第73話 ハムちゃんなのじゃ!
人類自治政府が、中央広場に住み着いたドラゴンについて正式な方針を定めてから、かなりの時間が過ぎた。
ドラゴンは今もいる。
政府が決めたことなど知る由もなく、以前と変わらず中央広場の一角を寝床にしていた。腹が減れば山へ飛び、自分で獲物を捕らえる。水が欲しければ川や湖へ行く。排泄も居住区から離れた山中で済ませているらしく、広場を汚すこともない。
そして用が済めば帰ってくる。
今では巨大なドラゴンが広場で寝ている光景を見て、わざわざ足を止める者も少なくなった。
子供たちは一定の距離を保って遊び、人間もエルフもその横を普通に通り過ぎる。
政府が掲示した注意事項も、すっかり街の日常へ溶け込んでいた。
――餌を与えないこと。
――睡眠中に触れないこと。
――不用意に接近しないこと。
――騎乗を試みないこと。
その最後の一項が、まもなく何の役にも立たなくなることを、この時はまだ誰も知らなかった。
◇
「…………」
学校帰りのレモは、中央広場の入口で完全に動きを止めていた。
その隣では蓮が歩みを止め、何事かと振り返っている。
「どうした?」
「…………」
「レモ?」
返事がない。
レモは広場の中央を凝視していた。
そこには巨大なドラゴンがいる。
身体を丸め、前脚の上に頭を乗せて眠っている。翼は身体に沿って畳まれ、長い尾が広場の端まで伸びていた。
レモの目が、見る見る輝いていく。
「おおおおおおおおおお……!」
「何?」
「レン!」
「はい」
「ドラゴンなのじゃ!」
「うん」
「ドラゴンなのじゃ!!」
「そうだね」
レモが勢いよく蓮を振り返った。
「なぜそんなに落ち着いておる!?」
「ずっといるから」
「ずっと!?」
「俺たちがここに住み始めてから、わりと早い時期に居着いたんだよ」
「なぜ妾に教えなかった!」
「いや……」
蓮は困った。
教える必要があるとは思っていなかった。
広場にドラゴンがいる。
今となっては、蓮にとってその程度の認識しかない。
「普通にいるから」
「普通にドラゴンがいてたまるか!」
「レモが一番まともなこと言ってる……」
レモはもう蓮の話など聞いていなかった。
ドラゴンへ向かって歩き出す。
「おい」
止まらない。
「レモ」
さらに進む。
「近づくなって決まりが――」
「決めたのじゃ!」
レモが振り返った。
「何を?」
「こやつを妾の下僕にする!」
「駄目」
「なぜじゃ!」
「そいつ誰のものでもないから」
「ならば好都合ではないか!」
「そういう意味じゃない!」
蓮はレモを追いかけた。
◇
ドラゴンはまだ寝ていた。
レモは巨大な頭の前まで来ると、腰に両手を当てた。
「おぬし!」
「レモ、やめろって」
「起きるのじゃ!」
「寝かせとけよ」
「魔王が来たのじゃぞ!」
「知らないよ、そんなの」
「無礼者め!」
レモが巨大な鼻先を叩こうとする。
蓮が慌てて腕を掴んだ。
「それはやめろ」
「なぜじゃ」
「寝てるドラゴン叩くな」
「起こすだけじゃ」
「起きた時に機嫌悪かったらどうすんだよ」
「妾に牙を剥くというのか?」
「野生のドラゴンだぞ」
「ならばなおさら、どちらが上か教えねばならぬ」
「十歳児が何言ってんだ」
その時だった。
ドラゴンの片目が開いた。
「…………」
「…………」
巨大な瞳と、レモの目が合った。
蓮が身構える。
レモは動かなかった。
恐怖しているわけではない。
むしろ嬉しそうだった。
「起きたか!」
ドラゴンが鼻先を僅かに持ち上げる。
レモへ近づけた。
巨大な鼻孔が動く。
「ふふん」
レモが胸を張った。
「妾の偉大さに気づいたようじゃな」
「匂い嗅いでるだけじゃない?」
「違う!」
ドラゴンがもう一度レモの匂いを嗅ぐ。
蓮は少し不思議に思った。
普段のドラゴンなら、人間がこれほど近づけば距離を取るか、低い唸り声で警告する。
ところが今日は違う。
明らかにレモへ興味を示していた。
「おぬし」
レモが鼻先へ手を伸ばした。
「今日より妾の下僕になるのじゃ」
「グルル……」
「よし!」
「何がよしなんだよ」
「了承した」
「してないだろ」
「した!」
「今の唸り声だけで?」
「妾には分かる!」
「絶対分かってない」
レモは巨大な鼻先を撫で始めた。
ドラゴンは嫌がらない。
それどころか、僅かに頭を下げた。
「ほれ見よ!」
「……珍しいな」
「完全に服従しておる!」
「それは違うと思う」
だが、蓮も少し気になった。
レモが触れている場所。
そこに存在するナノの動きが、普段とは僅かに違うように感じられた。
◇
「何をしておる?」
レモがドラゴンの横へ回った。
「何って?」
「どうやって飛ぶのじゃ」
「翼と重力制御」
「重力制御?」
「こいつら、飛行するときナノを使って身体にかかる重力を制御するんだよ。翼だけでこの巨体を飛ばすのは効率悪いから」
「ほう」
レモはドラゴンを見上げた。
「おぬしもナノを使うのか」
「グルル……」
「妾と同じじゃな!」
「同じではないと思うけど」
レモがドラゴンの首へ手を当てた。
その瞬間。
蓮が眉を寄せた。
「ん?」
何かが動いた。
レモのナノ。
そしてドラゴンのナノ。
両者が触れた瞬間、互いを探るように微細な反応が起きている。
「レモ、ちょっと待て」
「何じゃ?」
「今、何かした?」
「何もしておらぬ」
「ナノは?」
「知らぬ」
「知らぬって……」
レモはREGULATORによって造られた。
身体能力。
知能。
ナノ操作能力。
あらゆる面で、必要以上と言っていいほど能力を与えられている。
本人が意識していない領域ですら、ナノを扱っている可能性がある。
蓮が考えている間に、レモはドラゴンの前脚へ足をかけた。
「よいしょ」
「おい」
「よいしょ」
「レモ?」
登っている。
「おい、待て」
「動くでないぞ」
「待てって!」
レモは鱗の隙間を器用に使い、ドラゴンの身体を登っていく。
ドラゴンは止めない。
首の根元まで到達した。
そこは巨大な翼の付け根より少し前。
レモはちょうど跨がれる場所を見つけ、そこへ座った。
「ふむ」
「ふむ、じゃない!」
蓮が叫んだ。
「降りろ!」
「なぜじゃ?」
「政府が騎乗禁止って決めてるんだよ!」
「妾は政府に乗っておらぬ。ドラゴンに乗っておる」
「そういう意味じゃない!」
「それに、こやつが嫌がっておらぬ」
「だからって――」
ドラゴンが立ち上がった。
蓮の顔色が変わった。
「レモ、降りろ!」
「おお!」
ドラゴンが翼を広げる。
「待て待て待て!」
巨大な翼が振り下ろされた。
突風が広場を駆け抜ける。
「うわっ!」
蓮が腕で顔を庇う。
周囲にいた人々も慌てて距離を取った。
ドラゴンの巨体が浮く。
「レモ!」
「ふははははは!」
レモを乗せたまま、ドラゴンは空へ舞い上がった。
◇
「うひゃああああああ!」
レモの歓声が空に響いた。
怖がっているのではない。
喜んでいる。
「高いのじゃ! レンが小さいのじゃ!」
「降りてこーい!」
地上で蓮が叫んでいる。
「聞こえぬのじゃー!」
「絶対聞こえてるだろ!」
ドラゴンが旋回する。
巨体が大きく傾いた。
蓮の顔から血の気が引く。
だがレモは落ちない。
「…………?」
おかしい。
鞍もない。
命綱もない。
レモは首の付け根に跨がっているだけだ。
それなのに身体がほとんど振られていない。
ドラゴンがさらに高度を上げる。
加速。
旋回。
降下。
それでも落ちない。
まるでレモの身体まで含めて、一つの飛行体になっているかのようだった。
「イザナミ」
蓮が呼びかける。
『はい』
「あれ、どうなってる?」
『観測しています』
「なんで落ちない?」
短い間があった。
『ドラゴンの飛行制御と、レモちゃんのナノ制御との間に同期現象が発生しています』
「同期?」
『はい。ドラゴンは飛行時、重力制御によって自身の巨体へかかる負荷を軽減しています。その制御領域にレモちゃんが組み込まれているようです』
「組み込まれてる?」
『簡潔に表現すれば、ドラゴン側がレモちゃんを自身の一部に近い対象として姿勢制御しています』
「そんなことできるの?」
『通常は想定されていません』
「じゃあ、なんで?」
『レモちゃん側のナノ操作能力が極めて高いため、双方の制御系が偶発的に適応した可能性があります』
「REGULATOR……あいつ、どれだけ盛ったんだよ」
『相当に』
「だろうな……」
空を見上げる。
レモは楽しそうだった。
「もっと速くなのじゃ!」
「グオオオオオッ!」
ドラゴンが応える。
「おい!」
さらに加速した。
「速くしなくていい!」
◇
レモはドラゴンの首を軽く叩いた。
「おぬし、なかなかやるではないか!」
「グルル……」
「気に入ったぞ!」
ドラゴンが大きく旋回する。
レモは空を見渡した。
眼下には人間居住区が広がっている。
その向こうには森。
さらに遠くには山々。
「素晴らしいのじゃ!」
レモが立ち上がった。
「座れぇぇぇ!」
遥か下から蓮の声が聞こえた気がした。
「大丈夫じゃ!」
大丈夫ではない。
しかし実際、落ちる気配はなかった。
レモは空を見上げた。
そして、何かを思いついた。
「おぬし」
ドラゴンの首を軽く叩く。
「ブレスを吐けるのであろう?」
ドラゴンが僅かに首を動かした。
「やってみるのじゃ!」
レモが真上を指差す。
「あそこじゃ!」
ドラゴンが頭を上げた。
◇
地上の蓮が異変に気づいた。
「……ん?」
ドラゴンの口元に光が集まり始めている。
「おい」
蓮の表情が変わった。
「レモ!」
光が強くなる。
「それは駄目だ!」
レモは空を指差したまま叫んだ。
「撃てぇぇぇぇぇっ!」
「レモォォォォッ!」
轟音。
ドラゴンの口から猛烈な光が放たれた。
ブレスは完全に上空へ向けられていた。
巨大な光の柱が空を貫く。
人間居住区の誰もが足を止めた。
人間も。
エルフも。
商人も。
子供も。
全員が空を見る。
その中心。
ドラゴンの首の上で、小さな少女が仁王立ちしていた。
「ふはははははははは!」
レモの高笑いが響く。
「見よ! これぞ魔王とその眷属の力なのじゃ!」
蓮は頭を抱えた。
「何やってんだ、あいつ……」
だが。
すぐに別のことへ気づいた。
「……今、指示したよな?」
『はい』
イザナミが答える。
「レモが上を指して、撃てって言った」
『確認しています』
「ドラゴンが理解した?」
『その可能性が極めて高いです』
「言葉を?」
『言語そのものを理解したとは限りません。レモちゃんの意思がナノ制御を介して伝達された可能性があります』
「意思まで?」
『少なくとも、方向と行動については正確に伝わっています』
「…………」
蓮は空を見上げた。
レモがドラゴンの首を撫でている。
「よくやったのじゃ!」
「グルルル……」
「……完全に仲良くなってるじゃん」
◇
それからしばらくして。
ドラゴンは中央広場へ戻ってきた。
翼を広げながらゆっくりと降下し、巨大な脚が地面につく。
レモは首の付け根から滑り降りた。
「ふはははは!」
「ふははじゃない!」
蓮が走ってきた。
「何考えてんだ!」
「楽しかったのじゃ!」
「危ないだろ!」
「一度も落ちなかったぞ?」
「結果論だ!」
「こやつが妾を落とすはずがなかろう」
「今日初めて会ったんだろ!」
「細かいことを気にする男じゃな」
「細かくない!」
レモは蓮を無視して、ドラゴンの鼻先へ向かった。
巨大な頭が下がる。
レモが撫でる。
「よしよし。よい下僕じゃ」
「グルルル……」
「……ほんとに懐いてるな」
「当然じゃ!」
レモは何かを考えるように腕を組んだ。
「そうじゃ」
「今度は何?」
「名前がない」
「ああ」
「いつまでもドラゴンでは不便じゃ」
「まあ、個体名はないな」
レモがドラゴンを見上げる。
「妾の第一の下僕に相応しい名が必要じゃ」
「第一の下僕になったの?」
「なった」
「いつ?」
「先ほどじゃ」
「勝手だなあ」
レモはしばらく考えた。
そして目を見開く。
「決めたぞ!」
胸を張る。
片手を高く掲げた。
「今日より、おぬしの名は――」
ドラゴンがレモを見る。
「バハムート・ディザスター・カタストロフィじゃ!」
「…………」
蓮は黙った。
ドラゴンも黙っている。
「どうじゃ!」
「長い」
「何を言う!」
「絶対呼びにくいだろ」
「魔王の第一の下僕なのじゃぞ! これくらいの威厳は必要じゃ!」
「毎回それ全部言うの?」
「言わぬ」
「え?」
レモは当然のようにドラゴンの鼻先を撫でた。
「普段は短くして、ハムちゃんと呼ぶのじゃ」
「どこをどう短くした!?」
「バハムートのハムじゃ」
「そこ取る!?」
レモはドラゴンへ向き直った。
「ハムちゃん!」
ドラゴンが顔を上げた。
「グルル……」
「ほれ!」
「嘘だろ」
「もう覚えたのじゃ!」
「偶然だろ」
「ハムちゃん!」
「グルル……」
「…………」
蓮が黙った。
「ハムちゃん!」
ドラゴンがまたレモを見る。
「覚えてるな……」
「当然じゃ!」
レモは満足そうに腰へ手を当てた。
「今日よりおぬしは、バハムート・ディザスター・カタストロフィ! 妾の第一の下僕、ハムちゃんじゃ!」
ドラゴン――ハムちゃんは、大きく喉を鳴らした。
◇
その日の夕方。
人類自治政府の庁舎では、一枚の報告書が柳原の前に置かれていた。
「…………」
柳原は読んだ。
もう一度読んだ。
そして顔を上げた。
「確認したいのだが」
「はい」
報告に来た職員が答える。
「以前、政府はこのドラゴンを誰の所有物とも認定しないと決定したはずだ」
「はい」
「騎乗も禁止した」
「はい」
「では、なぜ十歳の少女が乗っている?」
「ドラゴン側が自発的に乗せたようです」
「…………」
「少女が無理やり拘束したわけではありません」
「そういう問題なのか?」
「私にも分かりません」
柳原は報告書へ目を戻した。
「さらに、少女の合図に従ってブレスを発射した?」
「上空へ向けてですが」
「それは分かっている」
「飛行中も少女の指示にある程度従っていたようです」
「…………」
柳原が額を押さえた。
「蓮君は?」
「広場にいます」
「何をしている?」
「頭を抱えています」
「そうか」
珍しく気持ちが分かった。
柳原はさらに報告書を読む。
「それから、この個体名というのは?」
「少女が命名しました」
「バハムート……」
続きを読む。
「バハムート・ディザスター・カタストロフィ?」
「はい」
「これが正式名称だと?」
「本人はそう主張しています」
「本人というのは?」
「レモちゃんです」
「ドラゴンではなく?」
「はい」
「…………」
柳原は少し黙った。
「通称、ハムちゃん」
「はい」
「なぜ?」
「バハムートの『ハム』だそうです」
「…………」
長い沈黙が流れた。
「分かった」
柳原は報告書を置いた。
「当面、ハムちゃんでいい」
「正式記録もですか?」
「正式名称を毎回読むよりはいいでしょう」
「承知しました」
職員が退出する。
柳原は窓の外を見た。
中央広場。
巨大なドラゴンがいつもの場所で寝ている。
その鼻先に、小さな少女が座っていた。
何か話しかけている。
ドラゴンが時折、低く喉を鳴らして応えている。
かつて政府は二時間以上かけて、あのドラゴンを誰の所有物にもせず、自律した野生生物として扱うことを決めた。
それは今も変わっていない。
変わっていないはずなのだ。
だが。
「ハムちゃん! 明日はもっと遠くまで行くのじゃ!」
「グルルル……」
「約束じゃぞ!」
窓越しでも聞こえそうなほど元気な声が響いている。
柳原はしばらくその光景を眺めた。
「……まあ、本人同士が納得しているならいいのか」
言ってから、自分で疑問に思った。
本当にそれでいいのだろうか。
答えは出なかった。
ただ、その日を境に。
中央広場のドラゴンを「ドラゴン」と呼ぶ者は、少しずつ減っていった。
代わりに広まったのは、魔王を名乗る十歳の少女がつけた、あまりにも威厳のない愛称だった。
ハムちゃん。
そう呼べば、巨大なドラゴンは本当に振り向くようになった。
――第七十三話 ハムちゃんなのじゃ! 了




