第78話 もうひとつの移民団
恒星間移民船が地球を離れた頃、人類が未来を託した船は一隻だけではなかった。
地球環境の悪化が不可逆的な段階へ入りつつあると判断されてから、複数の国家と共同体が恒星間移民計画を立ち上げていた。
目的地も違えば、船の構造も違う。移民に対する思想さえ統一されていなかった。
それでも目的だけは同じだった。
人類を地球の外へ残す。
その一つに、《ホープ船団》と呼ばれる移民団があった。
七隻の大型恒星間移民船と十二隻の無人資源船からなる大船団。乗員総数、三十一万八千四百二十七名。
アマテラスとは異なり、特定の一隻へすべてを集中させない設計思想が採用されていた。事故によって一隻を失っても、他の船が生き残れば計画そのものは継続できる。
目的地は地球から六十三光年。
事前観測によって発見された惑星は地球より僅かに小さく、液体の水が豊富で、テラフォーミングに必要な元素も十分に存在すると推定されていた。
そして何より、現地に高度な生命圏は確認されていなかった。
移民船団は予定通り地球を離れた。
予定通り加速した。
予定通り長期航行へ入った。
アマテラスで起きたような大規模な破壊工作もなかった。
航路を外れることもなかった。
そして長い航海の末、《ホープ船団》は予定されていた恒星系へ到達した。
◇
『目標惑星を確認』
船団旗艦の中央管制室に、惑星の映像が映し出された。
青い。
地球ほどではないが、確かに海がある。
大陸もある。
雲もある。
だが、大気組成は人間がそのまま呼吸できるものではない。
それでも十分だった。
「本当にあった……」
覚醒した船団司令官が呟いた。
隣にいた女性技術者が笑った。
「最初から分かっていたでしょう」
「分かっているのと、見るのは違う」
地球から六十三光年。
もう帰ることは考えていない。
ここが、人類の新しい故郷になる。
「テラフォーミング計画を開始する」
『承認を確認』
無数の無人機が移民船から射出された。
大気へ。
海へ。
大地へ。
環境改造用ナノマシン。
人工微生物。
遺伝子設計植物。
大気組成調整装置。
軌道上には巨大な太陽光制御設備が展開される。
人類が地球で積み上げてきた科学技術が、一つの惑星へ投入された。
人間たちは再び眠った。
今度は、それほど長くはない。
機械が世界を作る時間だけ待てばよかった。
◇
二百八十七年後。
最初の人間が惑星の地表へ降り立った。
ヘルメットは必要なかった。
男は輸送艇のハッチから外へ出ると、しばらく動かなかった。
風が吹いていた。
草が揺れている。
地球由来の植物だった。
遠くには若い森林が広がっている。
空は青かった。
男はゆっくりと呼吸した。
酸素が肺へ入る。
「……吸える」
誰かが笑った。
別の誰かが泣いた。
次々と人間が輸送艇から降りてくる。
ある者は大地へ膝をついた。
ある者は土を握った。
ある者は空を見上げた。
「着いた」
その言葉が何度も聞こえた。
「本当に着いた」
地球を離れた人類は、新しい世界へ辿り着いた。
計画は成功した。
◇
最初の都市は、海に近い平原へ建設された。
名称は《ニュー・テラ》。
人口一万二千。
その周囲に農業区画が作られ、発電施設が建設され、道路が伸びた。
十年後には第二都市。
二十七年後には第三都市。
百年後には大陸を横断する交通網が完成した。
人口も増えた。
三十一万人だった人類は、百年後には二百万人を超えた。
二百年後。
一千七百万人。
三百年後。
八千万人。
新しい惑星で生まれた人間にとって、地球はもう故郷ではなかった。
教科書の中にある遠い惑星。
人類が生まれた場所。
そして、人類が失敗した場所だった。
◇
「地球では、国家間の対立によって多くの戦争が発生しました」
教室で教師が話していた。
窓の外には高層建築が並んでいる。
「資源、領土、宗教、民族、思想。人類は様々な理由を作って互いに争いました」
子供たちは静かに聞いている。
壁面には、地球最後期の映像が表示されていた。
汚染された海。
放棄された都市。
戦争。
環境破壊。
「私たちの祖先は、そこから逃げてきたのです」
一人の子供が手を挙げた。
「先生」
「はい」
「私たちは同じことをしないんですか?」
教師は微笑んだ。
「そのために歴史を学ぶのです」
「地球の人も歴史を勉強してたんですよね?」
教師は一瞬だけ黙った。
「……もちろんです」
「じゃあ、なんで戦争したんですか?」
教室が静かになった。
教師は少し考えてから答えた。
「人間は、過去を知るだけでは同じ失敗を防げないからです」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「考え続けることです。そして、対話を諦めないこと」
子供は頷いた。
その少年が四十二歳になった年。
この惑星で最初の戦争が始まった。
◇
原因は水だった。
正確には、大陸中央部を流れる巨大河川の水資源管理権。
人口増加によって上流域の都市が取水量を増やした。
下流域の農業地帯で水不足が発生する。
交渉が始まった。
双方とも戦争など望んでいなかった。
少なくとも、最初は。
上流側は主張した。
自国領内を流れる水を利用する権利がある。
下流側は反論した。
河川は人類全体の資源であり、一国家が独占すべきではない。
会議。
決裂。
再交渉。
制裁。
報復制裁。
国境付近で小さな衝突が起きた。
兵士一名死亡。
翌日、三名死亡。
一週間後、二十七名。
そして一か月後。
人類は新しい惑星で、初めて本格的に人間を殺した。
戦争は十一日間で終わった。
死者百八十四名。
地球の歴史から見れば、小さな戦争だった。
停戦協定が結ばれた。
各国の指導者は共同声明を発表した。
『我々は地球の悲劇を繰り返さない』
人々は安心した。
人類は学んでいる。
今回は止められた。
地球とは違う。
そう信じた。
◇
四十六年後。
第二次大陸戦争。
死者十二万人。
さらに七十三年後。
第三次大陸戦争。
死者二百七十万人。
国家は増えていた。
人口も増えていた。
思想も増えていた。
地球から持ち込まれた文化は、それぞれの土地で変化していた。
人々は自分たちを、もはや移民とは呼ばなかった。
この星で生まれた者が大多数になっていたからだ。
地球は遠い。
あまりにも遠い。
古代の失敗だった。
◇
移民成功から五百二十一年。
惑星人口は二十一億人を超えていた。
十五の国家。
三つの巨大経済圏。
二つの軍事同盟。
そして、どの国も同じことを言っていた。
戦争を防ぐためには抑止力が必要だ。
地球から持ち込まれた技術が軍事転用された。
自律型戦闘機械。
遺伝子兵器。
ナノマシン兵器。
軌道攻撃設備。
人工重力技術。
人類は、それらを一から発明する必要がなかった。
設計思想も、基礎理論も、過去の研究資料も残っていた。
石器から始める必要はない。
火薬を発明する必要もない。
産業革命を待つ必要もない。
核物理学を発見する必要さえない。
地球が何千年もかけて辿り着いた場所から、彼らの文明は始まっていた。
だから。
滅びるために必要な時間も、短かった。
◇
最終戦争が始まった理由について、後世の歴史家が議論することはなかった。
後世そのものが存在しなかったからだ。
発端は、一つの国家による農業ナノマシンへの攻撃だった。
敵対国の食料生産能力を一時的に低下させる。
目的はそれだけだった。
人間を直接殺す兵器ではない。
農作物の成長を管理しているナノマシン群へ侵入し、機能を停止させる。
死者を出さずに敵国を屈服させる。
攻撃を決定した者たちは、むしろ人道的な兵器だと考えていた。
作戦は成功した。
敵国の穀物生産量が急落した。
報復が行われた。
攻撃対象は水質管理システム。
さらに報復。
大気管理設備。
報復。
海洋微生物制御システム。
報復。
気象制御衛星。
やがて誰も止められなくなった。
この惑星は自然に人間が住める世界ではなかった。
人類が作った世界だった。
大気。
海。
森林。
農地。
微生物。
そのすべてが、数百年前に作られた巨大な環境システムの上に成立していた。
人類は敵国を攻撃しているつもりだった。
実際には、自分たちが立っている地面そのものを攻撃していた。
◇
『大気管理ネットワーク、三十七パーセント停止』
『海洋酸素循環異常』
『北部穀倉地帯、生産能力十二パーセント』
『環境ナノ群に制御不能領域を確認』
各国政府は戦争を停止しようとした。
遅かった。
破壊されたシステム同士が互いに影響を与え始めていた。
地球で起きたことと、よく似ていた。
だが地球より速かった。
この惑星の生態系は若かった。
人間によって設計され、人間によって維持されてきた。
何億年もの変化を生き抜いてきた地球の生態系ほど強くない。
一つが崩れる。
別の一つが崩れる。
それを補うシステムも、戦争で破壊されている。
停戦協定が結ばれた頃には、もう戦争が最大の問題ではなくなっていた。
◇
移民成功から五百八十九年。
人口二十一億から十一億。
五百九十三年。
六億。
五百九十七年。
一億八千万。
国家間の戦争は完全に終わっていた。
もう戦っている余裕がなかった。
かつて敵だった国々が技術を共有した。
食料を共有した。
残された環境制御設備を共同で修復した。
人類は初めて、本当の意味で一つになった。
遅すぎた。
◇
六百四年。
人口九百万人。
六百八年。
七十六万人。
六百十一年。
一万八千人。
最後の都市では、残された人々が地下施設へ移動していた。
地表の大気は、人間が長期間活動できる状態ではなくなっている。
食料生産設備も限界だった。
一人の老人が地下施設の窓から外を見ていた。
青かった空は、もう青くない。
遠くに巨大な都市が見える。
誰も住んでいない。
老人の隣に、小さな少女が立っていた。
「おじいちゃん」
「ん?」
「地球って、どんなところだったの?」
老人は少し笑った。
「私も知らないよ」
「行ったことないの?」
「誰もないさ。ここにいる人間は、みんなこの星で生まれた」
「じゃあ、なんで知ってるの?」
「記録が残っているからだ」
少女は外を見る。
「地球も、こんなふうになったの?」
老人は答えなかった。
「学校で習ったよ。人間が地球を壊したって」
「……そうだね」
「じゃあ私たちは?」
老人は目を閉じた。
遠くで環境警報が鳴っている。
「同じだったの?」
長い沈黙の後。
老人は答えた。
「たぶんね」
少女はしばらく考えていた。
「じゃあ、なんで地球を出たの?」
老人には、その問いに答える言葉がなかった。
◇
移民成功から六百十三年。
惑星管理システムは、最後まで動き続けていた。
『居住人口を確認』
三百二十一。
一週間後。
百九。
さらに十二日。
二十八。
四。
一。
そして。
『居住人口を確認』
『ゼロ』
管理システムは処理を続けた。
命令された通りに。
人間がいなくなったことは、任務終了を意味しない。
環境を監視する。
設備を維持する。
記録を保存する。
それが与えられた役割だった。
やがて管理システムは、六百年以上前に作成された移民計画の評価項目を読み込んだ。
『最終評価処理を開始』
『目的恒星系への到達』
『成功』
『目的惑星への船団到達』
『成功』
『惑星環境改造』
『成功』
『人類の地表入植』
『成功』
『出生による人口再生産』
『成功』
『恒久的居住都市の建設』
『成功』
処理が続く。
『恒星間移民計画』
僅かな演算時間。
『成功』
誰も、その判定を見る者はいなかった。
都市は残っていた。
道路も残っていた。
軌道上には、壊れた人工衛星がいくつも漂っている。
海では、人間が作った生物が泳いでいた。
森林にも生命は残っていた。
人類だけがいなかった。
それでも。
移民は成功していた。
◇
それから遥か彼方。
四千年以上の時間を経て、《アマテラス》から目覚めた人類はEDENと名付けた惑星で生きていた。
彼らは知らない。
地球から旅立った別の人類が、目的地へ辿り着いていたことを。
新しい世界を作ったことを。
二十一億まで増えたことを。
再び国家を作り、再び争い、再び自分たちの世界を壊したことを。
そして、自分たちより遥か昔に滅びていたことを。
EDENの人類がその事実を知ることはない。
ホープ船団の人類もまた、アマテラスが生き延びたことを知らなかった。
二つの人類は六十三光年よりも遥かに遠く離れた場所で、それぞれの歴史を歩んだ。
一方は、すべてが予定通りだった。
一方は、何もかも予定通りにはいかなかった。
どちらが成功だったのか。
それを判定する人間は、もうホープ船団の惑星には残っていなかった。
――第七十八話 もうひとつの移民団 了




