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第89話 三人と独りのグルメ

長めです

 今度こそ、ちゃんと仕入れをする。

 井ノ原一郎は人類自治政府の車両貸与所へ向かいながら、そう心に決めていた。

 前回はひどかった。

 周辺のエルフ集落を回り、木工品や保存食を仕入れるつもりで、小型の山岳走行用車両まで借りた。それなのに、最初の集落へ着くより前に道端で用を足そうとして地面を踏み抜き、そのまま地下へ落ちた。

 結果として辿り着いた地下都市ベルグでは、巨大な虫の脚を食べ、目の退化した魚とキノコの煮込みを食べ、穿ち虫を食べ、蜜腹虫まで食べた。

 食事に関しては、実に充実していた。

 だが、商人としては何も仕入れていない。

 帰ってきた時の荷室は空だった。

 今回はそうはいかない。

 そう考えながら貸与所へ入った井ノ原は、受付の前で見覚えのある帽子を見つけた。

 黒ずんだ暗赤色。

 先端の尖った古い形のレッドキャップ。

「だから、壊したら弁償すると言ってるだろ」

「ガルクさん、そういう問題ではないんです」

 職員が困っていた。

 丸眼鏡の奥で目を細めているのは、やはりガルクだった。

「俺は運転できる。荷車より簡単だ」

「ガルクさんが操作できるかどうかを疑っているわけではありません。今の車両貸与制度は、人類自治政府に登録されている利用者を前提に作られているんです。ゴブリンの方の運転資格も、まだ制度上は決まっていません」

 職員は手元の端末を示した。

「事故を起こした場合の責任、車両を壊した場合の補償、第三者に損害を与えた場合の補償、それからベルグ側との取り決めもまだありません。ガルクさんが『払える』と言っても、それだけで貸し出せる仕組みになっていないんです」

「面倒だな、人間は」

「私もそう思います。でも勝手に貸したら、今度は私が怒られます」

 井ノ原は少し離れたところで聞いていたが、どちらかが間違っているようには思えなかった。

 制度が追いついていないだけなのだろう。

 ガルクが大きく息を吐いたところで、井ノ原は声をかけた。

「何してるんです?」

 ガルクが振り向いた。

「イノハラか。見れば分かるだろ。車を借りようとして、断られてる」

「遠出です?」

「そうだ。歩けば三週間近くかかる。車なら三日で済む」

「三週間?」

 それは遠い。

 井ノ原が目的地を聞くと、ガルクは南西の地域名を口にした。

 井ノ原も地図では知っている。

 かなり離れた場所で、さらにその先には海エルフの集落が点在している。

「そこまで何を仕入れに?」

「ベヒーモスの角だ。薬にもなるし、ベルグの鍛冶屋が欲しがってる」

「鍛冶屋が角を?」

「細かく砕いて鉄を精錬する時に混ぜる。そうすると、あいつらがアダマンタイトと呼んでる合金ができる。普通の鉄より高いし、扱える鍛冶屋も限られる」

 井ノ原は少し興味を持った。

 薬にもなり、金属加工にも使う。

 しかも高価。

 商材として悪くない。

 だが、それ以上に気になった言葉があった。

「ベルグの鍛冶屋に頼まれたんですよね?」

「ああ」

「じゃあ、帰りはベルグに寄るんです?」

「寄る。持って帰らないと意味がないだろ」

 井ノ原の頭に、巨大な竪穴都市が浮かんだ。

 壁に沿って延々と続く螺旋道路。

 無数の横穴。

 食堂。

 巨大な虫の脚。

 目の退化した魚。

 穿ち虫。

 蜜腹虫。

 まだ入っていない店。

 まだ食べていない料理。

「俺、乗せていきましょうか」

 ガルクが眼鏡の奥から井ノ原を見た。

「いいのか?」

「俺も車を借りるところだったんです。三日くらいなら予定を変えられますし、帰りにベルグへ寄るなら都合がいいです」

「何の都合だ」

「仕入れです」

 嘘ではない。

 食堂へ行きたいという気持ちは、それとは別である。

 たぶん。

 受付の職員が二人の会話を聞いていた。

「井ノ原さんが正式な貸与利用者で、運転も井ノ原さんがするのであれば、ガルクさんは同乗者として乗れます。その形なら問題ありません」

「じゃあ、それで」

「ただし、途中で運転を交代しないでください。ガルクさんが操作できるかどうかとは別問題です」

「分かりました」

 話は決まった。

 その時だった。

「今、どこって言った?」

 背後から声がした。

 振り返ると、アルベルトがいた。

 その隣には天城蓮もいる。

 アルベルトはガルクが口にした地域名を確認すると、明らかに表情を変えた。

「そこへ行くのか? だったら、あの迷宮の近くだろ」

「知ってるのか」

「知ってるも何も、有名だ。前から一度行ってみたかったんだが、遠すぎてな。片道何日もかけて迷宮だけ見に行く気にはならなかった」

 アルベルトは蓮を見る。

「レン、行こう」

「行こう」

 返事が早かった。

 あまりにも早かったので、井ノ原は二人を交互に見た。

「三日くらいかかりますよ?」

「大丈夫」

「天城さん、仕事とか大丈夫なんですか?」

「大丈夫」

 また早い。

 井ノ原は少し気になったが、本人がそう言うのなら大丈夫なのだろう。

 たぶん。

      ◇

 翌朝、井ノ原は貸与所の駐車場で荷物を積み込んでいた。

 借りたのは前回と同じ車両だった。

 全長四メートルにも満たない、小型の山岳走行用四輪車。

 四輪独立駆動に車体姿勢制御、高密度蓄電池、路面状態の自動解析。中身は完全に人類の技術で作られた車だが、角張った車体、短いホイールベース、高い最低地上高、丸い前照灯とほぼ垂直の前面ガラスは、地球で長く受け継がれた小型四輪駆動車の系譜を思わせた。

 井ノ原はこの車が好きだった。

 今回は屋根の荷台も使う。

 水。

 非常用品。

 食料。

 野営道具。

 折り畳み式の調理台。

 鉄板。

 厚手の小鍋。

 深鍋。

 もう一つ鍋。

 包丁。

 まな板。

 香辛料。

 調味料。

 コーヒー豆。

 手挽きのミル。

 ガルクが荷物を見た。

「三日の旅に鍋が三ついるのか?」

「使いますよ。煮るものと焼くものと、汁物を同時に作ることもありますし」

「同時に作る必要があるのか」

「腹が減ってから一品ずつ作ったら遅いでしょう」

 ガルクはしばらく井ノ原を見た。

「お前、商売より飯の方が真面目なんじゃないか」

「商売も真面目ですよ」

「前回、何も仕入れず帰っただろ」

「あれは事故です」

 アルベルトが荷物を覗き込んだ。

「厨房でも開く気か?」

「食事は大事でしょう」

「大事ではあるが、旅の途中でここまでやる奴は初めて見た」

 最後に蓮がやって来た。

 予定より少し早い。

 四人が乗り込もうとしたところで、少し離れた場所から女性の声が聞こえた。

「もう、どこ行ったのよ……」

 井ノ原は何となくそちらを見た。

 神崎美冬だった。

 端末を確認しながら周囲を見回している。

「朝からいないし……連絡も返さないし……今日確認するって言ったの、自分じゃない……」

 井ノ原は後部座席を見た。

 蓮がいない。

 いや、いた。

 座席へ深く沈み込み、窓から見えない位置まで身体を低くしている。

「どうしました?」

「何が?」

「いや、天城さん――」

「天城さん?」

 遠くから美冬の声がした。

 蓮が小声で言った。

「出よう」

「まだ予定より少し早いですよ」

「出発」

「でも全員乗ったばかりで――」

「全員乗ってるなら問題ない。出発」

 井ノ原は車を発進させた。

 駐車場を出る。

 角を曲がる。

 建物が見えなくなってから、蓮が身体を起こした。

「もう見えない?」

「見えませんけど」

「よし」

 井ノ原は前を向いた。

 どうやら天城蓮は今日、あそこにいてはいけない人だったらしい。

      ◇

 都市を離れると、舗装路は次第に細くなった。

 やがて道路そのものがなくなる。

 だが、この車にとっては大した問題ではない。

 前面ガラスへ地形情報が重なり、走行可能な幅が淡い線で示される。四輪それぞれの駆動力が自動調整され、岩場へ入ると車体姿勢まで補正された。

 午前中いっぱい走った。

 山を越えた。

 谷を抜けた。

 川沿いへ出た頃、井ノ原は時刻を確認した。

 昼を過ぎている。

 意識した途端、腹の中の空白が急にはっきりした。

「腹が……減った……」

 ガルクが助手席から横を見る。

「止めるのか?」

「止めます」

 井ノ原は即答した。

 ちょうど川原に開けた場所があった。

 車を止める。

 井ノ原は後部から荷物を下ろした。

 調理台を開く。

 鍋を出す。

 鉄板を置く。

 アルベルトが腕を組んで見ていた。

「本当に厨房を持ってきたんだな」

「昼飯です」

「昼飯の規模ではないだろ」

「せっかく食べるなら、ちゃんと食べたいじゃないですか」

 米を炊く。

 肉を厚めに切る。

 タマネギとキノコを刻み、鉄板で肉を焼く。

 肉汁へ酒と発酵調味料を少し落とし、バターと香草でまとめる。

 炊きたての米へ肉を乗せ、炒めた野菜を添えた。

 仕上げに半熟の卵。

 それほど時間をかけたわけではない。

 だが、野営食と呼ぶには少し手が込みすぎていた。

「できました」

 アルベルトが器を受け取った。

「旅の途中であろうと、己の欲するものに手を抜かぬ。その姿勢、嫌いではない。食とは時に、生きるという行為そのものを――」

 ファサーッ。

 外套が大きくはためいた。

 井ノ原は川を見る。

 風が吹いたのだろう。

 たぶん。

「冷めますよ」

「……食うか」

 四人で食べた。

 ガルクは最初こそ何も言わなかったが、肉を食べ、米を食べ、最後には器に残ったソースまで絡めていた。

 食後、井ノ原は豆を挽いた。

 アルベルトがまたこちらを見る。

「まだやるのか」

「コーヒーですよ」

「知ってる。なぜ豆から挽く」

「その方がうまいからです」

 それ以上の理由が必要だろうか。

      ◇

 午後から道はさらに険しくなった。

 その日は山中で一泊した。

 翌日も走り、三日目の朝には、人間側の地図にもほとんど情報がない山岳地帯へ入っていた。

 やがて巨大な岩壁が見えてきた。

 その根元に、黒い穴が開いている。

 井ノ原は車を止めた。

 周囲を見る。

 店がない。

 家もない。

 倉庫もない。

 人もいない。

「……ガルクさん」

「何だ」

「仕入れ先って、どこです?」

 ガルクが洞窟を指した。

「あそこだ」

「店は?」

「ない」

 嫌な予感がした。

「じゃあ、誰から買うんです?」

「誰からも買わん」

 隣ではアルベルトが嬉しそうに洞窟を見上げている。

「間違いない。ここだ。前から一度来てみたかった」

「何がです?」

「迷宮だ」

 井ノ原はガルクを見る。

「ベヒーモスの角は?」

「中だ」

「誰が持ってるんです?」

「ベヒーモス」

 しばらく沈黙した。

「聞いてないんですけど」

「聞かれなかった」

「仕入れって言いましたよね? 普通、仕入れって聞いたら誰かから買うと思うでしょう」

「欲しい品物を取りに来た。仕入れだ。誰から買うんだ、ベヒーモスからか?」

 井ノ原は言葉に詰まった。

 確かにガルクは一度も嘘を言っていない。

 ただ、重要な部分をかなり省略していた。

「ちなみに危険です?」

 アルベルトが笑った。

「心配するな。俺がいる」

 彼は洞窟へ向き直った。

「闇の奥に何が待とうと、俺の剣が道を――」

 ファサーッ。

 外套がはためいた。

 洞窟の奥から風が吹いている。

 今度は理由が分かった。

「行くぞ」

 アルベルトは満足そうだった。

      ◇

 迷宮内部は、井ノ原が想像していたより広かった。

 天然の洞窟らしい。

 ところどころに巨大な亀裂があり、水が流れ、地下植物の淡い光が岩肌を照らしている。

 しばらく進んだところで、低い唸り声が響いた。

 井ノ原は足を止めた。

 暗闇から現れたものを見て、最初は牛かと思った。

 ただし大きい。

 肩まで一メートル半を超え、黒褐色の針金のような毛に覆われている。首から肩にかけて異様に筋肉が盛り上がり、頭部には太い湾曲した角が二本。

 一頭。

 その後ろから二頭。

「グロムホーンだ」

 アルベルトが剣へ手をかけた。

「食えます?」

 井ノ原が聞くと、アルベルトは振り返った。

「最初に聞くことがそれか?」

「牛に似てるので」

「食える。だが、まずは――」

 グロムホーンが前脚で地面を掻いた。

「生き残ってから考えろ」

 その横で、ガルクが眼鏡を外した。

 井ノ原はそちらを見る。

 初めて見る動作だった。

 ガルクは丸眼鏡を畳み、服の内側へ丁寧にしまう。

 次に、黒ずんだ暗赤色の尖った帽子へ手をやった。

 深くかぶり直す。

 目元が影に隠れる。

 それだけだった。

 それだけなのに、井ノ原には別人に見えた。

 アルベルトもガルクを見ている。

「お前、戦えるのか?」

 ガルクは答えなかった。

 右手を腰へ伸ばす。

 そこに鞘がある。

 井ノ原も見ていたはずなのに、それが武器だと意識したことはなかった。

 ガルクが刃を抜いた。

 黒い。

 最初は黒曜石だと思った。

 磨かれた黒いガラスのような光沢。

 だが形が奇妙だった。

 獣の牙を無理に刃物へしたように緩く湾曲し、切っ先へ向かう輪郭は不気味なほど鋭い。道具というより、古い祭具のようにも見えた。

「それ――」

「来るぞ」

 グロムホーンが地面を蹴った。

 速い。

 巨体が一気に迫る。

 ガルクが動いた。

 消えた。

「え?」

 井ノ原にはそう見えた。

 次に見えた時には、ガルクはグロムホーンの横にいた。

 黒い刃が一度だけ走る。

 グロムホーンはそのまま数歩進んだ。

 前脚が崩れた。

 巨体が滑る。

 残る二頭が左右へ分かれる。

 アルベルトが抜刀した。

 高周波振動刃が唸る。

 一頭の角をかわし、すれ違う。

 倒れる。

 もう一頭。

 ガルクが踏み込む。

 井ノ原には追えない。

 黒い影。

 血が走る。

 終わった。

 静かになった。

 井ノ原はしばらく何も言えなかった。

 アルベルトがガルクを見る。

「……速いな。正直、驚いた。お前がそこまで動けるとは思ってなかった」

「お前には言われたくない」

「いや、俺より速いだろ。少なくとも足だけなら、完全に負けてる」

「足だけならな」

 井ノ原はアルベルトを見た。

「今の見えたんですか?」

「一応な。全部とは言わんが」

「俺、途中からガルクさんがいなくなったように見えたんですけど」

「それは分かる」

 ガルクはすでに倒れたグロムホーンの前へしゃがんでいた。

 黒いナイフを使い、首元へ刃を入れる。

「何してるんです?」

「血抜きだ。食いたいんだろ」

 井ノ原の意識が切り替わった。

      ◇

 ガルクは手慣れていた。

 血を抜き、食用に向く部位を選び、持ち運べる量だけ切り分ける。

 そのまま角まで外し始めた。

「角も取るんですか。それも使えるんです?」

「売れる。硬いわりに加工しやすい。工具やナイフの柄、装飾品なんかに使う。珍品ってほどじゃないが、状態がよければそれなりの値になる」

 井ノ原は切り離された角を受け取った。

 五十センチほどある。

 見た目より重い。

「三頭なら六本ありますよね。全部持っていったら――」

「やめとけ。こっちは先が割れてるし、これは根元に傷がある。運ぶ手間まで考えろ。何でも拾って帰れば商売になるわけじゃない」

 結局、状態のいい四本を選んだ。

「俺がもらっていいんです?」

「俺はいらん。アルベルトは迷宮に来たかっただけだろ。レンは何しに来たのか知らん。お前は仕入れに来たんだから、お前が持っていけばいい」

「聞こえてるよ」

 少し離れたところから蓮が言った。

「すみません。でも俺も、天城さんが何しに来たのかよく分からないんで」

「ちょっと遠出したかっただけ」

 井ノ原は、それ以上聞かない方がいいような気がした。

 四本の角を荷物へ固定する。

 今回は違う。

 ちゃんと商品を手に入れた。

 まだ目的地に着いてすらいないのに、売り物がある。

 それだけで少し嬉しい。

      ◇

 少し進んだところで、井ノ原は後ろから湿った音がするのに気づいた。

 振り返る。

 灰色がかった半透明のものが、通路の亀裂から這い出していた。

 スライムだった。

 一つではない。

 いくつもの粘菌体が集まり、残されたグロムホーンの死骸を覆っていく。

「掃除してくれるんですね」

 井ノ原は感心した。

「じゃあ、ここも倒れたら入口まで運んでもらえるんですか?」

 アルベルトが振り返った。

「何の話だ?」

「人間由来のダンジョンですよ。中で動けなくなった冒険者をスライムが回収して、入口に出してくれるって聞きました」

「ああ、あれか。だが、ここでは期待するな」

 アルベルトは死骸へ視線を向けた。

「あれは古い施設なんかで起きる話だ。中に残った何かが、倒れた奴を処理対象と見なさず、外へ運ばせてる。ここのスライムはただの掃除屋だ」

「じゃあ、俺がここで倒れたら?」

「普通に食われる」

 井ノ原は死骸を見る。

 粘菌の中へ、ゆっくり沈んでいく。

「入口には?」

「運ばれない」

「外にポイッと」

「されない」

 井ノ原は少し黙った。

「それ、入る前に言ってほしかったんですけど」

「恐れることはない」

 アルベルトが静かに言った。

「己の足で立ち続ける限り、迷宮はお前を――」

 ファサーッ。

 外套がはためいた。

「……さっきからそれ、何なんです?」

「何がだ?」

「外套です」

 アルベルトは答えなかった。

      ◇

 少し奥へ進んだところで、休憩を取った。

 井ノ原は先ほど切り分けてもらったグロムホーンの肉を薄く切り、塩と香草を振って鉄板で焼いた。

 それほど凝ったことはしていない。

 脂が少ない肉だったが、薄く切れば硬さも気にならず、味は濃い。持参した発酵調味料を少し加えると、野性味の強さもほどよく落ち着いた。

「うまいな」

 アルベルトが素直に言った。

「もっと硬いと思ってましたけど、これなら十分食えますね」

 井ノ原は自分の分をもう一枚焼いた。

 倒したばかりの獣をその場で血抜きし、短い休憩の間に温かい食事へ変える。

 旅の途中なら、これくらいでいい。

 ガルクも黙って二枚目を取った。

「ガルクさん、それ二枚目です」

「だから何だ」

「いや、気に入ったのかなと」

「食える物を食ってるだけだ」

 井ノ原は少し笑った。

      ◇

 さらに奥へ進んだ。

 ガルクは眼鏡をかけ直さなかった。

 帽子も目深にかぶったままだった。

 いつもの丸眼鏡がないだけで、ずいぶん印象が違う。

 人類居住区で商売の話をしていたゴブリンとも、ベルグの食堂で山喰らいを二皿平然と食べていたゴブリンとも、同じ人物には見えない。

 もっとも本人は何も変わっていないらしく、歩きながら井ノ原へ角の相場を説明していた。

 やがて巨大な節足動物が出た。

 二メートルを超える甲殻を持ち、岩壁を走る。

 蓮が片手を上げた。

 何が起きたのか井ノ原には分からない。

 怪物が突然、床へ押しつけられた。

 アルベルトが仕留める。

 その先では、岩のような皮膚を持つ四足獣が現れた。

 ガルクは腰から黒いナイフを抜いた。

 そして、やはり速かった。

 二度目に見ても、井ノ原には追えない。

 進むほど通路は広くなった。

 天井も高くなる。

 壁に巨大な傷があった。

 三本。

 井ノ原が両腕を広げても、一筋の幅に届かない。

 さらに進む。

 骨が落ちていた。

 肋骨らしきものが、井ノ原の背丈より高い。

「……これ、何の骨です?」

「さあな」

 アルベルトは楽しそうだった。

 井ノ原は楽しくなかった。

 この先にいるベヒーモスについて、井ノ原は何となくサイくらいの動物を想像していた。

 角を取るというのだから、サイに近いものだろう。

 少し大きいかもしれない。

 まあ、大きくても象くらい。

 そう考えていた。

      ◇

 地面が揺れた。

 井ノ原は足を止めた。

 ずん。

 もう一度。

 低い音が腹へ響く。

 奥の巨大な空洞から、何かが出てきた。

 最初に見えたのは脚だった。

 柱。

 そう思った。

 動いた。

 脚だった。

「…………」

 井ノ原は上を見る。

 さらに上。

 巨大な胴体。

 肩まで五メートルを超えている。

 全長は十五メートルどころではないように感じられた。

 頭部には巨大な角。

 一本だけで二メートル近い。

 根元は丸太ほどもある。

「……ガルクさん」

「何だ」

「俺、サイくらいだと思ってたんですけど」

「誰がそんなこと言った」

「誰も言ってません」

 そこが問題だった。

「角、二メートルくらいありません?」

「あるな」

「どうやって持って帰るんです?」

「取ってから考える」

「先に考えません?」

 ベヒーモスがこちらを見た。

 空気が変わった。

 巨大な頭が下がる。

 井ノ原は後退した。

「これ、殺すんですか?」

「いや」

 蓮がベヒーモスを見ていた。

 視線の先で何かを調べているらしい。

「角だけなら、ここから先を切れば大丈夫そうだ。生きた組織と血管はもっと根元に集中してる。環境ナノマシンの修復も入る。時間が経てばまた伸びると思う」

「じゃあ、殺さなくていいんですね」

「角が欲しいだけだろ」

 ガルクも頷いた。

「殺す理由がない」

 井ノ原は少し安心した。

 ベヒーモスが床を蹴った。

 安心は終わった。

「来るぞ!」

 アルベルトが剣を抜く。

 ガルクはすでに眼鏡を外し、帽子も目深にかぶっている。

 何も変える必要はなかった。

 ただ腰へ手をやり、黒いナイフを抜いた。

 その姿を見て、井ノ原はようやく理解した。

 グロムホーンと出会った時から、ガルクにとってはずっと戦闘の途中だったのだ。

 ベヒーモスが突進した。

 巨体からは想像できない速度だった。

 ガルクが前へ出る。

「ガルクさん!」

 井ノ原が叫んだ。

 ガルクが消えた。

 ベヒーモスの頭が振れる。

 右。

 ガルクがいる。

 角が薙ぐ。

 いない。

 左。

 いた。

 黒い刃が巨獣の頬を浅く走る。

 血が一筋。

 ベヒーモスが怒る。

 ガルクを追う。

 ガルクが走る。

 いや、走っているのかどうかも分からない。

 位置だけが変わる。

「速すぎる……」

 井ノ原には追えない。

 アルベルトは追っていた。

「なるほどな」

 高周波振動剣を構える。

 蓮が角の一点を指した。

「アルベルト! そこ!」

「分かった!」

 ガルクがベヒーモスの正面へ出た。

 その後ろには岩壁。

 井ノ原にも意図が分かった。

「まさか……」

 ベヒーモスが突っ込む。

 ガルクは動かない。

 まだ。

 まだ。

 巨角が迫る。

 ガルクが消えた。

 同時にアルベルトが踏み込む。

「巨獣よ、その誇りの一本――俺が貰い受ける!」

 ファサーッ。

 外套が大きくはためいた。

「アルベルト! 格好つけてないで早く切れ!」

 どこかからガルクの怒鳴り声が飛んだ。

 高周波振動刃が走る。

 巨大な角が切れた。

 ベヒーモスは止まれない。

 頭部の重量バランスが急に変わる。

 巨体が傾く。

 岩壁。

 激突。

 轟音。

 洞窟全体が震えた。

 井ノ原は頭を庇った。

 石が落ちる。

 土煙。

 静寂。

「…………」

 井ノ原は恐る恐る顔を上げた。

 ベヒーモスが倒れている。

「死んだ?」

 蓮が近づいた。

 巨体へ手を触れる。

 少し待つ。

「大丈夫。生きてる。気絶してるだけ」

「角は?」

「切断面の修復が始まってる。これなら問題ない」

 井ノ原は息を吐いた。

 ガルクが戻ってきた。

 黒いナイフを拭う。

 鞘へ戻す。

 それでも眼鏡はかけない。

 帽子も目深にかぶったままだった。

「仕入れ完了だ」

 井ノ原は地面に転がる角を見た。

 近くで見ると、さらに大きい。

「これ、どうやって車まで運ぶんです?」

 蓮が角へ手を伸ばした。

 角が浮いた。

「…………」

 井ノ原は何も言わなかった。

 もう驚くのも疲れた。

      ◇

 迷宮を出て、十分に安全な場所まで来たところで、ガルクはようやく立ち止まった。

 黒いナイフを鞘へ収める。

 帽子をいつもの位置へ戻す。

 服の内側から丸眼鏡を取り出し、かけ直した。

 井ノ原は思わず口にした。

「……戻った」

「何がだ」

「いや、ガルクさんが」

 ガルクは意味が分からないという顔をした。

 井ノ原はそれ以上説明しなかった。

「ガルクさん、一人で来るつもりだったんですよね?」

「ああ」

「……勝てるんですか、あれに」

 ガルクは少し考えた。

「勝つ必要はない」

「はい?」

「角を取ればいい」

 それだけだった。

 どうやって一人で二メートルの角を切り、十五メートルを超えるベヒーモスから逃げ、山を越えて持ち帰るつもりだったのか。

 井ノ原には分からない。

 ガルクも説明しなかった。

 車まで戻ると、巨大な角を屋根の荷台へ固定した。

 小さな角張った車体。

 その上に、二メートルの巨角。

 どう見てもおかしい。

 車両システムは平然としていた。

『積載物固定を確認。走行姿勢補正を適用します』

「大丈夫なんだ……」

 井ノ原は呟いた。

      ◇

 帰路の地図を確認していると、井ノ原は海岸沿いに集落を見つけた。

「ここ、海エルフの集落ですよね?」

「ああ」

「少し寄りません?」

 ガルクが井ノ原を見る。

「何のために」

「仕入れです」

「今度は本当か?」

「俺は最初から仕入れに来てますよ」

 少し遠回りになるだけだった。

 寄った。

 海が見えた。

 海エルフの集落では、潮風の中に無数の魚が吊るされていた。

 井ノ原の足が止まった。

「……これは」

 干物。

 形は知らない。

 だが干物だ。

 銀色の細長い魚。

 平たい青い魚。

 赤い斑点のある魚。

 塩漬け。

 半干し。

 燻製。

 海藻と一緒に発酵させたものまである。

 井ノ原は商人になった。

 保存期間。

 塩分。

 加工時期。

 漁期。

 一度に供給できる量。

 値段。

 人間居住区まで運んだ場合の保存性。

 次々に聞いた。

 試食もした。

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 ガルクが横から言った。

「食いすぎだ」

「商品確認です。加工のばらつきも見ないと分からないでしょう」

「同じ魚を三枚食ったぞ」

「個体差がありますから」

「二枚目からただ食ってたろ」

「味見です」

 ガルクは何も言わなくなった。

 井ノ原はかなりの量を買った。

 前回の空の荷室とは違う。

 干物。

 燻製魚。

 乾燥海藻。

 グロムホーンの角。

 保存処理した肉。

 屋根にはベヒーモスの巨大な角。

 ようやく商人らしい車になった。

 少し方向性がおかしい気もした。

      ◇

 三日目の夕方、人類居住区へ戻った。

 巨大な角を屋根へ載せた小型車は、とにかく目立った。

 すれ違う人が見る。

 振り返る。

 子供が指を差す。

 井ノ原は少し恥ずかしかった。

「天城さんとアルベルトさん、ここでいいですよね?」

「ああ。ありがとう」

 蓮が降りた。

 アルベルトも降りる。

 井ノ原は前を見る。

 人が二人いた。

 一人は神崎美冬。

 もう一人を見て、井ノ原は背筋を伸ばした。

 柳原。

 人類自治政府の議長だった。

「…………」

 蓮も気づいた。

 動きが止まった。

 美冬が微笑んだ。

「おかえりなさい。楽しかった?」

「……まあ」

「三日間?」

「うん」

「連絡もせず?」

 蓮が黙った。

 柳原が口を開いた。

「天城君」

「はい」

「少し話をしようか」

 蓮は一瞬だけ車を見た。

「今?」

「今だ」

 静かな声だった。

 だが、井ノ原には拒否できる雰囲気には聞こえなかった。

 アルベルトが静かに横へ動いた。

「では俺はこれで――」

「アルベルトさん」

 美冬が呼んだ。

 アルベルトの外套がファサーッとはためいた。

 今回は格好よく見えなかった。

「……俺も?」

「もちろん」

 井ノ原はガルクを見た。

 ガルクも井ノ原を見た。

「じゃ、じゃあ俺たちはベルグに――」

「行こう」

 ガルクの判断は早かった。

 井ノ原は車を出した。

 バックミラーを見る。

 蓮とアルベルトが、美冬と柳原に連れていかれるところだった。

 井ノ原は前を向いた。

 これは、まずいやつだ。

      ◇

 ベルグへの道を走る。

 車内は急に静かになった。

 後部座席が空いたことで、荷物にも余裕ができている。

 ガルクは助手席。

 屋根には巨大なベヒーモスの角。

 荷室には海エルフの干物とグロムホーンの角。

 井ノ原はハンドルを握りながら聞いた。

「ベルグ着いたら、前に行かなかった下の方の店に行きたいんですけど。湖の近くにも食堂あります?」

「ある。魚を出す店もあるし、虫を焼く店もある。何が出るかは店による」

「前に食べたやつと違うものもあります?」

「ベルグに何軒店があると思ってる。三日いて食ったのは、ほんの一部だ」

「そうですよね」

 井ノ原は巨大な竪穴を思い出した。

 遥か下。

 光の届かない地下湖。

 その周囲にも店がある。

 まだ食べていない料理がある。

 ぐう。

 腹が鳴った。

 ガルクが横を見る。

「さっき干物を三枚食っただろ」

「あれは味見です」

「同じだ」

「違いますよ。仕事と食事は別です」

「お前の場合、同じに見える」

 やがて山間の道の先に、ベルグへ通じる入口が見えてきた。

 井ノ原はアクセルを踏む。

 今度は落ちて来たのではない。

 町の名前も知っている。

 行き方も知っている。

 荷室には、ちゃんと仕入れた商品もある。

 そして何より。

 まだ入っていない店がある。

 小さな四輪駆動車は、巨大な角を屋根に載せたまま、地下都市へ続く道を走っていった。

 井ノ原一郎は商人である。

 仕入れの旅は、無事に終わった。

 夕食は、まだだった。

――第89話 三人と独りのグルメ 了

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