第70話 山を下りた理由
セレネが人間居住区を訪れるのは、久しぶりのことだった。
これといって急ぎの用事があったわけではない。
山の集落と人類との交易は以前よりずっと盛んになり、必要な物資の多くは定期的に運ばれてくるようになった。薬も工具も、欲しいものがあればわざわざ自分で山を下りる必要はない。
それでも、その日の朝。
セレネは長弓を背負い、集落を出た。
理由ならあった。
人間の街がどう変わったのか見ておくのも悪くない。新しい道具が入っているかもしれないし、交易品を自分の目で確かめておくことも無駄ではない。
それに――。
「……しばらく会っていないな」
誰のことなのかは、口にしなかった。
◇
人間居住区は、以前よりさらに賑やかになっていた。
人間だけではない。エルフやダークエルフ、遠方から訪れた者たちが普通に通りを歩いている。人類の技術で建てられた建物の一階でエルフが商売をし、その向かいでは人間がエルフの工芸品を並べていた。
セレネはゆっくりと通りを歩いた。
珍しいものは多い。
見たことのない道具もある。新しい食べ物を扱う店も増えている。
だが、いつの間にか視線は商品ではなく、人の方へ向いていた。
向こうから黒髪の男が歩いてくる。
違う。
店から背格好の似た男が出てくる。
それも違う。
人混みの向こうに見覚えのある服装を見つけ、思わず目で追う。
やはり違った。
「…………」
セレネは立ち止まった。
私は何をしている。
別に蓮を探しに来たわけではない。
人間の街がどうなっているのか見に来ただけだ。
そう自分に言い聞かせ、再び歩き出した。
しばらくして、また黒髪の男を目で追った。
「…………」
今度は自分でも少し嫌になった。
◇
結局、本物を見つけたのは昼を過ぎた頃だった。
しかも向こうから歩いてきた。
「だから絶対、あの先に何かあるって」
「私もそう思う。前回は時間が足りなかっただけだ」
「食料は?」
「持った」
「照明は?」
「当然だ」
「よし。完璧」
二人の男が、妙に楽しそうに歩いてくる。
一人はアルベルト。
そして、もう一人。
セレネの足が止まった。
――いた。
そう思った瞬間、自分でも驚くほど胸の奥が軽くなった。
蓮はまだこちらに気づいていない。
「政府には?」
「言ってない」
「なぜだ?」
「言ったら止められるかもしれないだろ」
「なるほど」
「だろ?」
「合理的だ」
「お前、話が分かるな」
二人とも随分と楽しそうだった。
ろくでもないことを企んでいることだけは分かる。
セレネは思わず小さく笑った。
「レン」
「ん?」
蓮が振り向いた。
一瞬、目を丸くする。
「おお、セレネ!」
その声を聞いただけで、わざわざ山を下りてきたことが無駄ではなかったように思えた。
「久しぶりだな」
「ああ。ほんと久しぶり。どうしたんだ?」
「別に」
「別に?」
「人間の街がどうなっているか見に来ただけだ」
「そうなんだ」
「…………」
「…………」
それだけだった。
セレネはなぜか少しだけ腹が立った。
「お前は?」
「俺?」
「どこへ行く」
「ダンジョン」
即答だった。
やはり。
「前にアルベルトと見つけた場所があってさ。まだ奥があるっぽいんだよ」
「今日はそこを調べる」
アルベルトも妙に嬉しそうだった。
「そうか」
「セレネも来る?」
「行く」
蓮が瞬きをした。
「早いな」
「ちょうど暇だった」
「街を見に来たんじゃないの?」
「もう見た」
「全部?」
「見た」
アルベルトがセレネを見る。
次に蓮を見る。
何か言いかけたようだったが、結局何も言わなかった。
「じゃあ三人だな」
「ああ」
セレネは平然と答えた。
◇
ダンジョンは人間居住区からそれほど遠くない場所にあった。
以前から探索されている比較的浅いダンジョンだが、内部構造は複雑で、いまだに未探索区画がいくつも残っている。
蓮とアルベルトが目をつけたのは、その一つだった。
「ここ」
蓮が岩壁の隙間を指す。
人一人がようやく通れるほどの横穴だった。
「こんなところに入るのか?」
「だから面白いんだろ」
「理解できん」
「来たじゃん」
「暇だったからだ」
「はいはい」
セレネは蓮に続いて横穴へ入った。
奥は予想以上に広かった。
しばらく進むと、自然にできたとは思えないほど滑らかな通路へ出る。
「ほら!」
蓮が嬉しそうに声を上げた。
「絶対なんかあるだろ、これ」
「子供か、お前は」
「こういうの見つけたら楽しいだろ」
「まあ、それは分かる」
「分かるのか」
アルベルトが頷いた。
「だから私も来た」
「お前ら、似ているな」
「そう?」
「心外だ」
「アルベルト?」
「冗談だ」
三人はさらに奥へ進んだ。
◇
最初の襲撃は突然だった。
暗闇の奥で何かが動く。
セレネは蓮たちより早く長弓を構えていた。
弦を引く。
矢筒はない。
その必要もない。
開いた指の間に、ナノによって形成された矢が次々と現れる。
一本ではない。
五本。
セレネはそれらをまとめて長弓につがえた。
「来るぞ」
アルベルトが武器を構える。
暗闇から獣じみた生物が飛び出した。
五体。
セレネが弦を放す。
一度だけ弦が鳴った。
五本の矢が一斉に飛び、五体へ突き刺さる。
数体が即座に倒れ、残った個体が体勢を崩す。
セレネの手には、すでに次の矢が形成されていた。
一本。
二本。
三本。
長弓とは思えない速さで次々と放つ。
残った魔物が倒れるまで、ほとんど時間はかからなかった。
アルベルトが構えていた武器を下ろした。
「私の出番は?」
「遅い」
「いや、あれは無理だろう」
蓮が倒れた魔物を見る。
「相変わらずすげえな」
「これくらい普通だ」
「普通ではない」
アルベルトが言った。
「短弓で複数の矢を手に持ち、一本ずつ速射する者なら見たことがある」
「いるんだ」
「だが、長弓に五本まとめてつがえる奴は知らない」
「ここにいるぞ」
「だからお前がおかしいと言っている」
セレネが蓮を見る。
「レンに言われるよりは腹が立たないな」
「俺、何も言ってないだろ」
「顔が言っている」
「理不尽だな」
三人は再び奥へ進んだ。
◇
異変が起きたのは、それからしばらく後だった。
「……あれ?」
蓮が立ち止まった。
右手を開く。
握る。
もう一度開いた。
「どうした?」
セレネが尋ねる。
「いや……まただ」
「何が?」
「右手」
蓮は自分の右手を見ながら眉を寄せた。
「ナノの操作がおかしい」
指先へ意識を集中する。
本来なら即座に反応するはずだった。
しかし、何も起こらない。
「…………」
一拍遅れて、小さな光が指先に生まれた。
「ほら」
「今のは?」
アルベルトも表情を変える。
「反応が遅れた」
「そうみたい」
「そうみたい、ではないだろう」
「たまにあるんだよ」
セレネの眉が動いた。
「いつからだ?」
「この前のアレからかな」
「アレ?」
「リヴァイアサン」
「何だ、それは」
「ああ、セレネは知らないか」
「知らん」
「ちょっと色々あってさ」
「色々とは何だ」
「でっかいのと戦った」
「説明が雑すぎる」
「話すと長いんだって」
蓮は右手を軽く振った。
「それから、たまにこうなるんだよ。おかしいなぁ」
セレネが蓮の前へ立った。
「手を出せ」
「え?」
「右手だ」
蓮が差し出す。
セレネはその手を取った。
片方の手で蓮の指先を支え、もう片方の掌を手の甲へ重ねる。
目を閉じた。
自身のナノを僅かに動かし、蓮の右手のナノの状態を探る。
内部へ無理に干渉するわけではない。ただ触れ、流れを確かめる。
「…………」
「分かる?」
「黙っていろ」
「はい」
しばらくして、セレネが目を開いた。
「……おかしいな」
「やっぱり?」
「ああ」
もう一度、手の甲へ掌を当てる。
「詳しくは分からない。だが、動きが妙だ」
「どう妙?」
「それが分かれば苦労しない」
「そうだよな」
蓮の反応は妙に軽い。
セレネはまだ手を離さなかった。
「戻ったら調べてもらえ」
「そのうちね」
「戻ったら、だ」
「はいはい」
「返事が軽い」
「最近よく言われるな、それ」
「なら直せ」
「努力します」
ようやくセレネが手を離した。
少し離れた場所でアルベルトが二人を見ていた。
「何?」
蓮が尋ねる。
「いや」
「なんだよ」
「何でもない」
アルベルトは先へ歩き出した。
蓮は首を傾げた。
セレネは何も言わなかった。
◇
探索そのものは、それ以上大きな問題もなく終わった。
期待していたほどの発見はなかったが、未探索区画の地図をかなり埋めることができた。
地上へ戻った頃には、日が大きく傾いていた。
「腹減った」
蓮の第一声だった。
「同感だ」
アルベルトも頷く。
蓮がセレネを見る。
「飯食ってく?」
「……構わない」
「何がいい?」
「肉」
「即答だな」
「山から下りてきてまで草を食う理由はない」
「野菜な」
「同じだ」
「違うと思うけどなあ」
三人で人間居住区を歩く。
どこへ入ろうかと店を探していた蓮が、不意に足を止めた。
「……ん?」
「どうした?」
「マシマシ屋、こんなところにもできたんだ」
新しい店舗だった。
それ自体は不思議ではない。
問題は看板だった。
《魔王印マシマシ屋》
巨大な文字の横に、頭の左右から角を伸ばした少女が、腕を組んで偉そうに笑っている。
セレネが看板を見上げた。
「魔王?」
「ああ」
「REGULATORのことか?」
「いや……最近、魔王を名乗ってる子がいるんだよ」
「子?」
「十歳くらい」
セレネが蓮を見る。
「何を言っている?」
「俺も説明が難しいんだよ」
「あの少女か?」
「そう」
「本当に魔王なのか?」
「本人はそう言ってる」
「ではREGULATORは?」
「それはそれ、これはこれ」
「意味が分からん」
「だから説明が難しいんだって」
アルベルトは看板の下を読んでいた。
「魔王印食材使用と書いてあるぞ」
「ああ。それは本当」
「知っているのか?」
「そっちは俺も関わってる」
「お前は何をしているんだ?」
「いろいろ」
「今日のお前は説明する気がないな」
三人は店へ入った。
◇
「いらっしゃい!」
店主はエルフだった。
店内にも角の生えた少女の絵があちこちに描かれている。
蓮が壁を見る。
「これ、全部勝手に使ってる?」
「何をです?」
「魔王印の名前とか、その子の絵とか」
「はい」
悪びれる様子は一切なかった。
「許可は?」
「許可?」
店主が首を傾げる。
アルベルトも首を傾げた。
セレネまで不思議そうに蓮を見る。
「何の許可だ?」
「いや、人の名前とか姿を商売に使うなら……」
「なぜ許可が必要なのだ?」
アルベルトが本気で尋ねた。
「魔王印の食材を使っているのだろう?」
「使ってるけど」
「なら魔王印と書いても間違っていない」
「そういう問題じゃなくてだな……」
セレネも看板を見る。
「この少女の姿を描くと、何か問題があるのか?」
「人間社会だとあるんだよ」
「なぜ?」
「肖像権とか、商標とか、そういうものがあって……」
「ショウゾウケン?」
セレネが聞き返した。
「……そこから説明するのか」
店主、アルベルト、セレネ。
三人のエルフが揃って、本気で理解できない顔をしている。
蓮は頭を掻いた。
「もういい。今日は飯を食いに来たんだ」
「それがよい」
セレネが即答した。
「人間は面倒だな」
「お前らが気にしなさすぎなんだよ」
◇
そして料理が来た。
「お待たせしました! 新店舗限定、魔王降臨・地獄マシマシラァメンです!」
三つの巨大な丼が置かれた。
「…………」
蓮が黙った。
「…………」
アルベルトも黙った。
「…………」
セレネも黙った。
スープが黒い。
その中に赤い麺。
中央には山のような野菜が盛られ、その上には分厚い肉が何枚も重なっている。さらに二本の巨大な焼き野菜が、角のように突き立てられていた。
「……これは食べ物なのか?」
セレネが真顔で尋ねた。
「ラァメンではあると思う」
「思う?」
「俺もこれは初めて見る」
店主が胸を張った。
「肉も野菜も魔王印! 栄養満点です!」
「素材は知ってるよ」
蓮は黒いスープを指した。
「なんで黒いの?」
「魔王ですから!」
「説明になってない」
「この赤い麺は?」
アルベルトが尋ねる。
「魔王ですから!」
「便利な言葉だな」
三人は箸を取った。
まず肉。
「……美味い」
セレネが言った。
「肉そのものはいいからな」
次に野菜。
アルベルトが頷く。
「これも美味い」
「野菜も品質はいい」
蓮が麺を啜った。
「麺も悪くない」
三人は最後にスープを飲んだ。
「…………」
「…………」
「…………」
セレネが首を傾げた。
「一つずつは美味いのだな?」
「そうだな」
「では、なぜ全部一緒にするとこうなる?」
蓮は答えられなかった。
アルベルトが静かに言った。
「料理とは奥深いものだな」
「たぶん、そういう話じゃない」
それでも食材を残すのは気が引けたので、三人は最後まで食べた。
◇
店を出ると、すでに日は沈みかけていた。
三人はしばらく無言で歩いた。
「……次は普通の店にしよう」
蓮が言った。
「賛成だ」
アルベルトが答える。
「必ずそうしてくれ」
セレネも続いた。
「そこまで言う?」
「レン」
「何?」
「人間の食文化は、あれが普通なのか?」
「絶対違う」
「即答だな」
「あれを人類代表にされたら困る」
やがてアルベルトが自分の宿舎へ向かう道で二人と別れた。
「では、またな」
「ああ」
「次のダンジョンを探しておく」
「頼んだ」
「お前たちは懲りないな」
セレネが呆れた。
アルベルトが去り、蓮とセレネだけが残る。
蓮が空を見上げた。
「セレネ、今から山に帰るの?」
「そのつもりだったが」
「やめとけよ。もう暗くなるぞ」
「夜道くらい問題ない」
「問題あるとかじゃなくてさ」
蓮は通りの先を指した。
「泊まってけばいいじゃん。エルフも使える宿あるよ」
「…………」
セレネは少しだけ黙った。
「明日の朝帰ればいいだろ」
「……そうだな」
考えるふりをする必要もないほど、答えは決まっていた。
「では、そうする」
「決まり。案内するよ」
「場所だけ教えれば分かる」
「せっかくだから送るって」
「……そうか」
二人は並んで歩いた。
人間居住区には灯りがともり始めていた。
山の集落にはない夜の明るさだった。
「今日は楽しかったな」
蓮が何気なく言った。
セレネが横を見る。
「そうか?」
「久しぶりに三人でダンジョン行けたし」
「お前は本当にダンジョンが好きだな」
「面白いじゃん」
「右手がおかしい奴が言うことではない」
「あ」
「忘れていたのか?」
「忘れてないよ」
「今の顔は忘れていた顔だ」
「明日調べてもらう」
「今日行け」
「もう遅いって」
「なら明日の朝だ」
「分かった、分かった」
「二度言うな。信用できなくなる」
蓮が笑った。
セレネも僅かに口元を緩めた。
◇
「ここ」
蓮が立ち止まった。
人間居住区にある宿泊施設だった。
交易や仕事で訪れるエルフたちも利用するため、セレネが泊まっても珍しくはない。
「受付で名前言えば大丈夫だから」
「ああ」
「じゃあ、俺は帰るよ」
「レン」
「ん?」
セレネは一瞬だけ迷った。
「……右手」
「ああ」
「忘れるな」
「分かってるって」
「本当に診てもらえ」
「はい」
今度の返事は少しだけ真面目だった。
「じゃあな。明日」
「……ああ。明日」
蓮が歩いていく。
セレネは宿の前に立ったまま、その背中を見送った。
やがて蓮が人混みの向こうへ消える。
「…………」
久しぶりに会えた。
一緒にダンジョンへ行った。
一緒に食事をした。
最後の食事については忘れたいところだが、それ以外は悪くない一日だった。
そして明日も、まだここにいる。
セレネは宿へ入った。
山を下りた理由なら、いくらでもある。
人間の街を見るため。
交易品を確かめるため。
人間の文化を知るため。
そして今夜ここに泊まるのも、暗くなったからだ。
ただそれだけ。
少なくともセレネは、そういうことにしておいた。
――第七十話 山を下りた理由 了




