第86話 生きるために
NOAHの到着を前提とした受け入れ準備が進むにつれ、人類自治政府が必要とする情報は、船の性能や乗員数だけでは済まなくなっていた。
百万人を地上へ移す。
そのためには、百万人の身体を知らなければならない。
人類居住区の医療部門から提出された照会項目は膨大だった。年齢別人口、男女比、平均身長と体重、骨密度、筋量、循環器機能、免疫系、既往症、遺伝性疾患、平均寿命。さらにNOAH船内の人工重力、食事、出生管理、乳幼児の育成方式まで含まれている。
通信距離がある以上、一つ質問して回答を待ち、その回答を見てまた質問するようなやり方は効率が悪い。医療部門は必要と思われる項目を可能な限りまとめ、一括してNOAHへ送信した。
回答が返ってきたのは翌日だった。
送られてきたデータ量は、予想をはるかに上回った。
「……全部出してきたな」
蓮は会議室の壁面を埋め尽くした項目を眺めた。
『医療および生体情報について、秘匿対象に指定された項目は確認できません』
イザナミが回答した。
「個人の医療情報まで?」
『個体を特定可能な情報は含まれていません。統計および受け入れ準備に必要な生体情報です』
「それならいいけど」
医療担当者たちはすでに解析を始めていた。
最初に目についたのは、身長だった。
「成人男性の平均……二〇三・六センチ?」
蓮が数字を二度見した。
隣の担当者が頷く。
「間違いではありません。女性もかなり高いです」
体重も表示される。
身長のわりに軽い。
骨格は細長く、四肢も長い。ただし筋量そのものが極端に少ないわけではなかった。
「でかいな」
「長期間の低重力環境が影響していると考えられます。ただ、現在のNOAH船内重力はかなりEDENに近づいています」
人工重力の推移が表示された。
蓮の表情が変わる。
「ずっと同じじゃなかったのか」
「違いますね」
NOAHは長い航海の大部分を、EDENより低い人工重力環境で過ごしていた。
身体を動かすために必要なエネルギーを少しでも減らす。構造物への負荷を減らす。限られた食料から得られるエネルギーを可能な限り生命維持へ回す。
その結果として、世代を重ねるうちに高身長で細身の体格が一般的になっていた。
しかし、ある時期を境に重力設定が変化している。
ゆっくりと。
数世代をかけて。
EDENの地表重力へ近づけていた。
「降りるためか」
蓮が呟いた。
『その可能性が高いと判断します』
「最初から、ここに着いたときのことを考えてたんだな」
重力を急激に引き上げれば、長く低重力に適応してきた人間には大きな負担になる。それを一世代で行わず、数世代を使って少しずつ身体を地上環境へ戻していた。
彼らにとってEDENは、突然見つけた避難先ではない。
到達しなければならない目的地だった。
医療担当者の一人が別の資料を開いた。
「栄養関係も確認します」
「そこはREGULATORにも渡してくれ。生産計画の修正が必要になるかもしれない」
「すでに共有しています」
NOAHから送られてきた栄養データが展開された。
最初は一日の必要エネルギー量だった。
年齢別。
性別。
職務別。
身体活動量別。
異様なほど細かい。
その下に、摂取物の組成が並んでいた。
蓮はしばらく画面を見ていた。
「これ、食料の原料?」
医療担当者も返事をしなかった。
クロレラを含む複数種の藻類。
微生物由来タンパク質。
培養炭水化物。
合成脂質。
必須アミノ酸。
ビタミン。
ミネラル。
微量元素。
それぞれが一日の必要量に合わせて配合されている。
食品名らしい食品名がない。
「NOAH側が送るデータ間違えたんじゃない?」
『照会内容との整合性に問題はありません』
「でも、これじゃ……」
蓮は表示を拡大した。
そこに記載されているNOAH側の分類を見つける。
標準栄養供給物。
「……これを食ってるの?」
『そのようです』
「毎日?」
『日常的な栄養摂取を目的としたものと記載されています』
蓮は椅子の背にもたれた。
「共同栄養供給設備って、そういう意味だったのか」
住宅計画とともに送られてきた説明を、EDEN側はもっと普通のものとして受け取っていた。
大規模な厨房。
共同食堂。
個別の住宅に調理設備を置かず、まとめて食事を提供する方式。
そういうものだと思っていた。
違った。
NOAH側は最初から正確に書いていた。
食堂とは一度も呼んでいない。
栄養供給設備。
文字通りだった。
「これ、いつから?」
イザナミがNOAHの記録を検索する。
『食料生産方式は航海中に段階的に変更されています。当初は地球由来の一般的な農作物および畜産代替品も生産されていました。しかし設備維持、資源消費、生産効率の問題から品目が順次整理されています』
蓮は黙って聞いた。
『現在の栄養供給方式の原型が確立された後も改良が続けられ、嗜好性より生産効率、保存性、栄養効率が優先されています』
「味は?」
『資料には主要評価項目として記載されていません』
「……そうか」
生きるために必要なものは、すべて入っている。
それ以上を求めなかった。
百万人を二千五百年以上先まで運ぶためには、それが正しかったのかもしれない。
少なくともNOAHは、実際にここまで来た。
さらに解析を進めていた医療担当者が、手を止めた。
「議長」
少し離れた場所で別資料を見ていた柳原が顔を上げる。
「どうした」
「出生統計なんですが」
人口推移が表示された。
出生数と死亡数は驚くほど精密に管理されていた。
人口が増えすぎることもない。
急激に減少することもない。
食料生産能力、居住能力、必要労働人口、年齢構成、予測死亡数。それらを基に出生数が調整されている。
「かなり徹底してるな」
蓮が言った。
「そこではなくて……これです」
担当者が一項目を強調した。
自然妊娠による出生。
ゼロ。
「今年?」
「いえ」
過去の記録へ移る。
ゼロ。
さらに遡る。
ゼロ。
もっと遡る。
やはりゼロだった。
「どういうこと?」
「人工授精です」
別の資料が開かれる。
人工授精。
胚の遺伝情報検査。
人工子宮による胎児育成。
出生後の健康管理。
すべてが一つの人口維持システムとして統合されていた。
「自然妊娠を禁止してる?」
『そのような規定は確認できません』
イザナミが答えた。
「じゃあ、なんでゼロなんだ?」
『NOAH社会において、自然妊娠を選択する必要性が失われているものと推測されます』
妊娠には長い期間が必要になる。
母体への身体的負担がある。
出産時の危険もある。
予定した時期に必ず出生するとも限らない。
人工子宮であれば、その多くを回避できる。
さらにNOAHでは、将来必要になる人口まで予測して出生数を決めている。
遺伝的多様性も管理されていた。
誰と誰の遺伝情報を組み合わせるかまで、近親化を防ぐための長期計画に組み込まれている。
柳原が資料を見つめた。
「それで家族用の部屋がなかったのか」
誰もすぐには答えなかった。
NOAHから送られてきた住宅設計。
一人用の小さな個室。
未成年者は育成施設と教育施設を利用するという説明。
すべてがつながった。
「子供は誰が育てる?」
蓮が尋ねた。
『年齢別育成施設において、専門職員および自動育成システムが担当します』
「生物学上の親は?」
『遺伝情報として記録されています』
「子供は知ってるの?」
『照会された資料の範囲では、本人による遺伝情報へのアクセスは可能です』
「会ったりするのか?」
『不明です』
蓮はそれ以上聞かなかった。
資料に書かれていないことまで、想像で決めるべきではない。
柳原もまた、画面を見つめたままだった。
「よくできている」
医療担当者が柳原を見た。
「議長?」
「システムとしてだ」
柳原は人口推移を指した。
「食料生産能力を超えない。人口を減らしすぎない。遺伝的多様性を維持する。妊娠による身体的負担も避ける。必要な世代を、必要な人数だけ確実に作る」
数字だけを見れば、完成度は高い。
「これで二千五百年以上、百万人規模の社会を維持してきた」
柳原は静かに言った。
「我々が安全な地上から、簡単に間違いだったとは言えん」
蓮も反論しなかった。
NOAH側から追加のデータが届いたのは、その日の夕方だった。
EDEN側が送った医療統計を解析した結果、確認したい事項があるという。
表示された質問を読んだ蓮が眉を寄せた。
《EDEN居住人類における出生方式について確認を要求する》
自然妊娠が大部分を占めることは、すでに送信した資料にも記載されている。
質問はその先だった。
《妊娠期間中に生じる身体機能変化、職務遂行能力低下、疾病リスクおよび分娩時危険性を許容して自然妊娠を選択する理由について、関連情報の提供を要求する》
「……理由?」
蓮が呟いた。
医療担当者も困った顔をした。
「どう答えます?」
「医学的な理由を聞いてるわけじゃないよな、これ」
「おそらく」
NOAH側は批判しているわけではない。
文章には感情的な表現が一切ない。
純粋に理解できないのだ。
安全な人工子宮が存在する。
母体に負担をかけない。
出生時期を管理できる。
人口も計画できる。
それなのに、なぜ危険性のある自然妊娠を選択するのか。
彼らにとっては、それが説明を必要とする行為だった。
「向こうから見たら」
蓮は画面を見たまま言った。
「俺たちの方が変なんだな」
柳原が隣で腕を組んだ。
「当然だろう」
「当然?」
「二千五百年だぞ」
柳原はNOAHの人口統計を見た。
「我々が知っている地球の常識が、そのまま残っていると思う方がおかしい」
蓮は何も言わなかった。
夜になっても、NOAHから送られてきた資料は会議室の壁面に残されていた。
住宅。
栄養供給。
出生。
育成。
教育。
職務配置。
そこにある仕組みの一つ一つには理由があった。
無意味に人間を苦しめるために作られた制度ではない。
むしろ逆だった。
限られた空間。
限られた資源。
故障すれば二度と補充できない設備。
その中で、次の世代へ命を渡す。
さらに次へ。
さらに、その次へ。
二千五百年以上。
その果てに、NOAHは百万人を連れてEDENへ向かっている。
「無駄なものを、全部なくしていったんだな」
蓮が呟いた。
『その表現は正確ではない可能性があります』
イザナミの声が返ってきた。
「どういうこと?」
『現在のNOAH乗員の大部分は、現在の社会制度が確立した後に出生しています』
「それはそうだろ」
『彼ら自身が何かを捨てたわけではありません』
蓮は黙った。
『生まれた時点から存在しなかったものを、失ったものとして認識することは困難です』
蓮は壁面を見る。
自然妊娠、ほぼゼロ。
家族単位の居住、なし。
個別調理設備、不要。
余暇専用設備、要求なし。
それでも人口は維持されている。
教育もある。
医療もある。
社会もある。
そして百万人が生きている。
蓮は椅子から立ち上がり、窓際へ歩いた。
夜の人類居住区には明かりが点々と灯っている。
住宅の窓。
店。
飲食店。
まだ営業している施設。
遠くには、新しく建設されているNOAH居住区の作業灯も見えた。
あそこにも、やがて窓の明かりが灯る。
百万人分。
その人々が、窓から外を見ることを必要だと思うのかさえ、今は分からない。
「二千五百年か……」
蓮は夜空を見上げた。
そこにNOAHの姿はまだ見えない。
それでも確実に近づいている。
人類が作った巨大な船が。
地球を知らない百万人の人間を乗せて。
――第八十六話 了。




