第69話 遠きより来るもの
レモが学校へ通い始めてから数日が過ぎた。
初日にあれほど騒いでいた本人は、今では朝になると当然のように支度を始めるようになっていた。
「レン! 行ってくるのじゃ!」
「ああ。寄り道すんなよ」
「妾に指図するでない!」
「昨日、帰りに菓子屋寄っただろ」
「あれは視察じゃ!」
「金払って菓子食って帰ってくるのを視察とは言わないんだよ」
「では行ってくる!」
「話を聞け」
玄関の扉が閉まった。
少し前まで蓮の服を掴んで離れようとしなかった少女が、今では一人で学校へ向かう。
その背中を見送ってから、蓮は仕事へ向かった。
いつもと変わらない朝だった。
その日、人類自治政府へ一件の報告が届くまでは。
◇
『外宇宙観測系において、通常とは異なる電磁波源を検出しました』
最初に異常を捉えたのは、軌道上のアマテラスが持つ外宇宙観測系だった。
最初から重大案件として扱われたわけではない。
宇宙は電磁波に満ちている。
恒星活動、巨大惑星の磁気圏、遠方で起こる天体現象。人類がまだ分類していない自然現象が存在していても不思議ではない。
イザナミは通常の観測対象として記録し、解析を続けた。
一日目。
二日目。
三日目。
そして四日目。
観測対象の優先度が変更された。
さらに二日後、人類自治政府に緊急会議が招集された。
◇
「移動している?」
柳原の問いに、神崎美冬が頷いた。
「はい」
会議室中央に星図が表示されている。
美冬は現在、学校運営にも駆り出されているが、本来は通信と情報分析の担当者である。アマテラスでも同じ仕事をしていた。
今日はレモの世話を焼いているときとは違う顔をしていた。
「六日間の観測結果です」
星図上に複数の点が表示された。
同一の電磁波源を観測した推定位置だった。
「恒星系の外側から接近しています」
「自然天体では?」
「その可能性も検討しました」
『既知の恒星、惑星、小天体その他の自然天体との一致は確認できません』
イザナミが補足した。
『また、観測された速度変化を重力相互作用のみで説明することは困難です』
蓮が星図を見ていた。
「速度、落ちてるよな」
「はい」
美冬が別のデータを表示する。
「観測開始時から現在まで、一貫して減速傾向にあります」
「どれくらい確かなんだ?」
『観測誤差である可能性は低いと判断します』
「噴射は?」
『確認できません』
「推進方式は不明。でも減速してる」
『はい』
蓮は椅子に深く座った。
「……嫌な感じだな」
柳原が蓮を見る。
「何がです?」
「自分で速度を落としてるように見える」
その言葉で、会議室が静かになった。
◇
美冬が次の解析結果を表示した。
「電磁波にも規則性があります」
「通信ですか?」
「そこまでは断定できません。ただ、自然現象として説明するには不自然な部分があります」
「人工的?」
「可能性はあります」
人工物。
恒星間空間から接近している。
そして、自ら減速している可能性がある。
誰もが同じものを想像した。
だが、それを最初に口にした者はいなかった。
「人類由来という可能性は?」
政府関係者の一人が尋ねた。
蓮がそちらを見た。
「地球からってことですか?」
「可能性としては」
「ないとは言いませんけど……」
蓮は星図へ視線を戻した。
「俺たちがこの星に着いてから、もう四千年以上経ってるんですよ」
誰も反論しなかった。
それは、この惑星で暮らす人間たちにとってあまりにも重い時間だった。
四千年以上。
彼ら自身にとっては、その大部分が冷凍睡眠によって失われた時間だったとしても、宇宙はその間も動き続けていた。
「俺たちより後に地球を出た船という可能性は?」
別の者が尋ねる。
「理屈の上ではありますよ」
蓮は答えた。
「地球に俺たちの知らない移民計画が残ってた可能性もある。俺たちよりずっと遅く出発して、航行方法が違えば、今ここに来ること自体は物理的に絶対不可能とは言えない」
「なら――」
「でも、それを第一候補にします?」
蓮の声は冷静だった。
「四千年以上ですよ」
会議室が静まる。
「俺たちがここに到着してから、それだけ経ってる。地球がその後どうなったのかも分からない。文明が残ったのかさえ分からない。そんな場所から今になって、偶然この恒星系へ別の船がやってきた?」
蓮は首を振った。
「希望的観測が過ぎると思います」
柳原も頷いた。
「地球由来であると判断できる証拠は?」
『ありません』
イザナミが答えた。
「旧地球文明の通信規格との一致は?」
『現時点では確認されていません』
「推進方式は?」
『不明です』
「船体形状は?」
『距離が遠く、判別不能です』
「つまり、地球と結びつける材料は何もない」
『はい』
柳原は少し考えた。
「では現段階では、地球由来という仮説を優先する理由はない」
誰も異論を唱えなかった。
◇
「むしろ、別の可能性を考えるべきじゃないですか」
蓮が言った。
「別の可能性?」
「俺たちは、もう知ってるでしょう」
何のことか、全員が理解した。
柳原が静かに口にする。
「穢れ」
「はい」
空気が変わった。
穢れ。
この惑星で人類が遭遇した、地球由来ではない可能性が極めて高い存在。
その起源も、目的も、正体も、いまだ完全には解明されていない。
「穢れを作った存在の船だと?」
「そこまでは言ってません」
蓮はすぐに否定した。
「そもそも穢れが人工物なのかさえ確定してない。ただ、少なくとも俺たちは一度、地球の生態系や人類の技術体系では説明できないものに遭遇している」
美冬が腕を組んだ。
「つまり、地球外生命の存在を仮説から外す理由がない」
「そういうこと」
かつての地球なら、この会議で「宇宙人」という言葉を出した者は笑われたかもしれない。
今は違った。
誰一人として笑わない。
「それだけじゃない」
蓮が続けた。
「この惑星そのものにも、説明できないものが多すぎる」
惑星の立体図が表示された。
「テラフォーミングを拒絶した地域。俺たちが作ったものではない構造物。自然発生だけでは説明しづらいダンジョン。そして穢れ」
「それらが同じ起源だと?」
「分かりません。むしろ全部別々でもおかしくない」
「では、何が言いたいんです?」
蓮は少し黙った。
「この星、本当に俺たちが最初だったんですかね」
その言葉に、何人かが顔を上げた。
「どういう意味です?」
「人類がテラフォーミングを始める前です」
蓮は惑星を指した。
「何もなかったと、俺たちは勝手に思ってる。でも本当にそうだったのか?」
柳原が眉を寄せる。
「先住文明が存在していた?」
「文明だったかどうかも分かりません。生物だったのか、機械だったのか、それすら分からない」
「しかし、人類以前に何かがいた」
「可能性の話です」
蓮は接近物体を示す光点を見る。
「もし、いたとしたら」
そこで言葉を切った。
「そいつらが一度この星を離れていたら?」
会議室が静まり返った。
美冬が小さく呟いた。
「……帰ってきている」
蓮は頷かなかった。
否定もしなかった。
◇
『対象の推定航路計算を更新しました』
イザナミの声が沈黙を破った。
「表示してください」
柳原の指示で立体図が切り替わる。
恒星。
複数の惑星。
そして恒星系外から伸びてくる一本の線。
接近物体の予測航路だった。
「……かなり深く入ってくるな」
蓮が言った。
「恒星系を通過するだけという可能性は?」
『現在確認されている減速傾向が継続する場合、その可能性は低いと判断します』
「目的地を推定できますか?」
『現時点では一定の誤差があります』
航路の先に円錐状の予測範囲が表示された。
その中に、一つの惑星がある。
EDEN。
『本惑星近傍へ到達する確率が最も高いと判断します』
今度こそ、誰も口を開かなかった。
恒星間空間を飛んできた何かが、自ら減速しながら、この惑星へ向かっている。
偶然通過する物体とは考えにくくなっていた。
「到着まで?」
美冬が尋ねた。
『現在速度、減速率および推定航路から算出します』
わずかな間があった。
『百八十三日から百九十六日』
「半年……」
『誤差を考慮すれば、約半年です』
柳原は立体表示を見つめた。
半年。
相手が友好的なら、接触の準備ができる。
敵なら、防衛準備の時間になる。
だが、人類をはるかに超える技術を持つ存在だった場合、その半年にどれほどの意味があるのかは分からない。
「こちらから通信を送りますか?」
政府関係者の一人が尋ねた。
「反対です」
美冬が先に答えた。
「理由を」
「相手がこちらの文明活動を認識している保証がありません。こちらから送信すれば、少なくとも人工的な電波を発する文明が存在すると知らせることになります」
蓮も頷いた。
「俺も同意見です」
「しかし、目的地がこの惑星なら――」
「それでもです」
蓮は星図を見た。
「こっちに向かっていることと、俺たちの存在を知っていることは別です。もしこの星そのものが目的なら、わざわざ俺たちから名乗る必要はない」
柳原が頷いた。
「受動観測を継続します」
『了解しました』
「アマテラスの防衛設備については?」
柳原が蓮を見る。
「起動準備だけ」
「攻撃態勢には移行しない?」
「はい」
「理由は?」
「相手がこちらを観測できるなら、武器の起動を敵対行為と判断する可能性があります」
「敵だった場合は?」
「その時に考えるしかない」
「間に合いますか?」
蓮は少し黙った。
「相手次第です」
その答えが、かえって重かった。
もし人類と同程度の文明なら、半年は十分な時間かもしれない。
もし人類より数百年、数千年先を行く文明なら。
防衛準備など、意味を持たない可能性すらある。
◇
会議の終了が告げられ、人々が席を立ち始めた。
しかし柳原は星図を消さなかった。
「天城さん」
「はい?」
「少しだけ残ってください」
蓮が席へ戻る。
美冬も通信担当として残っていた。
柳原は遠方から接近する光点を見ている。
「理屈の上では、地球由来の可能性もゼロではない」
「そうですね」
「しかし、あなたは低いと考えている」
「はい」
「なぜです?」
蓮は少し考えた。
「時間ですよ」
「四千年?」
「俺たちが地球を離れてからなら、もっと長い」
蓮は苦笑すらしなかった。
「俺たちがこの星に到着した時点で、地球はもう遠い過去だった。それからさらに四千年以上です」
美冬も黙って聞いている。
「今さら地球から、こんなところまで誰かが追いかけてくるなんて」
蓮は首を振った。
「考えにくいですよ」
「では」
柳原が星図を見た。
「あれは何だと思いますか」
蓮は答えなかった。
恒星間空間から飛来している。
減速している。
この惑星へ向かっている。
地球由来と考えられる証拠は何一つない。
一方、この惑星には人類以前の何かを疑わせる痕跡が存在する。
そして地球外由来の可能性が高い穢れも、すでに確認されている。
ならば。
最悪の可能性を口にすることは、もう荒唐無稽ではなかった。
「エイリアンシップ」
蓮が言った。
美冬の表情が僅かに強張った。
「本気ですか?」
「本気だよ」
蓮は光点を見た。
「むしろ今のところ、地球の船だと思うより筋が通る」
誰も否定できなかった。
「それに――」
蓮はEDENの立体表示へ目を移した。
「俺たちが来るより前に、この星に何かがいたなら」
遠きより来るもの。
それは今も減速を続けている。
「帰ってきてるのかもしれない」
半年後。
何かが、この星へやって来る。
人類はまだ、その名を知らない。
――第六十九話 遠きより来るもの 了




