこと?」
「レンは妾を三日も放って遊びに行った」
「レモ」
「紙一枚残してな!」
「そこまで言わなくていい」
美冬の笑顔が少し深くなった。
「紙一枚」
「……はい」
「私にも何も言わずに」
「はい」
「レモちゃんに『神崎さんのところへ行ってて』とだけ書いて」
「……はい」
「天城さん」
「本当にすみませんでした」
「妾が昨日渡した紙、まだ持っておるか?」
「持ってるよ」
「証拠もあるぞ!」
「レモ、どっちの味方なの?」
「正義の味方じゃ!」
「強いなあ……」
柳原が口を開いた。
「それで、今日は何をしていたのかね?」
「エルフの町へ行きまして」
「遊びに?」
「最初は」
「最初は?」
「大蜘蛛を倒したのじゃ!」
「レモ」
「北の杜に住み着いた魔物じゃ!」
「レモ、もういいから」
「妾が父上に作ってもらった鎌で脚を三本斬った!」
蓮は目を閉じた。
「鎌?」
柳原が聞いた。
レモは嬉しそうに鞄へ手を入れた。
「見るか?」
「いや、ここでは出さなくていい!」
「格好よいぞ!」
「分かったから!」
美冬が蓮を見る。
「十歳の子に鎌を持たせたんですか?」
「俺じゃない!」
「父上じゃ!」
「REGULATORです!」
「それはそれで後で確認が必要ですね」
「ですよね!」
珍しく意見が一致した。
「それから大蜘蛛を食べた!」
「レモ!」
「美味かったぞ!」
美冬が一瞬黙った。
「……食べたんですか?」
「茹でるとカニみたいで意外とうまいんだよ」
「天城さんも食べたんですか?」
「…………」
蓮は気づいた。
自分から余計な情報を足した。
「はい」
「楽しそうですね」
「……はい」
柳原が静かに言った。
「天城君」
「はい」
「昨日の話を覚えているね?」
「覚えてます」
「今日はレモちゃんに付き合った。それ自体を責めるつもりはない」
「ありがとうございます」
「むしろ、付き合ってあげるべきだったと思う」
レモが大きく頷いた。
「その通りじゃ!」
「ただし」
柳原が続けた。
「昨日、君は今日中に確認すると言った仕事があったはずだ」
「…………あります」
「まだ夕方だ」
「…………」
「終わるね?」
蓮は空を見た。
「終わらせます」
「よろしい」
レモがハムちゃんの鼻先を撫でる。
「では妾はハムちゃんに土産を食わせてくる!」
「レモ」
「何じゃ?」
「俺も――」
「レン」
「はい」
「仕事があるのであろう?」
「…………はい」
「妾との約束は果たした」
レモは胸を張った。
「次は仕事じゃ」
「お前、本当に強くなったな……」
「学校で学んでおるからな!」
レモが包みを抱え、ハムちゃんと一緒に広場の奥へ向かっていく。
「ハムちゃん! 今日は美味い物があるぞ!」
「グルルル……」
「大蜘蛛じゃ!」
巨大なドラゴンが嬉しそうに喉を鳴らした。
蓮はその背中を見送った。
美冬が隣に立つ。
「楽しそうでしたね、レモちゃん」
「うん」
「よかったじゃないですか」
「まあね」
「三日分ですから」
「一日で勘弁してもらいました」
「レモちゃん、寛大ですね」
「本人も同じこと言ってたよ」
美冬が笑った。
柳原はすでに歩き始めている。
「天城君」
「はい」
「行こうか」
「どこへ?」
柳原が振り返った。
「仕事だ」
「……はい」
蓮は肩を落として、その後を追った。
背後からレモの声が聞こえる。
「ハムちゃん! 美味いか!」
「グオオオオッ!」
「そうであろう! 妾が倒したのじゃぞ!」
「正確には三本脚切っただけだろ!」
思わず振り返って叫ぶ。
「細かいことを言うでない!」
即座に返ってきた。
蓮は少し笑った。
今日は仕事をほとんど片づけられなかった。
大蜘蛛まで退治した。
夕方からは、おそらく昨日以上に忙しくなる。
それでも。
紙切れ一枚を残して三日もいなくなるよりは、ずっとまともな一日の使い方だったのかもしれない。
少なくともレモには、次に学校へ行った時、話したいことが山ほどあるだろう。
蓮は前を向いた。
「天城さん」
「何?」
「次に三日間いなくなる時は」
美冬が言った。
「せめてメッセージを送ってください」
「……そこから?」
「そこからです。その前に、せめて仕事を全部終わらせてから……私もついていきます」
「え?」
「あなた一人だけフラフラ出かけるのは心配ですから」
「……はい」
美冬はそれ以上何も言わず、柳原の後を追って歩き出した。
蓮は一瞬だけその場に残った。
「…………」
そして、少し遅れてその背中を追う。
四千年以上前に地球を出た人類が、惑星を改造し、ナノマシンを操り、重力を制御し、百万もの人々を乗せた星間移民船を迎えようとしている。
そんな時代に。
天城蓮が次に遊びへ出かけるための条件は、仕事を全部終わらせることと、美冬を連れていくことになった。
――第九十話 今日は妾の日じゃ 了
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