第51話 鎮まれ、俺の右手
マリスの海から帰還して数日。
天城蓮は、久しぶりに何もすることのない時間を過ごしていた。
正確には、何もすることがないのではない。最高責任者として確認しなければならない報告書はいくらでもあるし、《深淵》崩壊に関する調査結果も上がってきている。忌地へ繋がっていた転送経路が完全に失われたことについても、今後の方針を決めなければならない。
ただし、それらについて神崎美冬から言い渡された言葉は単純だった。
「三日くらい大人しくしてて」
最高責任者に対する言葉とは思えない。
しかし、深海でパワーアーマーを失い、リヴァイアサンと一緒に海底へ沈み、一時は生死不明になった人間に反論する権利はなかった。
アルベルトからも、
「しばらくダンジョンには近づくな」
と言われた。
「お前にだけは言われたくない」
と返したが、今回は珍しく反論されなかった。
そんなわけで蓮は、自室のソファに寝転がっていた。
「暇だ」
『安静にしてください』
「もう治ってるよ」
『肉体的には』
「何その含みのある言い方」
『精神面については以前から判断を保留しています』
「失礼だな」
蓮はソファの上で寝返りを打った。
その時だった。
右手に妙な感覚が走った。
「……ん?」
右手を見る。
何もない。
握る。
開く。
もう一度握る。
「イザナミ」
『はい』
「右手が変」
『具体的にお願いします』
「なんか……変」
『具体性が皆無です』
「むずむずするっていうか、痺れとも違うし……中で何か動いてるような」
数秒の沈黙。
『検査します。そのまま動かさないでください』
「はいはい」
蓮は右腕を伸ばした。
室内の医療センサーに加え、体内に常駐するナノマシンから情報が収集される。
十秒ほどして、イザナミが答えた。
『生体組織に異常はありません。神経系にも問題なし。血流正常』
「じゃあ気のせい?」
『ただし、一点確認しました』
蓮は嫌な顔をした。
「その言い方、絶対ろくでもないやつだよね」
『右手から前腕にかけて、異種ナノマシン由来と推定される微細構造を検出しました』
「……はい?」
蓮は右手を見る。
「異種って、どの異種?」
『リヴァイアサンを侵食していたものです』
「残ってんの!?」
蓮は思わず右手を身体から遠ざけた。
『正確には、同一由来と推定される構造です』
「いやいやいや、待って。全部置換したよね?」
『リヴァイアサン内部については』
「俺の方に入ってたの?」
『救命処置の最終段階において、あなたはリヴァイアサンの組織と広範囲に直接接触しています。その際、相互にナノマシンの移動が発生した可能性があります』
蓮はしばらく右手を見つめた。
何も変わっていない。
いつもの手だ。
指も五本ある。
変な眼が開いているわけでもない。
「……取れる?」
『検討します』
「今すぐ取ろうよ」
『待ってください』
「なんで?」
また数秒。
『予想外の反応を確認しました』
「だからその言い方やめて」
『異種ナノマシンのみを選択的に排除しようとしたところ、あなたのナノマシンが処理を阻害しました』
蓮は瞬きをした。
「……俺の?」
『はい』
「俺のナノが、あいつらを守ってる?」
『守るという表現が適切かは不明ですが、少なくとも異物として排除していません』
「なんで?」
『不明です』
「イザナミでも?」
『現時点では』
蓮は右手を裏返した。
掌。
手の甲。
また掌。
見た目は何も変わらない。
「融合したとか?」
『可能性はあります。ただし、人類製ナノマシンと異種ナノマシンの境界が一部で不明瞭になっています』
「それ結構ヤバくない?」
『現時点で身体への悪影響は確認されていません。異種ナノマシンの活動性も極めて低い状態です』
「じゃあ、とりあえず経過観察?」
『それが最も安全と判断します』
「そっか……」
蓮は右手を見つめた。
しばらく。
じっと。
そして突然、左手で右手首を掴んだ。
「くっ……!」
『蓮?』
蓮は苦悶の表情を浮かべる。
「鎮まれ……俺の右手……!」
『……』
「今はまだ、お前の力を解放する時ではない……!」
『……』
「頼む……俺の意識があるうちに……鎘まってくれ……!」
『蓮』
「何?」
『地球には昔、中二病という疾患があったと聞きます』
「疾患じゃねえよ」
『症状が酷似しています』
「違う。これは男なら一度くらいやってみたい由緒正しいやつだ」
『二十七歳でも発症するのですね』
「発症って言うな」
『医療記録への追記は必要でしょうか』
「絶対やめろ」
『では経過観察とします』
「異種ナノじゃなくて俺の中二病を経過観察するなよ」
蓮は右手をぶらぶら振った。
特に何も起きない。
「まあ、変なことが起きたら教えて」
『当然です』
「第三の眼とか生えてきたら、早めにお願いね」
『その場合は違和感を覚える以前に報告します』
「よろしく」
蓮は再びソファへ寝転がった。
そこで部屋の扉が開いた。
「蓮?」
入ってきたのはリシェルだった。
「何をしていたのです?」
「何も」
「今、何か叫んでいませんでした?」
「叫んでない」
『鎮まれ、俺の右手、と発言していました』
「イザナミ!」
リシェルが蓮の右手を見る。
「右手がどうかなさったのですか?」
「いや、違うんだ。これは――」
『異種ナノマシンが残留しています』
「そこから説明する!?」
リシェルの顔色が変わった。
「大丈夫なのですか!?」
「大丈夫、大丈夫。今のところ何も問題ないから」
リシェルは蓮の前まで来ると、右手を両手で掴んだ。
「本当に?」
「本当に」
右手をじっと観察する。
心配してくれているのはありがたいのだが、あまりにも真剣なので蓮の方が困ってしまう。
「痛くはないのですか?」
「全然」
「苦しくも?」
「ないよ」
「では、なぜ鎮まれと?」
「そこに戻る?」
リシェルが首を傾げた。
蓮は少し考えた。
説明が難しい。
「地球に昔からある伝統みたいなもの」
『違います』
「イザナミ、黙ってて」
「伝統……?」
「右手に変な力が宿ったら、一回くらい言っとかないと」
「そうなのですか」
「そうなの」
『違います』
リシェルはしばらく考えたあと、蓮の右手を両手で包んだまま目を閉じた。
「……鎮まりなさい」
「やらなくていいから」
「私もお手伝いします」
「やめて。恥ずかしくなってきた」
『正常な反応です』
「お前は本当に今日よく喋るな」
リシェルはまだ心配そうだったが、やがて蓮の右手を離した。
「何かあったら、すぐに教えてください」
「分かった」
「絶対ですよ」
「分かったって」
リシェルはようやく安心したように頷いた。
蓮は再び右手を見る。
違和感は消えていた。
「……何だったんだろ」
『継続的に監視します』
「頼むよ」
蓮は深く考えなかった。
リヴァイアサンを救うために、互いのナノマシンが直接ぶつかり合った。その残滓が少し身体に残った。それくらいに考えていた。
実際、その後しばらく右手に異常は起きなかった。
◇
その日の深夜。
蓮は眠っていた。
呼吸も脈拍も正常。
体内の人類製ナノマシンも通常通り活動している。
右手も同じだった。
異種ナノマシン由来の微細構造は活動を停止し、人類製ナノマシンの中に紛れるように存在している。
だが。
一瞬だけ。
変化が起きた。
右手の組織内で、人類製ナノマシンが集まった。
その中心に異種ナノマシンがある。
接触。
結合。
構造変化。
それまで存在しなかった配列が形成された。
人類製ではない。
異種ナノマシンとも完全には一致しない。
その中間。
あるいは、そのどちらでもないもの。
『……』
イザナミは変化を検出した。
解析を開始する。
しかし数秒後、その構造は何事もなかったかのように分解され、通常状態へ戻った。
『解析不能』
イザナミは記録を保存した。
蓮を起こすべきか。
判断する。
現時点で生命活動への影響はない。ナノマシン制御系への異常もない。外部との通信も確認できない。
緊急性なし。
監視継続。
そう判断した。
ベッドの上で蓮が寝返りを打つ。
「……鎮まれ……」
寝言だった。
『……』
イザナミは数秒沈黙した。
『やはり中二病の経過観察も必要でしょうか』
返事はない。
蓮は眠っている。
右手にも、もう何の変化もなかった。
少なくとも。
その夜は。
――第五十一話 鎮まれ、俺の右手 了




