第49話 青き竜神
海は、青かった。
陽光が海面を貫き、揺らめきながら深い海へ降り注いでいる。その光の中を、巨大な影が悠然と泳いでいた。
百メートルを優に超える巨体。長い首、強靱な四肢、海水を大きく押し退ける尾。
全身を覆う鱗は、深い海をそのまま写し取ったような青だった。
後の時代、マリスの民が海神と呼ぶことになる存在。
リヴァイアサン。
まだ、その額に第三の眼はなかった。
◇
リヴァイアサンは考える。
人間ほど複雑ではない。いくつもの言葉を組み合わせ、過去や未来について延々と思索することもない。
それでも自分と他者を区別し、喜びも怒りも恐怖も知っていた。相手の顔を覚え、声を聞き分け、自分に向けられた感情を理解する程度の知性も持っていた。
そして何より、彼には好きなものがあった。
海。
魚。
陽光。
そして――小さき者たち。
『来たぞ!』
声が聞こえた。
リヴァイアサンがゆっくり顔を上げると、海中都市から小さな影がいくつも泳いできていた。
マリスの民。
まだ都市は小さく、現在ほど人口も多くない。それでも彼らは、この海で確かな営みを築き始めていた。
中でも若い者たちは、リヴァイアサンをほとんど恐れなかった。
『でっかいニョロニョロ!』
一人が手を振る。
リヴァイアサンは目を細めた。
――また来た。
面倒だ。
そう思う。
だが逃げない。
数人が近づき、当然のように背中へよじ登ってくる。
『今日はあっち!』
一人が指を差した。
リヴァイアサンは動かない。
『あっちだって!』
頭を叩かれた。
もちろん痛くもない。
――なぜ、お前が決める。
リヴァイアサンは指差された方向とは反対へ泳ぎ始めた。
『違う! そっちじゃない!』
背中で騒いでいる。
――知らない。
少しだけ速度を上げた。
『速い速い!』
抗議が歓声に変わる。
リヴァイアサンは、ほんの少しだけ機嫌を良くした。
◇
当時のマリスの民にとって、リヴァイアサンはまだ完全な意味での神ではなかった。
巨大な海の守護者。
遥かな昔からこの海にいる、不思議な生き物。
彼らの祖先がこの海で暮らし始めた頃には、既にリヴァイアサンは存在していた。
危険な大型生物が都市へ近づけば追い払った。漁場を荒らす群れが現れれば散らし、海流に異変が起これば誰よりも早く察知した。
マリスの民もまた、リヴァイアサンを助けた。
傷を負えば治療し、身体に付着した寄生生物を取り除いた。時には大量の魚を運んできた。
もっとも、魚については。
――自分で捕れる。
リヴァイアサンはそう思っていた。
それでも食べた。
持ってきた者たちが喜ぶからだった。
◇
ある日、一頭のヴェルカが深い傷を負って戻ってきた。
腹部が大きく裂けている。
『誰か! 早く!』
若いマリスの民が必死にヴェルカを抱えていた。
人々が集まる。
リヴァイアサンも近づいた。
血の匂い。
弱々しく動く身体。
――痛い。
分かる。
リヴァイアサンは巨大な鼻先を近づけ、自分の体内に存在するものを動かした。
目には見えないほど小さな機械。
遥かな昔、この世界に生命を根付かせた者たちが残したもの。
リヴァイアサンはその正体を知らない。
ただ、使い方は知っていた。
傷へ触れる。
ナノマシンが流れ込む。
出血が止まり、裂けた組織が少しずつ繋がっていった。
『……治ってる』
誰かが呟いた。
『やっぱり神様なんじゃないか?』
別の者が言う。
リヴァイアサンは、その言葉の意味を完全には理解できなかった。
――神。
よく分からない。
ただ、ヴェルカが目を開けた。
それでよかった。
◇
年月が流れた。
リヴァイアサンにとって、マリスの民の一生は短い。
背中へ乗っていた子供が大人になる。
その者が自分の子を連れてくる。
やがて年老いる。
そして、いなくなる。
最初は理解できなかった。
昨日まで魚を持ってきた者が来ない。
いつも槍を磨いていた者がいない。
背中へ乗ると、必ず左の角を掴んでいた者も来なくなった。
待ったこともあった。
一日。
二日。
何日も。
やがて別の者から教えられる。
死。
もう戻らない。
――そうか。
リヴァイアサンは理解した。
小さき者たちは、自分より遥かに早くいなくなる。
だから。
いる間は守ろう。
いつからそう考えるようになったのか、リヴァイアサン自身にも分からなかった。
◇
さらに長い時間が流れた。
マリスの民は、いつしか彼を海神と呼ぶようになった。
リヴァイアサンにはどうでもよかった。
神でも。
獣でも。
リヴァイアサンでも。
彼らが呼べば行く。
危険があれば守る。
それだけでよかった。
だが。
ある時。
海が変わった。
◇
最初に感じたのは、不快感だった。
遠い。
深い場所。
海底のさらに先。
そこから何かが漏れている。
音はない。
匂いもない。
目にも見えない。
それでも分かる。
――嫌だ。
リヴァイアサンは、その方向を見た。
《深淵》。
マリスの民が古くから近づくことを避けている場所。
巨大な施設。
誰が造ったのか。
何のために存在するのか。
リヴァイアサンも知らない。
ただ。
そこに何かがいる。
あるいは、何かが目覚めようとしている。
数日間、リヴァイアサンは無視した。
都市の周囲を泳いだ。
魚を追った。
ヴェルカと遊んだ。
いつものようにマリスの子供たちを背中へ乗せた。
それでも消えない。
むしろ強くなる。
やがてリヴァイアサンは理解した。
――来る。
あそこから。
何かが。
こちらへ。
リヴァイアサンは海底都市を振り返った。
いくつもの灯り。
その中で、小さき者たちが暮らしている。
――駄目。
来させない。
巨大な尾が動いた。
青い海神は、一頭で《深淵》へ向かった。
◇
巨大な入口。
その先には、深海とは異質な闇が広がっていた。
リヴァイアサンは内部へ入った。
水に満たされた区画を進み、さらに奥へ向かう。
やがて環境が変わった。
水がない。
巨大な気密区画。
リヴァイアサンほどの巨体でも通れる、異様なほど巨大な通路。
彼にはその意味が分からない。
それでも進んだ。
奥から感じる不快感は、さらに強くなっている。
異形の生物が逃げていく。
さらに奥。
そして。
広大な空間へ出た。
そこに何かがあった。
黒い塊。
生き物ではない。
だが、動いている。
極めて小さな何かが、無数に集まっていた。
――嫌だ。
本能が告げる。
近づいてはいけない。
リヴァイアサンは後退した。
その瞬間。
黒い塊が弾けた。
◇
痛い。
額。
何かが刺さった。
リヴァイアサンは暴れた。
壁へ身体をぶつけ、前肢で額を掻く。
取れない。
それどころか。
入ってくる。
体内へ。
リヴァイアサンは自分のナノマシンを動かした。
――出ろ。
異物を排除しようとする。
だが、反応しない。
違う。
自分の中にある小さな機械とは、根本から違う。
命令を聞かない。
それどころか。
食う。
自分のナノマシンを。
組織を。
神経を。
そして。
置き換えていく。
――やめろ。
リヴァイアサンは吠えた。
誰もいない《深淵》に咆哮が響き渡った。
◇
どれほど時間が経ったのか。
リヴァイアサンは《深淵》の巨大な通路を進んでいた。
都市へ帰る。
小さき者たちのところへ。
助けてもらう。
だが。
身体がおかしい。
尾が勝手に動く。
――違う。
前肢。
首。
自分の意思とは関係なく動く。
――やめろ。
命じても従わない。
そして。
視界が増えた。
額。
そこから何かが見えている。
左右の眼とは違う景色。
赤い。
世界が。
違って見える。
リヴァイアサンは壁へ頭を擦りつけた。
額にある異物を削り取ろうとする。
肉が裂ける。
血が流れる。
それでも止めない。
だが、その奥から新しい組織が盛り上がってきた。
眼。
第三の眼。
――これは。
知らない。
自分ではない。
リヴァイアサンは前肢を上げた。
巨大な爪を額へ向ける。
潰す。
今すぐ。
だが。
前肢が止まった。
――動け。
動かない。
――潰せ。
爪先が震える。
それ以上進まない。
第三の眼が開いた。
その眼が。
リヴァイアサン自身を見ていた。
◇
身体の色が変わり始めた。
青。
深い海のような青。
それが額の周囲から少しずつ失われていく。
黒。
首。
背。
胸。
四肢。
尾。
鱗の構造そのものが変化していく。
光をほとんど返さない。
闇よりも暗い黒。
リヴァイアサンには、自分の身体で何が起きているのか分からなかった。
ただ。
嫌だった。
自分ではないものになっていく。
その時。
胸の奥で何かが脈動した。
――?
熱い。
これまで感じたことのない熱。
膨大なエネルギーが体内で生み出され、喉を通って口腔へ集まり始める。
口の中が光った。
――何だ。
さらに集まる。
歯の隙間から白い光が漏れ始めた。
本能が叫ぶ。
危険。
出してはいけない。
リヴァイアサンは口を閉じた。
強く。
牙と牙を噛み合わせる。
――出すな。
身体の奥から、さらにエネルギーが送り込まれる。
――やめろ。
口腔内の温度が急上昇する。
肉が焼ける。
舌が焦げる。
歯茎から血が噴き出す。
それでも。
口を開かない。
――出すな。
顎の筋肉へ力を込める。
第三の眼が大きく開いた。
直後。
顎が勝手に開こうとした。
――やめろ!
閉じる。
身体は開こうとする。
閉じる。
開く。
巨大な顎が震える。
牙が軋む。
一本が砕けた。
それでもリヴァイアサンは口を閉じ続けた。
――駄目だ。
あれを。
外へ出してはいけない。
理由など分からない。
それでも。
絶対に。
出してはいけない。
そして。
限界を超えた。
口腔内で。
光が弾けた。
◇
爆発。
リヴァイアサンの頭部が大きく跳ね上がった。
口先が吹き飛んだ。
上顎。
下顎。
牙。
肉。
骨。
閉じ込められていた膨大なエネルギーが、自ら出口を作った。
そして。
白い閃光が走る。
後の時代。
人類がプロトンビームと呼ぶことになるもの。
この時のリヴァイアサンは、その名前など知らない。
ただ。
破壊だけがあった。
閃光は《深淵》の巨大な通路を一直線に貫いた。
一枚目の隔壁が消える。
二枚目。
三枚目。
遥か先で巨大な爆発が起きた。
構造物全体が揺れる。
天井から破片が降り注ぎ、壁が裂け、床が捲れ上がった。
そして。
光が消えた。
◇
リヴァイアサンは動かなかった。
血が床へ落ちる。
顔の前半分。
口と呼べるものが、ほとんどなくなっていた。
痛い。
熱い。
だが。
それ以上に。
怖かった。
――何だ。
今のは。
知らない。
こんな力。
持っていなかった。
使おうとも思っていない。
なのに。
身体が勝手に撃った。
百メートルを超える海神の巨体が。
恐怖で震えた。
その時。
吹き飛んだ口先が動き始めた。
肉が盛り上がる。
骨が伸びる。
血管。
筋肉。
鱗。
異常な速度で再生していく。
――やめろ。
再生は止まらない。
リヴァイアサンには分かった。
自分の身体に元から存在していたナノマシンだけではない。
あの異物が。
第三の眼から入り込んだものが。
身体を直している。
勝手に。
自分を。
失われた顎が形成される。
牙が生える。
口が戻る。
だが。
以前とは違う。
より強固に。
より熱に耐えられるように。
より効率よく、あの光を放てるように。
身体そのものが作り直されていく。
――違う。
これは。
自分ではない。
◇
リヴァイアサンは《深淵》から逃げた。
巨大な入口を抜ける。
海水が身体を包んだ。
冷たい。
その感覚だけが。
まだ自分の知っているものだった。
しばらく泳いだ。
そして止まった。
彼方。
マリスの都市。
小さき者たちがいる。
帰りたい。
傷ついた。
怖い。
助けてほしい。
リヴァイアサンは都市へ身体を向けた。
一度。
尾を動かした。
その時。
第三の眼が開いた。
口の奥。
また。
微かな熱。
リヴァイアサンは止まった。
――駄目。
先ほどの光を思い出す。
隔壁が消えた。
壁が崩れた。
そして。
自分自身の口さえ吹き飛んだ。
もし。
あれが。
都市で出たら。
小さき者たちに向かって。
――駄目。
◇
リヴァイアサンは遠くから、一度だけ都市を見た。
灯り。
いくつもの小さな影。
自分を探している。
いつも自分が現れる場所に、何人も集まっている。
――行きたい。
だが。
――行けない。
行けば。
傷つけるかもしれない。
守ると決めた。
小さき者たちを。
だから。
近づいてはいけない。
リヴァイアサンはゆっくりと背を向けた。
そして。
自ら《深淵》へ戻っていった。
◇
奥へ。
さらに奥へ。
誰も来ない場所。
リヴァイアサンは自分から閉じこもった。
最初のうちは、まだ意識があった。
何度も身体を止めようとした。
第三の眼を壊そうとした。
できなかった。
一年。
十年。
百年。
時間の感覚が少しずつ消えていく。
身体はさらに黒くなった。
異種ナノマシンは増え続け、自分の身体なのに、自分ではないものへ変わっていく。
それでも。
時々。
思い出した。
青い海。
ヴェルカ。
背中で騒いでいた子供たち。
魚を持ってきた者。
自分の傷を治そうと必死になっていた者。
小さき者たち。
――守る。
それだけは忘れない。
だが。
やがて。
その言葉さえ。
薄れていった。
◇
長い。
長い。
暗闇。
どれほどの時間が流れたのか。
分からない。
何も見えない。
何も聞こえない。
身体の感覚もない。
自分が何だったのか。
それすら。
分からなくなった。
ただ。
何かがいる。
自分の中に。
ずっと。
自分ではないものが。
嫌だ。
消えろ。
出ていけ。
だが。
声にならない。
そして。
また。
長い時間が流れた。
◇
ある時。
痛みが走った。
額。
久しく忘れていた感覚。
第三の眼。
それが。
壊れた。
何かが入ってくる。
また。
あれか。
また自分を奪うものか。
違う。
何かが。
自分の中に巣食っていたものを。
一つずつ。
剥がしている。
そして。
失われた場所へ。
別の何かを置いていく。
知っている。
これは。
遥かな昔から。
自分の身体の中にあったものに。
似ている。
誰だ。
リヴァイアサンは。
数千年ぶりに。
自分の意思で。
ほんの僅かに。
外を感じた。
額に。
何かが触れている。
小さい。
あまりにも小さい。
それでも。
離れない。
自分とともに。
暗い海の底へ。
沈みながら。
ずっと。
手を離さない。
――誰だ。
答えはない。
ただ。
その手から。
失っていた自分が。
少しずつ。
戻ってきていた。
――第四十九話 青き海神 了




