第50話 竜の記憶
暗い。どこまでも暗かった。
冷たいはずなのに寒くない。苦しいはずなのに息苦しくもない。身体の感覚すら、もうほとんど残っていなかった。
蓮は、自分がどこにいるのか分からなかった。
最後に覚えているのは、リヴァイアサンの額だった。潰れた第三の眼、そこから伸びてきた赤黒い組織。全身へ絡みついた触手と、侵食され崩れていくパワーアーマー。
そして装甲が失われ、自分の皮膚がリヴァイアサンの組織へ直接触れた瞬間、異種ナノマシンの置換速度が爆発的に上昇した。
『九十七パーセント』
イザナミの声が聞こえた。
『九十八……九十九――』
そこで、蓮の意識は途切れた。
◇
光があった。
揺らめく青い光。
蓮が目を開けると、そこにはどこまでも澄んだ海が広がっていた。太陽の光が海面を貫き、幾筋もの光となって降り注いでいる。
魚の群れが横切った。その向こうから、何人もの子供たちが泳いでくる。
耳の後ろにヒレがあり、首には鰓がある。
マリスの民。
だが、蓮の知る彼らではなかった。衣服も装飾も違う。遥か昔、まだ小さかった海中都市で暮らしていた者たちだった。
『来た!』
『リヴァイアサン!』
子供たちが笑いながら近づいてくる。
蓮は彼らを見ていた――いや、違う。
見下ろしている。
視点が異様に高い。
子供たちは巨大な青い背中へ次々とよじ登ってきた。
『今日は向こう!』
一人が指を差した。
――嫌だ。
突然、自分ではない感情が流れ込んできて、蓮は戸惑った。
「……俺じゃない」
――今日は、そっちへ行きたくない。
巨大な尾が動き、子供が指差した方向とは反対へ泳ぎ始める。
『違うって! そっちじゃない!』
『リヴァイアサン!』
背中で騒ぐ子供たち。
――うるさい。
そう思っている。
だが、嫌ではない。
むしろ楽しい。
巨大な身体が少しだけ速度を上げると、抗議していた子供たちの声が歓声へ変わった。
『速い!』
『もっと速く!』
その声を聞くと嬉しい。
この小さな者たちが、自分の背中で笑っていることが嬉しい。
蓮はようやく理解した。
「これ……お前の記憶か」
返事はなかった。
それでも、答えは分かっていた。
◇
風景が次々と変わった。
今より遥かに小さな海中都市。そこへ巨大な青い竜が近づくと、マリスの民が手を振って迎える。
魚を持ってくる者がいる。身体についた寄生生物を取ってくれる者がいる。傷を見つければ、自分たちより遥かに巨大な身体を相手に必死になって治療しようとする者もいた。
リヴァイアサンから見れば、何もかも小さい。
弱い。脆い。
それなのに彼らは自分を恐れない。
また景色が変わる。
傷ついたヴェルカが横たわっている。その傍らでは、幼いマリスの子供が泣いていた。
巨大な鼻先を近づけ、ナノマシンを流し込む。裂けた組織が繋がり、やがてヴェルカが目を開けた。
子供が笑う。
その笑顔を見て、リヴァイアサンも嬉しくなる。
ただ、それだけだった。
◇
時間が流れていく。
背中に乗っていた子供が大人になり、自分の子供を連れてくる。その子もまたリヴァイアサンの背中へ乗り、親と同じように騒いだ。
さらに時間が流れる。
その者も老いる。
そして、来なくなる。
昨日まで魚を持ってきた者がいない。いつも槍を磨いていた者もいない。背中へ乗ると必ず左の角を掴んでいた者も、ある日を境に姿を見せなくなった。
待つ。
今日も来ない。次の日も来ない。
やがて理解する。
死。
もう戻らない。
悲しい。
けれど、また次の世代がやってくる。
新しい小さな手が、自分の身体へ触れる。
そして笑う。
だから、リヴァイアサンは思った。
――小さき者たちは弱い。傷つきやすく、自分より遥かに早くいなくなってしまう。
だからこそ、守る。
その意志が何世代もの記憶とともに積み重なり、蓮の中へ流れ込んでくる。
単純だった。
だが、何よりも強かった。
守る。
この小さき者たちを。
◇
やがて青かった景色が暗くなった。
《深淵》。
額へ入り込んだ異物。
第三の眼。
侵食され、黒く変わっていく鱗。
自分の意思では動かなくなっていく身体。
そして、自らの意思で必死に閉じ続けた口を内側から吹き飛ばし、放たれた白い閃光。
怖かった。
自分の身体が、自分のものではなくなっていく。
助けてほしい。
帰りたい。
遠くに海中都市の灯りが見えた。
そこには小さき者たちがいる。
自分を待っている。
帰りたい。
だが、行けない。
もし身体が勝手に動いたら。
もし、あの光を彼らへ向けて放ってしまったら。
だからリヴァイアサンは都市へ背を向けた。
自分が彼らを傷つけないために、自ら《深淵》へ戻り、誰もいない場所へ閉じこもった。
それもまた、守るためだった。
◇
百年。
千年。
時間が流れていく。
名前を忘れた。
海の色を忘れた。
背中に乗っていた子供たちの顔も忘れていった。
自分が何者だったのかさえ分からなくなる。
それでも、最後まで消えなかったものがあった。
小さき者たちを守る。
その意志だけは、第三の眼に身体を奪われても、数千年という時間に記憶を削られても、完全には消えなかった。
◇
気がつくと、蓮は再び青い海にいた。
目の前にリヴァイアサンがいる。
青い鱗。
第三の眼もない。
遥か昔の姿だった。
巨大な竜が静かに蓮を見ている。
「……そっか」
蓮はようやく分かった。
「お前、ずっと守ってたんだな」
返事はない。
言葉など必要なかった。
蓮は巨大な鼻先へ手を伸ばした。
触れる。
温かい。
「もう大丈夫だよ」
リヴァイアサンが蓮を見る。
「ちゃんといるから」
夢の中の海中都市。その中で笑っていた者たち。
何千年経っても、その子孫たちはまだあの海で暮らしている。
「だからさ……もう、休んでいいよ」
リヴァイアサンはしばらく蓮を見つめていた。
そして静かに目を閉じた。
青い海が、光に包まれた。
◇
深海。
黒い巨体がゆっくりと沈んでいた。
その額には、もう第三の眼はない。
やがて一枚の鱗から黒が消えた。
青。
そこから次の鱗へ。さらにその隣へ。
黒一色だった巨体を、深い青が少しずつ覆っていく。首から背へ、四肢へ、そして長い尾へ。
数千年ぶりに、海神が本来の色を取り戻していく。
やがて二つの眼が開いた。
リヴァイアサンは、自分の意思で目を開けた。
そして額の近くに漂っている、小さな生き物を見た。
蓮。
動かない。
だが、生きている。
自分を取り戻してくれた者。
その姿を見た瞬間、遥か昔から身体の奥底に残っていた意志が蘇った。
――守る。
リヴァイアサンのナノマシンが動いた。
蓮の周囲から海水が押し退けられ、透明な気泡が形成される。内部の圧力と酸素濃度が調整され、意識を失った蓮の身体を包み込んだ。
かつて傷ついたヴェルカを助けた時のように。
今度は、この小さな者を守る。
リヴァイアサンは巨大な尾を動かした。
暗い深海から、光のある場所へ向かって。
◇
海上では、人類側の探査チームとアルベルト、ネレウス、そしてマリスの戦士たちが集まっていた。
誰もその場を離れようとはしない。
「……まだ反応はないのか」
アルベルトが聞いた。
「ありません。アーマー信号も生体反応も確認できません」
技術者の答えに、アルベルトは海を睨んだ。
「まだ見つかっていない」
「ですが――」
「見つかっていないなら、まだ死んでいない」
ネレウスも何も言わず、海面を見つめ続けていた。
その時だった。
「待ってください!」
観測員が突然声を上げた。
「下から何か来ます!」
全員が振り返る。
「巨大生体反応! 深度八百、急速浮上!」
ネレウスが槍を握り、マリスの戦士たちも身構えた。
「リヴァイアサンです!」
「五百! 三百! 速い!」
アルベルトも剣へ手をかける。
だが、観測員が戸惑った。
「……おかしい」
「何がだ?」
「光学反応が違います」
次の瞬間、海面が大きく盛り上がった。
◇
青だった。
最初に見えたのは、深い青。
海水を押し退けて、巨大な頭部が海面へ現れた。
誰も動かなかった。
ネレウスの手から槍が落ちる。
「……海神様」
黒くない。
第三の眼もない。
古い伝承にだけ残されていた青き海神、リヴァイアサン。
数千年ぶりに、その姿でマリスの民の前へ帰ってきた。
そして巨大な頭部の傍らには、透明な気泡が浮かんでいた。
その中に人がいる。
アルベルトが叫んだ。
「蓮!」
気を失っている。
だが、胸が僅かに動いている。
「生きてる!」
探査チームから歓声が上がった。
ネレウスがヴェルカを走らせる。
「創造神様!」
リヴァイアサンは抵抗しない。
ネレウスが近づくと、気泡をゆっくりと彼の方へ移動させた。
まるで、大切なものを託すように。
ネレウスが蓮を抱き取る。
「呼吸あり! 艇へ!」
人類側の隊員たちが蓮を受け取り、アルベルトが駆け寄った。
「蓮!」
蓮の瞼が僅かに動いた。
「……うるさ……」
アルベルトが固まった。
蓮は薄く目を開ける。
「……生きてるよ……」
「馬鹿者!」
「第一声……それ?」
そう言うと、蓮は再び目を閉じた。
今度は、ただ眠っただけだった。
◇
リヴァイアサンは海面に巨大な身体を浮かべたまま、動こうとしなかった。
ただ、マリスの民を見ている。
ネレウス。
戦士たち。
ヴェルカ。
騒ぎを知って集まってきた者たち。
一人、また一人。
確かめるように、ゆっくりと眺めている。
当然ながら、その中にリヴァイアサンが知っている者は一人もいない。
数千年。
あまりにも長い時間だった。
それでも分かる。
あの小さき者たちだ。
自分が守ろうとした者たちの子孫。
姿も変わった。都市も変わった。
何百世代という命が繋がった。
そして今も、彼らは生きている。
それだけでよかった。
◇
蓮が再び目を覚ました時も、リヴァイアサンはまだそこにいた。
「……イザナミ」
『はい』
「成功したんだよな」
『異種ナノマシンの排除および置換は完了しています』
「そっか……よかった」
蓮は身体を起こしかけ、リヴァイアサンを見て動きを止めた。
何かがおかしい。
「イザナミ」
『はい』
「……あいつ、大丈夫なの?」
返事が遅れた。
「イザナミ」
『リヴァイアサンの全身で、不可逆的な崩壊が始まっています』
蓮の表情が消えた。
「俺のナノで止められない?」
『できません』
「なんで」
『異種ナノマシンは数千年にわたり、リヴァイアサンの生命維持機構そのものの一部を代替していました。我々のナノマシンによる置換で一時的な生命維持には成功しましたが、肉体そのものが既に本来の寿命を遥かに超えています』
蓮は何も言えなかった。
傷なら治せる。
失われた組織なら作れる。
だが、数千年という時間そのものを無かったことにはできない。
◇
最初に消えたのは、尾の先だった。
青い鱗がさらさらと崩れ、細かな塵となって海へ舞った。
「海神様……?」
ネレウスが気づいた。
次第に崩壊は尾から後肢へ、胴へと広がっていく。
「海神様!」
マリスの民が騒ぎ始めた。
ネレウスが近づこうとする。
だが、リヴァイアサンは逃げることも苦しむこともなく、ただ彼らを見ていた。
蓮も何も言わなかった。
夢の中で見た光景を思い出していた。
背中に乗って騒いでいた子供たち。
魚を持ってきた者。
傷を治してくれた者。
何世代も見送り、それでも次の世代を守り続けた青い竜。
何千年もの暗闇の中で、最後まで残っていた意志。
小さき者たちを守る。
それだけだった。
◇
リヴァイアサンが蓮を見た。
二つの眼。
もう第三の眼はない。
蓮も見返した。
「……よかったな」
ネレウスが振り返る。
「何が……です?」
蓮は海神を見たまま答えた。
「あいつが見たかったもの、ちゃんと残ってた」
リヴァイアサンは再びマリスの民を見る。
一人一人を、ゆっくりと。
ひとしきり眺めたあと、その顔が僅かに変わった。
竜の顔だった。
人とはまったく違う。
表情の作り方すら違う。
それなのに、その場にいた全員が同じことを感じた。
海神が、笑った。
ネレウスの目から涙が流れた。
「海神様……」
巨大な身体が青い塵となって崩れていく。
胴が消え、首が消え、最後まで残っていた頭部も輪郭を失っていった。
それでも二つの眼は、最後までマリスの民を見ていた。
恐怖も悲しみもない。
穏やかな眼だった。
やがて、その眼も青い塵へ変わった。
風が吹く。
無数の青い粒子が海上へ舞い上がり、太陽の光を受けて一瞬だけ輝いた。
そして海へ、空へ、静かに散っていった。
海神リヴァイアサンは、数千年ぶりに自分を取り戻し、自分が守り続けた者たちを見届けて消えた。
◇
しばらくして、アルベルトが蓮へ声をかけた。
「……蓮」
「夢を見たんだ」
「夢?」
「あいつの記憶だった」
蓮は、もう何もいない海を見つめた。
「ずっと昔のさ。マリスの子供たちを背中に乗せて泳いでた。うるさいとか思ってるくせに、結局振り落とさないんだよ」
ネレウスが静かに聞いていた。
「楽しかったみたいだ」
蓮は少し笑った。
「ここの連中のこと、本当に好きだったんだな」
ネレウスは目を閉じる。
「だから何千年も……」
「ああ」
蓮は頷いた。
「ずっと守ってた」
ネレウスは海へ向き直り、深く頭を下げた。
◇
それから一月ほどが経った。
蓮たちは既にマリスの都市を離れていた。
《深淵》は崩壊し、忌地へ繋がっていた転送経路も失われた。海神リヴァイアサンも、もういない。
それでもマリスの民の生活は続いていた。
ある日、海中都市の外れで子供が声を上げた。
『何かいる!』
岩陰から、小さな頭が覗いていた。
青い。
『ヴェルカ?』
違う。
細長い首に小さな角。四肢と長い尾。そして、鮮やかな青い鱗。
騒ぎを聞いて駆けつけたネレウスは、その姿を見て立ち止まった。
まだ幼い。
体格も、かつての海神とは比べものにならないほど小さい。
それでも似ていた。
あまりにもよく似ていた。
古い伝承に残され、一月前に自分たちの目の前で消えていった、青き海神に。
◇
幼竜は、その日だけ現れた。
だが翌日も来た。
その次の日も。
最初は岩陰からこちらを見ているだけだったが、ある日、子供の一人が魚を置いた。
幼竜が恐る恐る近づき、匂いを嗅いでから食べる。
『食べた!』
子供たちが一斉に喜び、驚いた幼竜は逃げていった。
だが翌日、また来た。
やがてヴェルカと一緒に泳ぐようになり、マリスの戦士たちにも近づくようになった。
いつしか誰も、その青い幼竜を追い払おうとはしなくなった。
幼竜もまた、マリスの民とともにこの海で暮らすようになった。
◇
ある日、一人の子供が幼竜の背中へ乗った。
『乗れた!』
それを見て別の子供も乗る。
『私も!』
三人、四人。
幼竜が嫌そうに振り返った。
それでも振り落とさない。
ネレウスは少し離れたところから、その光景を眺めていた。
遥か昔のことなど、彼は知らない。
青き海神が同じように子供たちを背中へ乗せ、迷惑そうにしながら海を泳いでいたことなど知るはずもない。
それなのに。
なぜか笑ってしまった。
幼竜が尾を振り、泳ぎ始める。
『速い!』
『もっと速く!』
子供たちの歓声が青い海へ響いた。
幼竜は少し迷惑そうにしながら、それでも子供たちを振り落とすことなく、海の向こうへ泳いでいった。
その幼竜と、かつてのリヴァイアサンにどのような関係があるのか。
誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは、その青い竜もまた、小さき者たちをとても気に入っているらしいということだった。
――第五十話 竜の記憶 了




