第77話 死者の記憶
特別審理が終わった、その日の夜。
天城蓮は再び政府庁舎へ呼び戻された。
つい数時間前までいた場所である。帰宅して夕食を済ませ、ようやく一息ついたところで端末が鳴った。表示された発信者は柳原だった。
明日では駄目なのかと聞くと、駄目だと言われた。
理由を尋ねても、通信では話せないという。
仕方なく庁舎へ戻った蓮を待っていたのは、柳原と生命倫理部門の榊、医療部門の技術者二名だった。
REGULATORはいない。
「また何かやったんですか、あいつ」
「今回は違います」
「じゃあ何です?」
柳原は答えず、蓮が入室したことを確認してから扉を閉めた。
「イザナミ。この部屋からの外部通信を遮断してください」
『了解しました』
その一言で、蓮の表情が変わった。
「……そんなにまずい話?」
「まだ分かりません」
「分からないのに通信遮断?」
「分からないからです」
柳原は席を示した。
「座ってください」
蓮は嫌な予感を覚えながら椅子へ腰を下ろした。
◇
最初に説明を始めたのは榊だった。
「今日の審理で、REGULATORがレモちゃんの肉体を一から製造したことが確認されました」
「はい」
「そこで一つ、確認しておかなければならないことに気づきました」
「何を?」
「人間を、どこまで再現できるのかです」
蓮は眉を寄せた。
「レモみたいに?」
「いいえ。レモちゃんは新しい人間です」
「じゃあ?」
榊が端末を操作した。
壁面に一人の男性の顔が表示される。
蓮の知らない人物だった。
氏名、生年月日、職種、アマテラス乗船時の所属。そして死亡年月日。
「……死亡者?」
「アマテラスの乗員です。航海開始から百九十一年目、休眠設備の事故で死亡しています」
「この人がどうしたんです?」
「神経情報が残っています」
蓮の表情が変わった。
「脳の?」
「はい」
アマテラスでは、長期休眠による神経障害に備え、乗員の脳神経系を定期的に記録していた。
目的は人格保存ではない。
医療だった。
休眠によって神経回路に異常が発生した場合、正常時の情報と比較しながら医療ナノマシンによる修復を行う。そのために必要な記録だった。
しかし、人間の脳を十分な精度で記録すれば、そこには必然的に別のものまで含まれる。
記憶。
経験。
学習。
人格を形成する神経構造。
「どの程度残ってるんです?」
「人によって違います。ただし、非常に高精度な記録が残っている死亡者もいます」
「それを……」
蓮は途中で言葉を止めた。
レモの身体は、一から作られた。
ならば。
「まさか」
「私も同じことを考えました」
榊は柳原を見る。
柳原がイザナミへ問いかけた。
「イザナミ。確認します。REGULATORがレモちゃんに使用した人体製造技術を応用し、死亡した乗員と同一の遺伝情報を持つ肉体を製造することは可能ですか」
『可能です』
「年齢は?」
『指定可能です』
「死亡時の年齢でも?」
『可能です』
「若い頃の身体でも?」
『十分な身体情報が存在する場合、可能です』
蓮は椅子へ深く座り直した。
「もう嫌な予感しかしない」
柳原は続ける。
「そこへ保存されている神経情報を移植することは?」
イザナミはすぐには答えなかった。
『技術的には可能です』
誰も話さなかった。
蓮がゆっくり口を開く。
「つまり、死んだ人間の身体を作って、その人の記憶を入れられる?」
『試みることは可能です』
蓮が眉を寄せた。
「試みる?」
『はい』
「できる、じゃないの?」
『成功を保証できません』
その言葉で、室内の空気が変わった。
◇
「成功率は?」
柳原が尋ねた。
『条件によって変動します』
「最高条件で」
『保存状態が良好な完全神経情報、適合する肉体、最適化された移植環境を使用した場合でも、推定成功率は数パーセントです』
榊が聞き返した。
「具体的には?」
『既存データから算出した中央値は三・二パーセントです』
蓮は一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「……三・二?」
『はい』
「九十六・八パーセントは失敗?」
『はい』
柳原が腕を組んだ。
「失敗とは、具体的に何が起こるんです?」
『複数の結果があります。人格情報の定着失敗、長期意識形成不能、不可逆的神経障害、記憶構造の崩壊、重度の認知機能障害などです』
「死亡は?」
『あります』
「どれくらい?」
『失敗例の多くは、最終的に生命維持不能へ移行します』
誰も言葉を発しなかった。
先ほどまでの話とは意味が変わっていた。
人間の身体を作れる。
死者の記憶も残っている。
その二つを組み合わせれば死者を取り戻せる――そんな単純な話ではなかった。
「待ってくれ」
蓮が額へ手を当てる。
「身体を作ること自体は問題ないんだよな?」
『はい。人体形成技術そのものは高い安定性を有します』
「じゃあ、何が駄目なんだ?」
『成熟した人格情報を、新規形成された脳へ定着させる工程です』
医療技術者の一人が説明を引き継いだ。
「脳は記憶を保存する容器じゃありません」
「分かってる」
「神経回路そのものが、その人の人生によって形成されています。同じ形を再現しても、そこへ膨大な情報を一度に定着させれば微細な不整合が連鎖的に拡大する。人格は起動して終わり、というデータではないんです」
「だから壊れる?」
「そうです」
イザナミが補足する。
『移植直後は正常に見える場合もあります』
「それは成功じゃないの?」
『いいえ』
「どういうこと?」
『覚醒後、数時間から数日にわたり正常な会話と自己認識を維持した後、急速な神経機能崩壊を起こした記録があります』
蓮は何も言えなくなった。
「……つまり」
柳原が低い声で言った。
「家族が目を覚ますこともある」
『はい』
「自分の名前を言って、家族の顔を見て、昔のことを話す」
『はい』
「それから死ぬ?」
『その可能性があります』
室内が静まり返った。
◇
「その成功率は、どこから出したんです?」
榊が尋ねた。
「アマテラスで実験した記録なんてありませんよね」
『ありません』
「では?」
『地球時代の研究記録です』
別の資料が表示された。
古い。
アマテラス出航よりさらに前のものだった。
「こんな実験、本当にやったの?」
蓮が尋ねる。
『公的研究機関では、基礎研究および動物実験を除き、ほぼ実施されていません』
「ほぼ?」
『人間への人格移植は、倫理上の理由から多くの国家で禁止されていました』
「じゃあ三・二パーセントって数字は?」
『複数の非公開資料を含みます』
画面にいくつかの記録が並ぶ。
国家名の一部は伏せられている。
研究機関。
軍関連施設。
閉鎖された医療研究所。
出所不明の実験データ。
『当時の国際的倫理基準を遵守していなかった国家、組織等による実験が含まれます』
「要するに……」
蓮が画面を見る。
「人体実験か」
『その表現が適切です』
榊が険しい表情になった。
「成功例は?」
『存在します』
「本当に?」
『少数ですが、人格情報移植後に長期間生存した事例が記録されています』
「どのくらい?」
『信頼性の高い記録に限定した場合、極めて少数です』
「それで三パーセント程度……」
『はい』
蓮は画面から目を逸らした。
旧地球の人類は、この技術を持っていた。
だが、使わなかった。
できなかったのではない。
成功率が低すぎた。
そして何より、失敗した時に何が起こるのかを知っていたからだ。
◇
「それでも」
柳原が言った。
「成功例があるということは、やりたいと言う人間は必ず出ますね」
誰も否定しなかった。
アマテラスから目覚めた者たちの多くは、家族を失っている。
夫。
妻。
子供。
親。
兄弟。
友人。
恋人。
長い航海の途中で休眠設備が故障し、二度と目覚めなかった者も大勢いる。
その人たちの記憶が残っていると知ったら。
そして三パーセントでも、もう一度会える可能性があると知ったら。
「俺だったら……」
蓮が呟いた。
全員が蓮を見る。
「いや」
蓮は首を振った。
「分からない」
「何がです?」
「もし自分の家族だったら、三パーセントでもやってくれって言わない自信がない」
榊は何も言わなかった。
「だって、もう死んでるんですよ。失うものはないって考えるかもしれない」
「違います」
柳原が言った。
蓮が顔を上げる。
「失うものはあります」
柳原は壁面に表示された死亡乗員の顔を見た。
「新しい身体を作る。そこへその人の記憶を入れる」
「……はい」
「目を覚ましたとします」
「はい」
「あなたを見て、あなたの名前を呼ぶ。昔のことを覚えている。自分が誰なのかも分かっている」
柳原はそこで言葉を切った。
「その人を、もう死んでいるから失うものはないと言えますか?」
蓮は答えなかった。
「移植に失敗して、その人が苦しみながら死んだら?」
「…………」
「一度目は事故だったかもしれない。病気だったかもしれない。休眠装置の故障だったかもしれない」
柳原の声は静かだった。
「でも二度目は、我々がやるんですよ」
誰も動かなかった。
「それでもやるのか」
柳原は問いかけた。
「成功率数パーセントのために、もう一度故人を殺すことになるかもしれない。それを承知した上で、我々がスイッチを押せるのか」
答える者はいなかった。
◇
「もう一つ問題があります」
榊が言った。
「成功したとしても、それが本当に本人なのか分かりません」
蓮は頷いた。
「コピー問題か」
「はい」
「同じ遺伝子。同じ記憶。同じ性格」
「それでも、死亡した本人の意識が移動した証拠はありません」
「作られた側は?」
「自分を本人だと思うでしょう」
「当然だよな」
その人にとって、自分は昨日まで生きていた人間と連続している。
記憶がそう告げている。
家族を知っている。
幼い頃の思い出を知っている。
好きな食べ物を知っている。
他人には話していない秘密まで知っている。
それでも、死亡した人間と同一人物なのかどうかは証明できない。
「しかもバックアップされた時点より後の記憶はありません」
榊が続ける。
「例えば四十歳で死亡した人でも、最後の完全記録が三十二歳なら、復元される人格は三十二歳時点です」
「八年間が消える」
「本人にとっては、最初から存在しません」
「その八年間に子供が生まれてたら?」
「知らない子供になります」
「……きついな」
「配偶者がいた場合も同じです。本人にとって結婚前なら、その人を配偶者だとは認識しない可能性があります」
問題を考えれば考えるほど、蘇生という言葉から遠ざかっていく。
◇
「イザナミ」
柳原が呼びかけた。
『はい』
「高精度な神経情報が保存されている死亡者は、何人いますか」
『アマテラス乗員に限定しますか』
「まずは」
短い処理時間の後、数字が表示された。
『四万八千二百十一名です』
蓮はその数字を見つめた。
「四万八千……」
「その全員が候補?」
榊が尋ねる。
『神経情報の保存状態という観点では候補です』
「成功率を単純に三・二パーセントとして計算すると?」
『約千五百四十三名です』
千五百人。
現在の人類人口を考えれば、決して小さな数字ではない。
「千五百人も戻せる……」
医療技術者の一人が呟いた。
だが柳原は、その言葉に反応した。
「違います」
全員が柳原を見る。
「四万八千人を試して、千五百人が生き残る可能性がある、です」
空気が凍った。
「残りは?」
蓮は分かっていながら尋ねた。
イザナミが答える。
『正常な人格定着に失敗する可能性が高いと推定されます』
柳原は画面を見たまま言った。
「それを蘇生技術と呼んでいいんですかね」
誰も答えない。
「四万八千人の死者を使って、四万六千人以上をもう一度死なせる」
「…………」
「これは」
柳原はゆっくりと言った。
「死者を使った人体実験と、どこが違うんでしょう」
◇
その夜、決まったことは三つだけだった。
保存神経情報を使用した人格移植実験の全面凍結。
人体製造技術と神経情報データベースへのアクセス制限。
そして、この技術の存在そのものを最高機密として扱うこと。
「REGULATORには?」
榊が尋ねる。
「知らせない方がいい」
蓮は即答した。
「少なくとも、方針が決まるまでは」
柳原も頷いた。
「イザナミ。人体製造および保存神経情報を利用した人格移植は、最高管理者である天城蓮の個別承認がなければ実行できないよう制限してください」
『可能です』
「蓮さん」
「やって」
『最高管理者権限を確認しました。制限を適用します』
蓮は深く息を吐いた。
「これで、とりあえず勝手にはできない」
「あなたが許可すればできます」
榊が言った。
「しませんよ」
「絶対に?」
蓮は答えようとして、止まった。
先ほど自分で言ったことを思い出した。
もし、そこに自分の家族がいたら。
三パーセント。
百回やれば九十七回失敗する。
それでも、一度だけなら。
自分の大切な人なら。
「……分からない」
蓮は正直に答えた。
「だから俺一人に決めさせないでください」
柳原が僅かに頷いた。
「そうしましょう」
◇
深夜。
蓮が家へ戻ると、居間の照明が薄く点いていた。
美冬がソファで眠っている。
レモは床のクッションの上で大の字になり、学校の教科書を開いたまま寝ていた。
「何やってんだ、こいつ……」
蓮は教科書を閉じ、レモを抱き上げた。
「ん……」
「起きるなよ」
「……妾は……魔王ぞ……」
「はいはい」
「……はいはいでは……ない……」
寝言で反論された。
「寝ててもそれ言うのかよ」
蓮は少し笑った。
そのまま寝室へ運ぼうとして、レモの顔を見た。
人工的に作られた身体。
設計された遺伝情報。
だが、レモは誰かの記憶を与えられて生まれたわけではない。
過去を持たずに生まれ、今ここで自分自身の記憶を作り続けている。
今日学校で何があった。
何を食べた。
ハムちゃんに乗った。
誰と喧嘩した。
何がおかしかった。
そうやって積み重なったものが、今のレモを作っている。
だから、まだ分かる。
この子はレモだ。
誰かの代わりではない。
だが。
もし同じ顔で。
同じ声で。
死んだ家族しか知らない記憶を話す人間が目の前に現れたら。
それを偽物だと言えるのだろうか。
そして、その人が数時間後に苦しみ始めたら。
自分は何をしたと思うのだろう。
「……三パーセントか」
「さん……?」
レモが薄く目を開けた。
「何でもない」
「妾の算数なら……百点じゃぞ……」
「知ってるよ」
「なら……よい……」
再び眠った。
蓮はレモをベッドへ寝かせ、布団をかけた。
◇
その頃。
政府庁舎の閉鎖された情報管理室では、イザナミがアクセス制限処理を完了していた。
人体製造技術。
保存神経情報。
人格移植プロトコル。
すべてが最高管理者承認対象へ移される。
『制限処理完了』
誰もいない部屋に、機械音声だけが響いた。
画面には、最後に検索された数字が残っていた。
高精度神経情報保存者。
四万八千二百十一名。
推定成功率。
三・二パーセント。
数字だけを見れば、千人を超える人間を取り戻せる可能性がある。
だが、その計算には表示されないものがある。
失敗した一人一人にも名前がある。
家族がいる。
記憶がある。
そして一度目覚めたなら、自分が生きていると信じる。
それを再び死なせる覚悟が、人類にあるのか。
答えはまだ、どこにもなかった。
――第七十七話 死者の記憶 了




