第62話 故郷
五千年後。
地球。
◇
赤い星が、宇宙に浮かんでいた。
かつて、その星は青かった。
表面の大部分を海が覆い、白い雲が流れ、陸地には広大な森林が存在していた。
夜になれば無数の都市が光を放ち、その文明の存在は宇宙からでも容易に確認できた。
人類はこの星で生まれた。
文明を築き、数を増やし、やがて星の外へ手を伸ばした。
そして、その星には名前があった。
地球。
今、その名を知る者は、地表にはいない。
◇
海は残っていた。
ただし、青くはなかった。
赤黒く濁った水面が、どこまでも続いている。
風が吹くたびに粘り気のある泡が沿岸へ押し寄せ、岩肌に付着して白い煙を上げた。
かつての人間が素手で触れれば、皮膚を侵されるほど強い酸性を示す海。
そこにも生命はいた。
半透明の膜に包まれた生物が浅瀬を這い、硬い鉱物質の外殻を持つものが海底を移動する。
光ではなく、海中に溶けた化学物質からエネルギーを得る生物もいる。
五千年という時間の中で、多くの種が消えた。
だが生命そのものは消えなかった。
変わった。
ただひたすら、この世界で生きられる形へ。
◇
空もまた、残っていた。
青くはなかった。
赤茶色に濁った大気の向こうで、太陽がぼんやりと輝いている。
酸素は存在する。
だが、それだけで人間が呼吸できるわけではない。
海洋と地殻から放出される物質。
長い年月の中で変質した大気。
そこに浮遊する微細な粒子。
かつての人類なら、呼吸補助装置なしで長く生きることはできなかった。
昼の地表温度は高い。
雨が降ることもある。
雨滴は赤い岩を濡らし、窪みに溜まり、やがて蒸発する。
その跡には白や黄色の結晶が残った。
森はない。
草原もない。
都市もない。
東京も。
ニューヨークも。
上海も。
ロンドンも。
かつて数百万、数千万の人間が暮らした場所に、文明を思わせるものはほとんど残されていなかった。
五千年という時間は長い。
まして、その間に地球そのものが変わり続けたのであれば。
◇
赤い荒野に亀裂が走っていた。
幅はわずか数センチ。
その奥で何かが動く。
灰色のものだった。
最初は薄い膜のように見えた。
それが岩肌を這う。
ゆっくりと広がり、分かれ、再び繋がる。
粘菌。
かつて人類が知っていたものとは比較にならないほど巨大化し、この環境に適応した生物群の一つ。
地表近くに張り巡らされた亀裂は、彼らの巣でもあった。
何かが近づく。
小さな六脚生物。
乾燥した地表を素早く走り、岩陰から岩陰へ移動していく。
亀裂の横を通過した。
地面が動いた。
灰色の塊が噴き出す。
六脚生物が跳ねた。
遅い。
細長く伸びた粘菌が脚へ絡みついた。
六脚生物が暴れる。
一本が千切れる。
だが千切れた組織も動いていた。
次々と亀裂から溢れ出した灰色の塊が獲物を包み込む。
やがて動きが止まった。
粘菌は獲物を覆ったまま、ゆっくりと亀裂の中へ戻っていった。
数分後。
赤い大地には何も残っていなかった。
◇
昼の地表に、大きな生物の姿はほとんどなかった。
暑すぎる。
そして危険すぎる。
だが地下には、別の世界があった。
かつて人工物だったものの残骸。
崩壊した地下施設。
自然に形成された洞窟。
岩盤の隙間。
そこに、生物たちは身を潜めていた。
暗闇の中。
何かが動いた。
二本の脚。
二本の腕。
頭部。
輪郭だけなら、かつての人間に似ていた。
だが、それを人間と呼ぶことは難しい。
小柄な身体。
異様に細い四肢。
全身を覆う厚い皮膚。
皮膚表面からの水分蒸発を抑える膜。
強烈な紫外線から組織を守る色素。
鼻はほとんど隆起していない。
口も小さい。
呼吸器官は毒性物質を排除しながら、必要な気体だけを効率よく取り込める構造へ変化していた。
腎臓に相当する器官は、水分をほとんど失わない。
細胞には強力な遺伝子修復機構がある。
わずかな食物からでも生存に必要なエネルギーを取り出せる。
偶然生まれた生物ではない。
その祖先は、自らこの道を選んだ。
人間だった。
◇
地球を離れなかった者たちがいた。
離れられなかった者もいた。
地球を捨てることそのものを拒んだ者もいた。
彼らもまた、生きようとした。
都市を密閉した。
地下へ潜った。
海上へ逃れた。
軌道上へ生活圏を移した者たちもいた。
環境を修復しようとした者もいた。
長期休眠を利用し、何世代にも及ぶはずの時間を越えようとした計画もあった。
だが、地球は戻らなかった。
環境は変わり続けた。
やがて、人間は別の方法を選んだ。
地球を人間に合わせられないのなら。
人間を、地球に合わせればいい。
◇
最初の改変は小さなものだった。
高温耐性。
毒物耐性。
放射線耐性。
水分保持能力。
遺伝子修復能力。
それでも足りなくなった。
環境が変わるたび、新たな改変が加えられた。
肺が変わった。
皮膚が変わった。
血液が変わった。
内臓が変わった。
食べられるものが変わった。
世代を重ねるたびに、人間は地球で生きることに特化していった。
そして、長い時間が過ぎた。
文明を維持するために必要だったものが、一つずつ失われていった。
大規模な社会を維持できなくなった。
記録を残す余裕がなくなった。
教育が途絶えた。
言葉が単純になった。
やがて、言葉そのものが消えた。
それでも生命は続いた。
生存するだけなら、複雑な思考は必要なかった。
巨大な脳は大量のエネルギーを消費する。
食料の乏しい世界では、それは大きな負担だった。
自然選択と、過去に施された数え切れないほどの遺伝子改変。
その積み重ねの果てに。
彼らは、最後の一つまで捨てた。
知性。
かつて星の外へ手を伸ばした頭脳は、もう必要ではなかった。
◇
暗闇の中で、人間だったものが目を開いた。
地表から差し込む光が弱くなっている。
夜が近い。
一匹が動く。
それに続いて、別の個体も身体を起こした。
彼らは言葉を交わさない。
必要がない。
匂い。
音。
わずかな動き。
それだけで十分だった。
やがて一匹が地表へ向かった。
赤い大地に頭を出す。
周囲を確認する。
粘菌はいない。
大型の捕食生物もいない。
地表へ出た。
その後から、何匹もの影が続いた。
◇
夜。
昼間の熱が急速に失われ、赤い荒野に冷たい風が吹き始める。
人間だったものたちは散っていった。
岩の下を探る。
小さな生物を捕らえる。
地面に溜まったわずかな水分を舐め取る。
すべて、生きるためだった。
一匹が亀裂へ近づいた。
そこに小さな生物がいた。
腕を伸ばす。
その瞬間。
亀裂の奥で灰色のものが動いた。
人間だったものが飛び退く。
粘菌が噴き出した。
細長い組織が脚を掠める。
逃げる。
粘菌が追う。
別の個体たちは近づかなかった。
助けない。
仲間という概念がないわけではない。
だが、この世界では自分まで捕食される行動を取る個体は生き残れない。
捕らえられた一匹が地面へ倒れた。
粘菌が身体を覆っていく。
暴れる。
口が開く。
だが悲鳴はない。
複雑な発声能力も、とうの昔に失われている。
やがて動かなくなった。
残ったものたちは距離を取り、粘菌が獲物とともに亀裂へ消えていくのを待った。
そして再び行動を始めた。
それが、この星の日常だった。
◇
しばらくして。
一匹が足を止めた。
食料を見つけたわけではない。
敵を察知したわけでもない。
ただ、止まった。
そして顔を上げた。
濁った大気の向こう。
夜空に、星が見えていた。
人間だったものは、それを見つめた。
何かを考えている様子はない。
星というものを知らない。
宇宙を知らない。
惑星を知らない。
自分が立っている世界に、地球という名前があったことも知らない。
それでも見ていた。
やがて、別の一匹が足を止める。
空を見る。
もう一匹。
さらにもう一匹。
赤い荒野のあちこちで、人間だったものたちが顔を上げ始めた。
不思議な習性だった。
夜になると地表へ出る。
それには理由がある。
昼間の高温を避けるため。
食料を探すため。
水分を得るため。
捕食者から身を守るため。
だが、空を見る必要はない。
生存には何の役にも立たない。
星を見ても食料は得られない。
水も得られない。
敵を避けられるわけでもない。
それなのに。
彼らは夜になると、空を見上げた。
何千年も前から続いている習性だった。
◇
かつて、この星に人間という生物がいた。
海を渡った。
空を飛んだ。
月へ行った。
惑星へ行った。
そして最後には、恒星と恒星の間に広がる闇へ船を送り出した。
その一部は、この星を去った。
残った者たちは、生きるために変わり続けた。
身体を変えた。
姿を変えた。
暮らしを変えた。
言葉を失った。
文化を失った。
歴史を失った。
最後には、自分たちが何者だったのかを考える知性さえ失った。
もう、何も覚えてはいない。
それでも。
◇
赤い大地の上。
かつて人間だったものたちは、夜空を見上げていた。
濁った大気の向こうで、無数の星が瞬いている。
その星々のどこかに、自分たちと同じ祖先を持つ者たちが今も生きていることなど、知るはずもない。
遠い昔。
同じ地球に生まれ。
同じ空を見上げ。
やがて星の海へ旅立っていった者たち。
なぜ空を見るのか。
もう、その理由を知る者はいない。
ただ、その姿は――
遠い昔、星の海へ旅立っていった、かつての同胞たちを想っているかのようだった。
――第六十二話 故郷 了




