第88話 独りのグルメ ゴブリン都市編
話は、ゴブリンたちが人類居住区を訪れる数日前に遡る。
山道を、一台の小型モビリティが走っていた。
全長は四メートルに満たない。短いホイールベースに大きな最低地上高を持ち、車輪は車体の四隅へ追いやるように配置されている。切り立った前面に丸いヘッドライト、ほとんど垂直なフロントガラス。地球では数百年にわたり基本的な姿を受け継いできた、クラシカルな小型四輪駆動車の系譜を思わせる形だった。
ただし、中身はまったく違う。
動力は高密度固体電池。四輪それぞれ独立したモーターが組み込まれ、路面状況に応じて一輪ごとの駆動力を制御する。サスペンションも独立制御され、リアルタイム空気圧制御も相まって岩場や泥濘、急斜面であっても最適なグリップ力と車体の姿勢を保つことができた。
EDENで人類が生産しているモビリティの一つである。
人類自治政府は、市街地用の小型車両から貨物運搬車、山岳用モビリティ、水上艇まで、さまざまな移動手段を共用資産として保有していた。
必要であれば、ライトプレーンも申請して借りることができる。
まだ人口の少ない人類社会では、高性能な移動機械を一人ひとりが所有するより、必要な者へ必要な期間だけ貸与する方が合理的だった。
井ノ原一郎が運転している車両も、人類自治政府から仕事用に貸し出されたものだった。
選んだのは井ノ原自身である。
もっと速い車両はある。目的地付近に着陸できる場所さえ確保できれば、ライトプレーンを使った方が移動時間も短い。
それでも井ノ原は、これがよかった。
小さくて、頑丈で、荷物が積めて、悪路へ入っていける。
何より、この形が好きだった。
外見はクラシックカーの小型四輪駆動車を思わせるが、運転席から見える景色は完全に別物だった。
フロントガラス全面に半透明の情報が浮かんでいる。
舗装のない山道の左右へ淡い線が伸び、走行可能な道幅を示していた。轍すら途切れる場所では、車体のセンサーと地形データから進路が生成され、現実の風景へ仮想的な道路境界が重ねられる。
前方には進行方向、勾配、路面状態、落石の危険、走行可能な幅。
標識など一本もない山道に、ガラス越しの案内だけが延々と続いていた。
自動運転も使える。
それでも井ノ原は、自分でハンドルを握っていた。
タイヤが石を踏み、僅かな振動がステアリングへ返ってくる。
それがいい。
井ノ原は人類居住区を拠点に、各地を回る商人だった。
人類の生活用品をエルフの町へ持っていき、そこで作られた品を買う。それを別の町へ運び、あるいは人類居住区へ持ち帰る。
効率だけを考えれば、自分で走り回る必要はない。注文も決済も通信でできるし、輸送だけなら無人機へ任せればいい。
それでも井ノ原は、自分で行く。
品物は手に取った方がいい。
作った者とは話した方がいい。
買う者の顔も見た方がいい。
そして何より、知らない土地へ行けば、知らないものが食える。
井ノ原にとって、これはかなり重要だった。
今日は山間部の集落をいくつか回り、陶器や布製品、保存食などを仕入れる予定だった。
そのため、後部の荷室はまだほとんど空いている。
帰る頃にはいっぱいになる予定だった。
人類居住区を出てから、すでに数時間が経っていた。
腹も減ってきた。
だが、食事には少し早い。
それより先に、別の問題があった。
「……ちょっと止めるか」
道幅が少し広くなった場所へ車を寄せた。
動力音が消えると、山の音が戻ってくる。
風が木々を揺らし、葉が擦れ合う。
井ノ原は助手席に置いていた小さなフィールドバッグを手に取った。
通信端末、決済端末、身分情報、応急用品、飲料水、非常食。それから掌ほどの探索ドローンが数機。
車を離れる時には必ず持っていく。
商人として各地を歩くうち、自然と身についた習慣だった。
道路脇へ歩く。
少し離れたところに大きな岩があった。
「あそこならいいか」
用を足すだけである。
井ノ原はバッグを肩へ掛けたまま、岩の脇へ回った。
足を止める。
「…………」
もう少し向こうの方が見えない。
誰に見られるわけでもないのだが、道端でするのも何となく落ち着かなかった。
井ノ原はさらに二歩進んだ。
三歩目を踏み出した。
地面が抜けた。
「え?」
右足が消えた。
反射的に左足を踏ん張る。
その左足の下も崩れた。
「ちょっ――」
土と小石が暗闇へ吸い込まれた。
井ノ原も一緒だった。
◇
痛い。
最初に戻ってきた感覚は、それだった。
次に寒い。
井ノ原は目を開けた。
何も見えない。
自分が本当に目を開けているのか分からないほどの暗闇だった。
「……生きてるな」
声は出た。
頭も動く。
身体を起こそうとする。
「っ……!」
右脇腹から背中へ鈍い痛みが走った。
やめた。
しばらく寝ていることにした。
視界の端に、自分の身体情報が表示されている。
肋骨骨折。右鎖骨骨折。左足首に亀裂骨折。複数の裂傷と打撲。内臓にも軽度の損傷。
医療ナノマシンによる緊急修復が進行していた。
脳、頸髄、脊髄に重大な損傷なし。
「……運がいいのか、悪いのか」
悪いに決まっている。
立ち小便をしようとして穴へ落ちたのだ。
ただ、生きている。
ならば運がいいとも言える。
しばらく待つと、痛みは少しずつ引いてきた。医療用ナノボットが麻酔効果のある成分を合成して投与したのだろう。
骨が完全に治ったわけではない。身体は重く、右肩もまともに上がらない。
それでも、ゆっくりなら身体を起こせる。
肩に掛けていたフィールドバッグも残っていた。
「偉い」
誰を褒めているのか、自分でも分からなかった。
多少の暗視が効く中、バッグから照明を取り出す。
光が闇を切った。
岩。
土。
崩れた石。
天井は高い。
上を照らす。
「……よく生きてたな」
落ちてきた穴らしき場所は見えるが、途中で曲がっているのか穴の先は見えない。
到底登れる高さではない。
通信端末も圏外だった。
衛星通信も通らない。
「地下か」
当たり前のことを口にした。
井ノ原は探索ドローンを三機取り出した。
「周辺探索。三次元地図作成。通信中継を維持」
三機が静かに浮き、それぞれ別方向へ飛んでいった。
数分後、端末に周辺の立体地図が描かれ始めた。
落下した場所は自然洞窟の一部らしい。
だが、一方向だけ様子が違う。
一定の幅。
直線。
規則的に続く空間。
「……道か?」
井ノ原は立ち上がった。
左足首が痛む。先ほどよりだいぶマシになってきた。歩けないほどではない。
上へ戻れないなら、横へ行くしかなかった。
◇
最初に見つけた人工物は排水溝だった。
岩壁の下を細い溝が走り、水が流れている。
次に壁の補強。まるで坑道のようだ。
さらに進むと、床が平らになった。
車輪の跡まである。
「誰かいるな」
それは朗報だった。
道は次第に広くなる。
壁には一定間隔で発光体が設置されていた。
やがて、遠くから音が聞こえ始めた。
金属を叩く音。
石畳を転がる車輪。
何人もの話し声。
水の流れる音。
低く響く機械の音。
井ノ原は足を進めた。
坑道が明るくなっていく。
照明とは違う。
白い。
僅かに青い。
「……外?」
そんなはずはない。
井ノ原は坑道の出口まで歩いた。
そして、立ち止まった。
「…………」
言葉が出なかった。
巨大な竪穴があった。
洞窟ではない。
井ノ原の立っている場所から左右を見ても、対岸までかなりの距離がある。
そして足元から、地の底へ向かって落ち込んでいる。
百メートル。
二百メートル。
そんな程度ではない。
何層にも連なる灯りが、遥か下まで続いていた。
井ノ原は縁へ近づき、下を覗いた。
「……うわ」
思わず身体を引いた。
深い。
あまりにも深い。
竪穴の壁には、巨大な螺旋を描くように道が造られていた。
一周や二周ではない。
岩壁へ沿って緩やかに下降し、何度も何度も竪穴を巡りながら、底へ向かって続いている。
そして、その道に沿って石造りの建物が並んでいた。
岩棚へ基礎を組んだ家。
壁そのものを掘り込んだ工房。
何階にも積み重なる倉庫。
通りへ張り出した店。
岩壁に開けられた無数の横穴。
横穴の奥にも灯りが続いている。
対岸にも建物がある。
その下にもある。
さらにその下にもある。
竪穴を横断する石橋まで何本も架けられていた。
細い橋をゴブリンたちが歩き、幅の広い橋では荷車が行き交っている。
よく見ると何本か鎖が垂れ下がり、その先には鉄出てきた籠が付いている。エレベーターみたいなものだろうか。
見えているだけでも、何千という人影が動いていた。
井ノ原は知識として、ゴブリンが地下都市を造ることを知っていた。
だが、想像していたものとはまるで違う。
洞窟の中に家を並べた町ではない。
巨大な穴そのものが都市だった。
見上げる。
遥か頭上には、竪穴の縁を囲む山の稜線と、その間に覗く青空があった。
地上は確かにそこにある。
だが、ここから見ればずいぶん遠い。
この巨大な竪穴は、周囲を山に囲まれた窪地の底から、そのまま地中深くまで口を開けているらしい。
自然に崩落してできたものなのか。
古い火山活動の痕跡なのか。
井ノ原には分からない。
ただ、ゴブリンたちはその巨大な地形を何世代にもわたって利用し、岩壁を削り、道を造り、横穴を広げ、橋を架け、都市へ変えていた。
下を見ると灯りはずっと続いている。
最深部まで何百メートル、いや、線メートルもあるだろうか。計り知れないとはこれのことだった。
遥か下に、黒いものが見えた。
「……水?」
地底湖らしい。
竪穴の最深部を、黒く静かな水面が満たしている。
灯りが僅かに映り込み、巨大な黒い鏡が地の底に横たわっているようだった。
「……これがゴブリンたちの町なのか」
近くを通りかかったゴブリンが答えた。
「そうだ」
「下まで?」
「下までだ」
ゴブリンが遥か下を指す。
「湖の近くにも住んでる」
「……あそこまで?」
「住んでる」
井ノ原はもう一度見下ろした。
正直、歩いて行きたいとは思わない。
帰りを考えるだけで嫌になる。
その時、竪穴の上層がゆっくりと明るくなった。
井ノ原は顔を上げた。
太陽だった。
山の稜線を越えた太陽が、ちょうど竪穴の開口部から差し込んでいた。
巨大な光の柱が、地下へ落ちる。
暗かった岩壁が照らされる。
石造りの建物の屋根が光る。
橋を歩くゴブリンたちの影が伸びる。
空中を漂っていた細かな塵が光を受け、無数の粒となって輝いた。
光はさらに下へ落ちていく。
だが、底までは届かない。
数百メートル下で次第に弱まり、人工照明の海へ溶けていった。
井ノ原は黙って見ていた。
この竪穴に太陽の光が入るのは、一日のうち数時間だけらしい。
その短い時間を利用するように、上層の岩棚には植物を育てる区画も設けられていた。
突然、頭上からけたたましく何かをたたく音が聞こえた。
「ガンガンガンガン」
「落とすぞ!」
井ノ原が上を見る。
何かが落ちてきた。
「え?」
丸太だった。
一本ではない。
何本もの丸太が束になって、竪穴の中央を落下してくる。
「おい!」
井ノ原は反射的に後ずさった。
周囲のゴブリンは誰も逃げない。
丸太の束は何十メートルも下へ落ち、その先に張られた巨大な網へ激突した。
網が大きく沈み込み、何本もの太い綱が張り詰め、衝撃を受け止めた。
「……木材?」
「そうだ」
近くのゴブリンが答える。
地上で伐採した木材を、竪穴へ直接落としているらしい。
必要な層には巨大な受け網が設けられ、そこで回収する。
何百メートルも螺旋の道を運び下ろすより、落とした方が早い。
「合理的……なのか?」
乱暴には見える。
だが、合理的だった。
井ノ原は改めて周囲を見た。
巨大な竪穴。
螺旋の道。
そこへ張り付く無数の石造建築。
奥へ伸びる横穴。
空中を渡る橋。
行き交う荷車。
工房の炎。
地上から落ちてくる木材。
遥か下に眠る地底湖。
そして頭上から差し込む太陽。
穴の中に町があるのではない。
穴の中に、ひとつの世界がある。
井ノ原はしばらくその景色を眺めていた。
風向きが変わった。
巨大な竪穴を上昇してきた空気が、井ノ原のいる道へ流れ込む。
そこに匂いが混じっていた。
「…………」
焼いた肉。
脂。
香辛料。
井ノ原は壮大な地下都市から視線を外した。
「……腹が……減った」
◇
匂いの発生源は、螺旋状の道から少し奥へ入った横穴にあった。
石造りの店内に木のテーブルが並び、客は全員ゴブリンだった。
井ノ原が入ると何人かが見たが、それだけだった。
空いている席へ座る。
「何にする。ニンゲンのお客さん」
店員が来た。
壁の品書きを見る。
知らない料理ばかりだ。
「おすすめは?」
店主が隣の卓を指した。
「あれ」
井ノ原は見た。
「…………」
脚だった。
巨大な虫の脚。
黒褐色の殻に太い節、棘まである。
腕ほどもあった。
「……虫ですよね」
「そうだ」
店主は平然としている。
隣の客が殻を割った。
中から白い身と湯気が現れる。
うまそうに食べている。
「じゃあ、あれで」
しばらくすると、湯気の立った料理が来た。
近くで見ると、さらに虫だった。
「これは……食えるのか?」
注文してから言うことではない。
殻を割る。
白い身を取り出す。
一口。
「…………」
噛む。
「……うまいな」
カニに似ている。
臭みもなく、ただただ旨味が溢れてくる。
鶏肉のような弾力もある。
味が濃い。
横に添えられた緑黒色の発酵藻ソースをつける。
「お」
酸味と塩気。
独特の発酵臭。
それが妙に合う。
夢中で一本平らげた。
「まだ食べられるなぁ……」
次に頼んだのは、目のない洞窟魚とキノコの煮込みだった。
白い魚、地下キノコ、根菜、香草。
汁を飲む。
「……これもうまい」
魚の出汁とキノコの旨味がお互いを引き立て合う。
根菜の甘み。
最後に残る香草の苦味。
白飯が欲しい。
非常に欲しい。
井ノ原は黙々と食べた。
ふと店の奥を見る。
「…………」
見覚えのあるゴブリンがいた。
黒ずんだ暗赤色の尖った帽子。
丸眼鏡。
向こうも井ノ原を見た。
二人とも、しばらく止まった。
先にゴブリンが言った。
「……山喰らい」
「ああ」
井ノ原も思い出した。
以前、エルフの町の食堂で山喰らいを二皿食べていたゴブリン。
井ノ原も同じものを注文し、食べ終わったあと、なぜか互いに頷いた。
それだけの関係だった。
「二皿食べてた人」
「お前も食ってた」
「食べましたね」
「ああ」
それだけ確認すると、ゴブリンは自分の食事へ戻った。
井ノ原も戻った。
名前は知らない。
だが、食事中に無理に話す必要もなかった。
◇
井ノ原が食堂を出ると、先ほどのゴブリンが店の前で待っていた。
「お前、どこへ行く」
「とりあえず人類居住区まで戻りたいです」
「ん? どうやって来た」
「山の中から、ここの横穴に滑落しました」
「……落ちた?」
「ええ、上から」
ゴブリンは井ノ原の泥だらけの服と傷を見て察したようだ。
「名前は」
「井ノ原一郎です」
「イノハラ」
「そう、井ノ原です」
「俺は商人のガルクだ」
「ガルクさんですね」
ガルクが井ノ原を見る。
「ニンゲンの町にいきたいのだろう? 俺も数日後にニンゲンの町へ行く予定だ」
「そうなんですか」
「ここの連中と一緒にな」
「なら、地上へ出る道を教えてもらえませんか」
「教えてもいいが、今の足で山を歩く気か」
井ノ原は左足を見る。
「……やめた方がいいですね」
「そうしろ」
ガルクが歩き出した。
「しばらくここにいろ。行く時に連れていく」
「助かります」
井ノ原はその後をついていった。
しばらく歩いたところで、足が止まった。
「…………」
甘辛い匂いがした。
道端の屋台で、串に刺された細長いものが焼かれている。
長さは二十センチほど。
外側には薄い皮があり、断面は白い。
甘辛いタレが塗られ、炭火の上で照りを帯びていた。
「ガルクさん、これは?」
「穿ち虫だ」
「うがちむし?」
「坑道の壁に穴を開ける害獣だ」
成体は太いミミズのような姿をしているらしい。
岩の割れ目や柔らかい地層を食い進み、人間の腕が入るほどの太さの穴を開ける。
放置すれば穴へ水が入り込み、坑道壁を弱くすることもある。そのため、見つけ次第駆除される。
「それを食べるんですか」
「捨てる理由があるのか?」
「ないですね」
地下では、害獣も資源だった。
「一本ください」
ガルクが呆れた顔をした。
「食ったばかりだろ」
「せっかくなので」
串を受け取る。
井ノ原は一口齧った。
「…………」
柔らかい。
脂がある。
魚のようでもあり、鶏皮のようでもある。
甘辛いタレがよく合う。
「蒲焼きかな」
「カバヤキ?」
「昔の人間の料理です」
「うまいのか」
「これもうまいです」
「ならいい」
歩きながら串を食べる。
ガルクが横を見る。
「さっき飯を食ったばかりなのによく食うな」
「食事とは別腹です」
「ニンゲンは腹が何個かあるのか?」
◇
腹は一つだった。もう食べない。
そう思っていた。
数分後、井ノ原はまた止まった。
今度は甘い匂いだった。
露店に、小さな透明容器が並んでいる。
中に黒いものが入っていた。
親指の先ほどの幼虫。
そして、動いている。
「ガルクさん」
「何だ」
「あれは?」
「蜜腹虫」
「虫ですか」
「見れば分かるだろ」
分かりたくなかった。
黒い幼虫の腹部だけが半透明に膨らみ、内部に琥珀色の液体が透けて見える。
地下で飼育される昆虫の幼虫で、成長する時期に糖分を体内へ大量に蓄えるらしい。
「甘露だ」
「これが?」
「ああ」
井ノ原は見た。
幼虫が動いた。
「…………」
「無理に食わなくていいぞ」
井ノ原は言った。
「一つください」
「何個目の腹だ」
ガルクが呆れている。
自分でもなぜ買ってしまったのか分からなかった。
小さな器を受け取る。
木の匙ですくう。
黒い幼虫。
半透明に膨らんだ腹。
まだ僅かに動いている。
井ノ原は口へ入れた。
ぷち。
「…………!」
薄い皮が弾けた。
中から濃厚な蜜が広がる。
蜂蜜に似ている。
だが、ナッツのような香ばしさと、僅かな果実の酸味もある。
「……うまい」
悔しいが、見た目からは想像できないほど、ちゃんと甘露だった。
もう一匹。
ぷち。
「うまいな」
ガルクが笑った。
「イノハラは変な奴だな」
「ガルクさんに言われたくありませんよ」
そう言うと、井ノ原は残りも食べた。
ゴブリンの地下都市。
食べ物に関しては、かなり面白い場所だった。
◇
数日後。
ガルクたちが人類居住区へ向かう日になった。
出発の準備をするゴブリンたちを眺めながら、井ノ原はふと思った。
「ガルクさん」
「何だ」
「ここって何ていう町なんです?」
ガルクが井ノ原を見る。
「今さらか」
「聞く機会がなくて」
「何日いたと思ってる」
「食べ物の名前はいくつか覚えました」
「町の名前を先に覚えろ」
「それで、何ていうんです?」
「ベルグだ」
「ベルグ」
「ああ」
井ノ原は一度頷いた。
「覚えました」
「本当か?」
「たぶん」
地下都市ベルグ。
井ノ原はそこでようやく、自分が数日過ごした町の名前を知った。
人類居住区へ向かうのは、ガルクを含め七人ほどのゴブリンだった。
その中には、ガルクより一回り大きく、年嵩に見えるゴブリンもいる。
「バルガだ」
ガルクが紹介した。
「ベルグの評議を預かってる」
「井ノ原です」
「聞いてる」
バルガはそれだけ言った。
井ノ原は彼らと一緒に地下都市を出た。
中心の大竪穴を直接登るのではない。
壁面から山中へ伸びる横穴を進み、途中から上層へ向かう坑道へ入る。
何度も分岐する道をゴブリンたちは迷うことなく進んでいった。
やがて人工的な坑道が自然洞窟へ変わる。
最後は岩の隙間に設けられた扉を抜けた。
外だった。
何日かぶりの日差しに、井ノ原は目を細めた。
「眩しいな……」
そこから山道を歩く。
ゴブリンたちは迷わない。
「俺が落ちた場所、分かるんですか」
井ノ原が尋ねると、バルガが答えた。
「調べた」
「調べた?」
「地面に穴が開いて、ニンゲンが落ちてきたんだ。調べる」
「それはそうですね」
しばらく歩くと、見覚えのある道路へ出た。
そして。
「あった」
小さな四輪車が、そのまま停まっていた。
井ノ原は少し安心した。
数日も山中へ放置していたのだ。
車両へ近づくと本人認証が行われ、ロックが解除された。
『貸与利用者を確認。井ノ原一郎。車両状態、正常』
「よかった」
井ノ原はドアを開けた。
そこで後ろを見る。
ガルク。
バルガ。
ほかのゴブリンたち。
全員が車を見ている。
「……乗ります?」
バルガが車内を覗いた。
「これに?」
「はい」
「全員?」
「たぶん」
幸いだった。
仕入れ前だったため、後部の荷室にはほとんど何も入っていない。
この車両は山岳地帯での作業にも使われる多目的型で、後部には折り畳み式の補助座席が収納されていた。
井ノ原がそれを展開する。
「ゴブリンなら、これでいけますね」
み「ニンゲンなら?」
「かなり狭いです」
「俺たちは狭くないのか」
「……たぶん大丈夫です」
助手席にガルク。
後部座席と荷室の補助席に、バルガたちが収まる。
井ノ原は運転席へ座った。
「少し窮屈かもしれませんけど」
「歩くより早いのだろう?」
「それは間違いないです」
車両を起動する。
フロントガラスへ情報が浮かび上がった。
ゴブリンたちが一斉に前を見る。
何もなかった山道の上へ、二本の淡い線が伸びていく。
進行方向。
曲がり角。
勾配。
路面状態。
すべてが現実の景色へ重ねて表示される。
バルガが身を乗り出した。
「道が光ってるぞ」
「実際には光ってません」
「見える」
「このガラスに表示してるだけです」
「便利だな」
「これがあれば、道を知らないところへも行けます」
井ノ原は少し嬉しかった。
自分の車ではない。
人類自治政府から借りているだけの車である。
それでも、この車を褒められると何となく嬉しい。
「じゃあ、帰りましょうか」
小さな四輪車が山道を走り出した。
後ろには、人類自治政府へ話をしに行くゴブリンたち。
運転しているのは、立ち小便をしようとして彼らの地下都市へ落ちた人間の商人。
井ノ原はそんな組み合わせについて特に考えなかった。
あの町には、まだ食べていない料理があるはず。
考えていたのは、そちらだった。
◇
人類居住区へ到着すると、連絡を受けた自治政府の職員が迎えに来ていた。
ゴブリンたちの用件を確認し、一団を庁舎へ案内することになった。
井ノ原も貸与車両を返却するため、同じ方向へ向かう。
庁舎の入口で足を止めた。
「ガルクさん」
「何だ」
「ありがとうございました」
「ああ」
「それと」
「まだあるのか」
「あの食堂、また行ってもいいでしょうか」
ガルクが井ノ原を見る。
「行きたいのか」
「はい」
「道を教えてほしいのか」
「できれば」
ガルクは少し呆れた顔をした。
「落ちて来る必要はない」
「それは助かります」
井ノ原は軽く頭を下げ、そのまま一団から離れた。
まずは貸与車両の返却。
それから診療施設で、身体をきちんと診てもらう。
途中になった仕事についても、予定を組み直さなければならない。
やることはいくらでもある。
だが、井ノ原の頭に浮かんでいたのは、地下で食べたものだった。
巨大な虫の脚。
目のない魚とキノコの煮込み。
穿ち虫の串焼き。
蜜腹虫。
そして、あの巨大な竪穴の壁面には、まだ入っていない店がいくらでも並んでいた。
井ノ原は歩きながら考えた。
次にベルグへ行った時は、何を食べよう。
今度は町の名前も知っている。
そして、行き方も聞けばいい。
地上へ戻ってきたばかりだというのに、もう次の食事のことを考えていた。
――第88話 独りのグルメ ゴブリン都市編 了




