第60話 航路
「候補天体三一七。第六次解析を終了」
静かな声が管制区画に響いた。
返事はない。
必要がないからだ。
正面の表示領域に、新しい数値が追加されていく。
恒星質量。
推定年齢。
放射活動。
惑星質量。
公転周期。
表面重力。
大気圧。
平均表面温度。
水蒸気量。
酸素濃度。
二酸化炭素濃度。
液体水存在確率。
どれも単独なら珍しいものではない。
人類が恒星間航行を始めて以来、居住可能性を持つ惑星はいくつも発見されている。
問題は、それらの条件が同時に揃うことだった。
「総合移住適性」
「九三・六」
数人の視線が表示へ向いた。
それだけだった。
歓声は上がらない。
誰かが笑うこともない。
「前回との差異は」
「プラス二・一」
「要因」
「大気モデルの修正。水蒸気量の推定精度が上昇しました。また、地表に液体水が安定して存在する確率を上方修正」
「生物圏」
「不明」
「病原性生物」
「不明」
「大気毒性」
「既知の無機物については許容範囲」
「未知物質」
「現在の距離では判定不能」
質問も回答も淡々と続く。
やがて中央に座る一人が口を開いた。
「観測を継続」
「了解」
表示領域の隅に識別番号が記録される。
C-00481。
この区画の統括担当者を示す番号だった。
名前ではない。
ここにいる者に、名前は必要なかった。
◇
航行開始から、二千五百年近い時間が経過していた。
出発時の乗員は一人も残っていない。
その子供もいない。
孫もいない。
何世代前まで遡れば出発時の人間へ辿り着くのか、日常生活で意識する者すらほとんどいなかった。
記録を検索すれば分かる。
必要がないから検索しない。
彼らにとって船は移動手段ではなかった。
世界だった。
空気は循環する。
水は循環する。
炭素も窒素も循環する。
食料は生産され、廃棄物は分解され、再び生産系へ戻される。
人口も同じだった。
必要人口が算出される。
出生数が決められる。
教育内容が調整される。
職業ごとの必要人数が計算され、それに合わせて人員が配置される。
誰かが、それを不自由だと言ったわけではない。
少なくとも、現在の社会では。
それ以外の生き方を知らないのだから。
◇
「B-11803」
呼ばれた青年が顔を上げた。
「はい」
「適性再評価が終了しました」
壁面に結果が表示される。
船体構造保全。
生命維持系補助。
外部作業。
生物環境調査。
いくつもの項目が並んでいる。
「第一希望は生物環境調査」
「はい」
「現在の必要人員を超過しています」
「そうですか」
「船体構造保全への配置を推奨」
青年は表示を見た。
表情は変わらない。
「拒否した場合は」
「第二希望が再評価されます。ただし船体構造保全の人員不足が予測されています」
「選択権はありますか」
「あります」
「船体構造保全を選択します」
「登録します」
端末に新しい所属が記録された。
青年は席を立つ。
「以上です」
「了解」
扉へ向かう。
その途中で足を止めた。
壁面には、現在観測中の候補惑星一覧が表示されていた。
最上段。
候補天体三一七。
総合移住適性、九三・六。
青年は数秒だけそれを見る。
「質問があります」
担当者が顔を上げる。
「どうぞ」
「この惑星が最終目的地に選定された場合、到着後も職業配置は維持されますか」
「初期定住期間については維持される予定です」
「期間は」
「未定」
「その後は」
「社会状況に応じて再評価されます」
青年は少し黙った。
「そうですか」
「ほかに質問は」
「ありません」
青年は区画を出ていった。
◇
候補天体三一七の観測は、その後も続いた。
七次。
八次。
九次。
観測データが増えるほど、評価値は上昇した。
「大気中酸素濃度、推定値を更新」
「許容範囲」
「平均気温」
「許容範囲」
「表面重力」
「〇・九七標準重力」
「液体水」
「存在確率九九・八以上」
「恒星活動」
「長期安定性に問題なし」
C-00481は報告を聞き続けた。
「総合移住適性」
「九五・一」
わずかな沈黙。
「他候補との比較」
一覧が表示された。
第一候補だった天体の評価は九〇・二。
第二候補、八八・七。
三番目はさらに低い。
そして候補天体三一七。
九五・一。
「航路変更に伴う資源消費」
「許容範囲」
「推進系への負荷」
「問題なし」
「到着時人口予測」
「維持基準内」
「変更後の資源予備率」
「一八・四パーセント」
「現在航路の場合は」
「一六・九」
条件は、むしろ良くなる。
C-00481は表示を見た。
「最終確認を実施」
「了解」
◇
二日後。
管制区画に主要担当者が集められた。
といっても、特別な式典が行われるわけではない。
音楽もない。
演説もない。
表示領域には、一つの惑星を示す識別記号と数値だけが並んでいる。
「最終解析結果」
「総合移住適性、九五・三」
「航路変更可能時間」
「基準内」
「重大な懸念事項」
「現在の観測範囲では確認されていません」
「移住成功確率」
「九七・八パーセント」
C-00481は数秒間、数値を確認した。
「異議」
誰も発言しない。
「航路変更を承認します」
「了解」
操作が実行された。
船の姿勢制御系が作動する。
人間の身体では感じ取れないほど緩やかに、巨大な船の進行方向が変わり始めた。
その瞬間、何千人もの人間の未来が変わった。
だが船内で、その事実を知った者の多くは普段通り生活していた。
食事を取る者。
保守作業をする者。
教育を受ける者。
眠っている者。
出生管理の面談を受ける者。
誰かが喜びの声を上げることもなかった。
航路が変更された。
ただ、それだけのことだった。
◇
B-11803は自室に戻っていた。
個室と呼ばれているが、広くはない。
寝台。
収納。
端末。
小さな机。
必要なものは揃っている。
必要でないものはない。
端末を起動する。
航路変更の通知が表示されていた。
《第一移住候補を変更》
《候補天体三一七》
《移住適性評価 九五・三》
《各員の配置計画については順次更新》
青年は通知を閉じなかった。
しばらく表示を見ていた。
やがて、詳細情報を開く。
そこには観測から推定された環境情報が並んでいた。
大気。
水。
重力。
気温。
彼が見ていたのは数値ではなかった。
《閉鎖型生命維持装置を使用せず生存可能である確率――高》
その一文だった。
「……閉鎖されていない」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
端末が音声を認識する。
『質問を入力してください』
「質問ではありません」
『了解』
青年は表示を閉じた。
壁を見る。
その向こうにも区画がある。
さらにその向こうにも壁がある。
天井がある。
床がある。
生まれた時からそうだった。
彼の両親も。
その両親も。
記録に残っている限り、何十世代もの人間がそうだった。
B-11803は寝台へ腰を下ろした。
表情は変わらない。
ただ、もう一度端末を開いた。
航路情報を表示する。
候補天体三一七。
その横に、新しい数字が追加されていた。
《目的惑星到着予定時間――十二年》
青年はその数字をしばらく見ていた。
そして端末を閉じた。
――第六十話 航路 了




