第7話 原初のスライム
最初に消えたのは、森だった。
黒い山脈の西にある名もない谷には、前日まで針葉樹の森が広がっていた。
翌朝、その森がなくなっていた。
倒されたわけではない。
焼かれたわけでもない。
木も、草も、苔も、そこに棲んでいた獣も虫も、まとめて消えていた。
残されていたのは、湿った灰色の地面だけだった。
そして谷の中央では、半透明の巨大な塊がゆっくりと動いていた。
「……スライム?」
人類の植民都市。
中央管制室の壁一面に、無人偵察機から送られてきた映像が表示されていた。
蓮は腕を組みながら、その奇妙な生物を見つめている。
全長は推定二百七十メートル。
最大高は四十メートルを超える。
形は一定していない。
広がり、盛り上がり、枝分かれし、再び一つになる。
巨大な半透明の粘液が、自ら意思を持って進んでいるようにしか見えなかった。
しかも、その内部にはさまざまなものが浮かんでいる。
木。
岩。
動物の骨。
そして、まだ完全には消化されていない巨大な翼。
美冬が画面を拡大した。
「……あれ、何です?」
『飛竜系生物と推定します』
イザナミの声が答える。
「食われたの?」
『その可能性が高いです』
映像がさらに拡大される。
粘液の内部で、大型の飛竜が半ば溶けていた。
翼の骨格だけが残り、胴体はすでに形を失いつつある。
蓮は顔をしかめた。
「俺の知ってるスライムと違うな」
「ずいぶん可愛くないですね」
「可愛いスライムなんて創作だけだと思ってたけど、これは方向性が悪すぎる」
エルフ側では、もっと深刻な騒ぎになっていた。
黒い山脈に近い村では、住民の避難が始まっている。
「原初の魔物が出た」
「魔王が封印を解いた」
「森を食べながら西へ進んでいる」
そんな噂が急速に広がっていた。
リシェルは神殿の書庫へ籠もり、古い記録を片っ端から調べていた。
革紙。
木簡。
石板。
何百年、何千年も前の記録。
その中で、一つの文章に目が止まった。
《大地を這うもの、命を喰らうもの》
《刃はこれを増やし、炎はこれを散らす》
《魔王、これを黒き地の底へ封ず》
リシェルは指を止めた。
「……魔王が?」
読み間違いではない。
《魔王が生み出した》ではない。
《魔王が封じた》と書いてある。
彼女はしばらく、その一文を見つめていた。
その日の午後。
蓮たちは現地へ向かった。
飛行艇には蓮、美冬、護衛二名、そしてリシェルが乗っていた。
今回は蓮たち全員が軽量アーマーを装着している。
白銀の装甲。
フルフェイス型ヘルメット。
外見は薄いが、内部には衝撃吸収材、医療ナノ群、環境遮断機構、重力制御補助まで組み込まれている。
リシェルにも簡易防護服が用意された。
彼女は見るからに不満そうだった。
「動きにくい」
「我慢して」
「私たちの服にも防護術式があるのよ」
「相手の分解能力すら分かってないんだから駄目」
「まだ最後まで言ってない」
「言っても答えは同じ」
リシェルは頬を膨らませた。
「過保護」
「何か言った?」
「何も」
飛行艇が谷へ近づく。
高度二千メートル。
眼下に巨大な半透明の塊が見えてきた。
実物は映像で見るより遥かに大きかった。
まるで透明な湖そのものが、陸地を這っているようだった。
粘液の先端が一本の木に触れる。
幹が取り込まれ、葉が消え、枝が溶け、数十秒後には何も残らない。
『進行速度、時速三・七キロメートル』
イザナミが報告する。
『現在の進路を維持した場合、約十九時間後にエルフ居住地域へ到達します』
リシェルが顔を上げた。
「十九時間?」
『はい』
「止めて」
「そのために来た」
蓮が答えた。
普段の軽い調子はなかった。
最初に試したのは、高出力熱線だった。
無人機が上空から照射する。
巨大スライムの表面が一気に沸騰し、白い蒸気が立ち上った。
一部が黒く焼ける。
リシェルが身を乗り出した。
「効いてる!」
「待って」
蓮が計測値を見た。
焼けた部分が膨らんでいる。
次の瞬間。
破裂した。
白い粉のようなものが大量に空中へ舞い上がる。
『警告。胞子様構造体を検出』
「回収!」
蓮の命令と同時に、周辺環境へ分散していたナノマシン群が動いた。
目には見えないほど細かな機械が空中へ広がり、胞子を包み込んで固定する。
『拡散阻止率、九十九・九九七パーセント』
「残りは?」
『追跡中です』
美冬が画面を見る。
「熱を加えると胞子を放出するんですね」
『生命危機に反応して生殖段階へ移行するものと推定します』
蓮は顔をしかめた。
「焼くのは禁止だな」
「ですね」
次に試したのは凍結だった。
局所的に温度を急低下させる。
スライムの表面が白く凍り、動きが止まる。
だが数秒後、凍結部分に巨大な亀裂が走った。
その下では内部の粘液が動き続けている。
やがて亀裂から粘液が分かれ、別々の塊として流れ始めた。
リシェルが呆然とする。
「……増えてない?」
「増えたね」
「レン」
「何?」
「どうするの、これ」
「今考えてる」
採取した組織の解析結果が届いたのは、その直後だった。
『対象は地球由来粘菌類の遺伝情報を基礎としています』
「粘菌?」
美冬が画面を見る。
『初期テラフォーミング用有機物分解生物との遺伝的一致を確認』
蓮は額に手を当てた。
「俺たちが作った掃除屋か」
『本来の設計では、枯死植物、死骸、有機汚泥などを分解し、土壌形成を促進する生物でした』
リシェルが言う。
「今は生きてるものまで食べてる」
『変異によるものと推定します』
数千年。
その時間の中で、遺伝情報は変化した。
しかも、この個体は通常の変異では済んでいない。
『複数の分解生物を取り込んだことで、水平遺伝子伝播が発生した可能性があります』
「つまり?」
リシェルが聞く。
美冬が嫌そうに答えた。
「食べれば食べるほど、分解できるものが増えていったんでしょうね」
リシェルは巨大スライムを見た。
「最悪」
「同感」
夕方。
スライムはまだ進んでいた。
蓮たちは進路上から生物を避難させることを優先した。
環境ナノ群を使い、音、匂い、微弱な電気刺激で野生動物を別方向へ誘導する。
エルフの村には避難命令が出された。
そして解析の結果、一つの弱点が見つかった。
「水分依存性が高い?」
『はい』
イザナミが地形図を表示する。
『対象は体内に大量の水分を保持していますが、外部水分供給を遮断した場合、代謝低下が期待できます』
蓮はしばらく地図を見た。
「じゃあ進行方向を乾かそう」
リシェルが首を傾げる。
「どうやって?」
「地下水を迂回させる」
「……川を?」
「地下のやつを少しだけ」
蓮が指示すると、環境ナノ群が地中で動き始めた。
土壌粒子を再配置し、水脈の流れを一時的に変更する。
同時に上空の気流も制御し、乾燥した空気を地表へ流し込む。
数時間後。
スライムが乾燥地帯へ入った。
動きが遅くなる。
表面が縮み始める。
『活動量、三十一パーセント低下』
「効いてる」
美冬が言う。
「もっとやろう」
だが、完全には止まらない。
体内に大量の水を蓄えている。
蓮は少し考えた。
「なら、広がれないようにする」
「どうするの?」
リシェルが聞く。
「重力で集める」
局所重力場が形成された。
巨大スライムの周囲へ広がろうとしていた粘液が、中央へ向かって引き寄せられる。
谷全体が低く震えた。
数百メートルに広がっていた粘菌が徐々に一か所へ集まり、やがて高さ百メートル近い巨大な透明の山になった。
リシェルは言葉を失った。
「……」
「どうした?」
蓮が聞く。
「今、山みたいなものを動かした?」
「スライムを寄せ集めただけ」
「……そう」
「何?」
「なんでもない」
本人は神ではないと言う。
だが、空を操り、水を操り、大地すら変え、巨大な怪物を見えない力で押さえ込んでいる。
これを見てなお「普通の人間」と理解しろと言われる方が無理なのではないか。
リシェルはそう思った。
『問題があります』
イザナミが告げた。
「何?」
『完全停止には至りません』
「だよな」
『内部に細胞活動を統制する中枢構造を検出しました』
画面に内部解析図が現れる。
巨大スライムの深部。
直径三メートルほどの硬い構造体がある。
「核?」
『正確には生体制御器官です。初期設計時の人工制御コアが変異後も残存している可能性があります』
「そこを止めれば?」
『個体全体の代謝停止が期待できます』
蓮は少し考えた。
「外から壊すのは?」
『胞子形成を誘発する可能性があります』
「切ったら?」
『分裂します』
リシェルが聞く。
「じゃあどうするの?」
蓮はフルフェイスメットを閉じた。
装甲が滑るように展開し、顔が白銀の仮面に覆われる。
「中に入る」
リシェルは数秒、言葉を失った。
「……馬鹿なの?」
「他に方法ないだろ」
「あるでしょ!」
「例えば?」
リシェルは黙った。
「ほら」
「だからって中に入る人がある!?」
「アーマーなら消化液に耐えられる」
『推定耐久時間、十一分四十二秒』
リシェルが天井を見た。
「短い!」
「十分」
「十分じゃない!」
蓮は笑った。
「大丈夫だって」
「何が大丈夫なのよ!」
「俺、最高管理者だぞ」
「そういう問題じゃない!」
言ってから、リシェルは口を閉じた。
少しだけ俯く。
「……死んだら困るんだから」
蓮が彼女を見る。
「質問できなくなるから?」
「そう」
「はいはい」
「何、その言い方」
蓮は飛行艇から飛び降りた。
高度五百メートル。
重力制御で落下速度を調整し、巨大スライムの表面へ着地する。
足が粘液へ沈んだ。
「うわ、最悪」
『侵入を開始してください』
「分かってる」
蓮は局所重力を自分に作用させ、粘液の内部へ沈んでいった。
外部視界は完全に失われる。
ヘルメットを赤外線と密度解析モードへ切り替える。
中枢まで三十七メートル。
周囲の粘液がアーマーを溶かそうとしている。
外装表面から白い煙が上がった。
『外装侵食を確認』
「どれくらい?」
『想定値を十六パーセント上回っています』
「先に言って」
『現在判明しました』
「お前そういうところあるよな……」
内部へ進む。
二十メートル。
十メートル。
やがて、粘液の向こうに異質な構造体が見えてきた。
巨大な球体。
脈打つ半透明の組織。
その中心に、人工物が埋め込まれている。
「見つけた」
『旧式生体調整コアを確認』
「停止できる?」
『物理接続が必要です』
「だから俺が来たんだろ」
蓮が手を伸ばす。
その瞬間、周囲の粘液が変形した。
何本もの触手状構造が腕や脚へ絡みつく。
「うおっ!」
重力制御で引き剥がす。
さらに前へ。
指先がコアへ触れた。
視界に古い管理画面が浮かび上がる。
《ADMINISTRATOR DETECTED》
《ACCESSING》
蓮は息を整えた。
「代謝停止」
一秒。
《OVERRIDE ACCEPTED》
巨大な振動が全身を通り抜けた。
そして。
スライムが止まった。
外から見ていたリシェルは、巨大な透明の山が突然動かなくなったのを見た。
その後、粘液の構造が崩れ始める。
水と有機物と泥が、ゆっくり地面へ流れていく。
「レン?」
返事がない。
「レン?」
美冬が通信状態を確認する。
「信号が弱いですね」
リシェルの顔色が変わった。
「レン!」
数秒。
返事はない。
その時。
崩れた粘液の中から白銀の腕が突き出した。
蓮が這い出てくる。
全身を粘液で覆われていた。
「くっさ!」
リシェルは大きく息を吐いた。
安心した反動で腹が立った。
「馬鹿!」
「第一声それ?」
「馬鹿!」
「二回言った!」
夕暮れ。
原初のスライムは完全に活動を停止した。
胞子の大規模拡散も確認されていない。
周辺への被害は甚大だったが、エルフ居住地域への到達は阻止された。
リシェルは飛行艇から出した水で、蓮のアーマーを洗っていた。
「まだ臭う」
「マジ?」
「すごく」
「このアーマー捨てようかな」
「神様の鎧なのに?」
「だから違うって」
その時、エルフ兵たちが騒ぎ始めた。
「東!」
誰かが叫んだ。
全員が振り向く。
荒れ果てた谷の向こう。
黒い山脈へ続く道。
一つの人影が歩いてくる。
ゆっくりと。
黒い。
二メートルを超える人型。
額には赤い光。
リシェルの顔から血の気が引いた。
「……嘘」
蓮が見る。
「何?」
周囲の兵士たちが剣を抜く。
神官が震える声を漏らす。
「魔王……」
その言葉が広がった。
「魔王だ!」
「陣形を組め!」
「弓兵、前へ!」
兵士たちが一斉に構える。
蓮もヘルメットを閉じた。
視界に解析結果が表示される。
《ARTIFICIAL CONSTRUCT》
《LEGACY HUMAN TECHNOLOGY》
「やっぱり」
蓮の声が低くなる。
黒い機械は、さらに近づいてくる。
百メートル。
五十。
三十。
その姿がはっきり見えるようになる。
細身の人型。
黒い装甲。
赤いセンサー。
そして。
蓮は一つの違和感に気づいた。
顔面装甲。
額から頬にかけて、一本の深い傷が残っている。
古い傷だった。
明らかに修復可能なはずなのに、そこだけが意図的に残されているように見える。
「……傷?」
リシェルも気づいた。
「魔王の傷よ」
「知ってるの?」
「伝承にある。勇者カイルが最後に魔王へ刻んだ、たった一つの傷」
蓮は少しだけ目を細めた。
「勇者カイル……」
その名前を、この時の蓮はまだ知らなかった。
だが、その傷が数千年ものあいだ消されずに残されていることだけは、妙に引っかかった。
魔王は十メートルほど手前で止まった。
兵士たちの指が震える。
誰も矢を放たない。
リシェルは蓮の隣に立っていた。
「レン」
「大丈夫」
「でも」
「たぶん、こいつは俺たちの機械だ」
魔王の赤いセンサーが蓮へ向く。
数秒。
沈黙。
そして。
黒い機械は右膝を地面についた。
頭を下げる。
周囲のエルフたちが固まった。
低い機械音声が響く。
『生体識別を実行』
『最高管理者』
リシェルの目が大きくなる。
『AMAGI REN』
蓮は黙っている。
『認証一致』
魔王はさらに深く頭を下げた。
『惑星環境統制機 REGULATOR-01』
『長期管理任務期間、四千六百八十二年』
一拍置いて。
『任務完了』
世界を滅ぼす存在として恐れられてきた魔王は、静かに言った。
『お帰りなさいませ、最高管理者』
誰も声を出せなかった。
リシェルがようやく呟く。
「……魔王が跪いた」
蓮はしばらくREGULATORを見ていた。
そして、ものすごく疲れた声で言う。
「やっぱり俺の関係者かよ……」
REGULATORの赤いセンサーが、活動を停止した巨大粘菌へ向く。
『隔離指定生物BIOHAZARD-07の完全停止を確認』
蓮が反応する。
「お前、あれ知ってるの?」
『肯定』
「封印したのも?」
『肯定』
リシェルが固まる。
REGULATORは淡々と続けた。
『当該生物は惑星生態系に対する最上位危険種』
『三千九百十一年前、本機が隔離処置を実施』
リシェルは神殿で見つけた古文書を思い出した。
《魔王、これを黒き地の底へ封ず》
伝承は正しかった。
「……待って」
リシェルがREGULATORを見る。
「あなたは世界を滅ぼそうとしたんじゃないの?」
赤いセンサーが彼女へ向く。
数秒の沈黙。
『質問の意味を理解できません』
「だって、魔王は……」
『本機の最上位任務は惑星生態系の維持、および人類移住環境の保全』
リシェルの表情が止まる。
『世界を滅ぼす行為は、本機の最上位任務に反します』
風が荒れ果てた谷を吹き抜けた。
誰も何も言えなかった。
数千年間、世界最大の悪として語り継がれてきた存在。
その魔王が。
世界を守るために存在していた。
ただし。
蓮はREGULATORの顔面に残る傷をもう一度見た。
「リシェル」
「何?」
「さっき言ってた勇者カイルって?」
「魔王戦争で最後まで魔王と戦った勇者。伝承では、魔王を倒す寸前まで追い詰めたと言われてる」
蓮が傷を見る。
「その証拠が、あれ?」
「そう言われてる」
REGULATORは何も否定しなかった。
蓮は少しだけ考えた。
魔王が世界を守っていた。
勇者は、その魔王と命を懸けて戦った。
どちらか一方だけが正しかったとは思えない。
「どうやら」
蓮は静かに言った。
「俺たち、歴史を最初から調べ直した方がよさそうだな」
リシェルも、魔王の傷を見ていた。
何千年ものあいだ残された。
たった一本の傷。
その意味を。
彼女たちはまだ知らなかった。




