第45話 海の王
暗闇の中で、巨大な眼が開いていた。
左右にあるはずの二つの眼ではない。額の中央に縦に開いた、第三の眼。
それだけが闇の中に浮かび、蓮たちを見つめている。
蓮は動かなかった。アルベルトも剣を構えたまま、ネレウスも長槍を握ったまま静止している。
「……ネレウス」
「はい」
「あれが、リヴァイアサン?」
ネレウスはすぐには答えなかった。
「おそらく」
いつもの飄々とした口調ではなかった。
「我らマリスの民が、かつて海の王と呼んだものです」
低い鳴き声が響いた。
――ォォォォォォォォォォォ……。
空気そのものが震えた。
『生体反応、接近』
イザナミの警告。
「距離は?」
『三百八十メートル』
「大きさは?」
『依然として正確な測定ができません。体表からの反射情報が極端に少ないためです』
「反射してない?」
『はい。可視光だけではありません。複数の観測方式で同様の現象を確認しています』
蓮は探照灯を向けた。
光は届いている。
だが、返ってこない。
そこに巨大な何かが存在しているはずなのに、輪郭が分からない。まるで世界の一部を黒く切り抜いたような空間が、ゆっくりと動いている。
その中央で、第三の眼だけが濡れたような光沢を帯びていた。
「気持ち悪いな……」
「海の王に対して失礼ですぞ」
ネレウスが言う。
「今のあれを見ても王扱いする?」
「姿が変わろうとも、我らの伝承に残る存在であることに変わりはありませぬ」
「そういうものか」
「そういうものです」
アルベルトが前へ出た。
「来るぞ」
闇の中で、何かが開いた。
巨大な口。
牙。
次の瞬間。
闇そのものが突進してきた。
◇
「散れ!」
蓮が叫ぶ。
三人が別方向へ飛ぶ。
直後、巨大な顎が床を噛み砕いた。
轟音。
人工構造物の床が岩盤ごと吹き飛ぶ。
「でかすぎるだろ!」
『対象頭部幅、暫定推定十一メートル以上』
「頭だけで!?」
リヴァイアサンが頭を振った。
蓮が吹き飛ばされる。
パワーアーマーが床を転がり、壁へ激突した。
『衝撃吸収機構作動』
「いってぇ……」
『生体損傷は軽微です』
「軽微でも痛い!」
巨大な前肢が持ち上がった。
輪郭は見えない。
周囲の光景が消えることで、そこに何かがあると分かるだけだ。
「蓮、上だ!」
アルベルトの声。
蓮が跳ぶ。
一瞬遅れて、巨大な爪が床へ突き刺さった。
その横からアルベルトが走り込む。
「見えてしまえば!」
高振動ブレードが走った。
甲高い音。
火花。
一枚の黒い鱗が床へ落ちる。
アルベルトが笑った。
「斬れるな」
「斬れたからって勝てるサイズじゃないからね!」
「斬れるなら、いつかは倒れる」
「お前、たまに脳筋になるよな!」
リヴァイアサンが咆哮した。
巨大な尾が薙ぎ払われる。
アルベルトが跳ぶ。
だが完全には避けきれない。
「ぐっ!」
尾の先端がアーマーを掠め、アルベルトが吹き飛んだ。
「アルベルト!」
「問題ない!」
空中で姿勢を直し、着地する。
本当に問題なさそうだった。
「丈夫だな、それ」
「美しくはないが性能は認めよう」
「まだ言ってるのか」
◇
ネレウスは動かなかった。
槍を構えたまま、リヴァイアサンを見ている。
蓮が叫ぶ。
「ネレウス!」
「見ております」
「何を!?」
「動きを」
リヴァイアサンの前肢が振り下ろされた。
ネレウスは紙一重でかわす。
そして踏み込んだ。
槍が走る。
鱗ではない。
鱗と鱗の間。
僅かに露出した柔らかな組織。
そこへ穂先が深く突き刺さった。
黒い体液が飛び散る。
リヴァイアサンが前肢を引いた。
「うまっ」
蓮が思わず声を漏らす。
アルベルトも目を細めた。
「かなりやるな」
「若い頃は、槍ばかり振っておりましたので」
「今は?」
「今も振っております」
「じゃあずっとじゃん」
ネレウスは槍を引き抜いた。
そして、柄の中央付近にある小さな留め具へ指をかけた。
蓮が気づく。
「何してる?」
「深淵には水がありませんのでな」
「だから?」
ネレウスが槍を捻った。
カチリ。
穂先が開いた。
一本だった槍の先端が左右へ展開する。
中央の穂先。
その左右に二本。
三叉。
蓮が目を見開いた。
「おお……」
アルベルトまで振り向く。
「ほう」
三本の穂先の間に青白い光が走った。
バチッ。
電弧。
「電気!?」
「海中では使えませぬ」
ネレウスが三叉槍を構える。
「周囲の者まで感電してしまいますので」
「そりゃそうだ」
「ですが、ここなら話は別です」
槍全体に青白い電光が走った。
ネレウスが笑う。
「久しぶりですな」
「そんな武器持ってたの!?」
「槍使いが槍を持っているのは当然でしょう」
「そっちじゃない!」
リヴァイアサンの前肢が再び迫る。
ネレウスが踏み込んだ。
「では」
三叉槍が鱗の隙間へ突き刺さる。
「少々痺れていただきましょう」
閃光。
バヂィィィッ!
巨大な電流が流れた。
リヴァイアサンの前肢が跳ねる。
咆哮。
巨体が僅かに後退した。
蓮が叫ぶ。
「めちゃくちゃ効いてる!」
『筋組織に強い電気的攪乱を確認』
アルベルトがネレウスを見る。
「私もそれが欲しい」
「お前は剣で我慢しろ!」
「三叉の剣なら――」
「それもう剣じゃないから!」
◇
戦闘は続いた。
しかし、最初に感じた絶望は少しずつ薄れていった。
リヴァイアサンは巨大だった。
一撃一撃が致命的。
パワーアーマーがなければ、掠っただけでも人間の身体など原形を留めないだろう。
だが。
遅い。
「やっぱりこいつ、陸上戦に向いてない!」
『同意します』
イザナミが解析結果を表示する。
『骨格、筋組織、四肢および尾部形状。いずれも水中活動へ高度に最適化されています』
「海の王だもんな」
『この環境では本来の運動性能を発揮できていないと推定』
「だったら勝てる」
蓮が走る。
爪をかわす。
懐へ。
腕部武装を撃ち込む。
爆発。
鱗が飛ぶ。
「アルベルト!」
「分かっている!」
露出した部分へ高振動ブレード。
深く入る。
リヴァイアサンが暴れる。
「ネレウス!」
「参りますぞ!」
三叉槍。
青白い電光。
鱗の剥がれた部分へ突き刺す。
閃光。
リヴァイアサンの右前肢が大きく痙攣した。
『右前肢、運動能力二十六パーセント低下』
「効いてる!」
三人の動きが噛み合い始めていた。
蓮が注意を引く。
アルベルトが斬る。
ネレウスが関節や神経の集中する部位へ三叉槍を打ち込み、電撃で筋肉の動きを阻害する。
巨大であるがゆえに、一度崩れ始めると立て直しも遅い。
リヴァイアサンが明らかに押され始めた。
◇
だが。
額の第三の眼だけは、ずっと蓮を見ていた。
「イザナミ」
『はい』
「あれ、やっぱり穢れだよね?」
『過去に観測した穢れ個体との共通性は極めて高いと判断します』
「壊せば元に戻せる?」
『不明です』
「死なせずに?」
『保証できません』
蓮は少し黙った。
ネレウスがそれを聞いていた。
「創造神様」
「何?」
「海の王を救おうとなされているのですか」
「できるならね」
「……そうですか」
ネレウスは三叉槍を見る。
「ならば、私もそのつもりで戦いましょう」
「最初から殺す気だったの?」
「我が民を脅かすならば」
ネレウスはリヴァイアサンを見る。
「海の王であろうと、討ちます」
蓮は少し笑った。
「意外と怖いな」
「古き言葉にございます」
「来た」
ネレウスは三叉槍を構える。
「怪物と戦う者は、その過程で自らも怪物とならぬよう心せよ」
蓮が少し驚く。
「今日はちゃんとした方なんだ」
「そして――」
「続きも知ってる」
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」
その瞬間。
第三の眼が大きく開いた。
蓮の視界が乱れた。
「うわっ!」
『外部干渉!』
パワーアーマーの表示にノイズが走る。
ナノマシン制御が一瞬だけ遅れる。
「こいつ……!」
『第三眼から高強度のナノマシン干渉を確認』
「管理者権限で遮断!」
『実行』
蓮の周囲のナノマシンが応答する。
外部から流れ込んできた命令を弾く。
視界が戻った。
「俺には効かない!」
『正確には効いています』
「今それ言わなくていい!」
『ただし、管理者権限によって影響の大部分を排除可能です』
「なら同じ!」
蓮はリヴァイアサンの前肢へ飛び乗った。
「第三眼を直接叩く!」
『危険です』
「知ってる!」
『最高責任者として――』
「帰ってから説教して!」
鱗を掴む。
登る。
肩。
首。
巨大な頭部へ。
リヴァイアサンが身体を振る。
「うおおっ!」
蓮は離さない。
第三眼が近づく。
十メートル。
八メートル。
五メートル。
眼が蓮を見る。
「見てんじゃねえ!」
腕部武装を展開。
第三眼へ向ける。
だが、リヴァイアサンが頭を激しく振った。
蓮が宙へ投げ出される。
「くそっ!」
推進器。
姿勢制御。
床へ着地。
アルベルトが走ってくる。
「惜しかったな」
「次はいける」
「ならば私も頭へ――」
「お前は脚!」
「なぜだ?」
「二人で登ったら邪魔だから!」
「それもそうだな」
「今日やけに素直だな」
◇
さらに数分。
戦況は明らかに蓮たちへ傾いていた。
右前肢。
損傷。
左後肢。
ネレウスの電撃によって動作不良。
胴体。
アルベルトが鱗を何枚も切り落としている。
リヴァイアサンの動きが鈍る。
『対象運動能力、推定三十八パーセント低下』
「いける!」
蓮は確信し始めていた。
このまま削る。
動きを止める。
最後に第三眼を破壊する。
殺さずに済む可能性もある。
アルベルトも同じように感じていたらしい。
「海の王と聞いて期待したが、この程度か」
「やめろ」
蓮が即座に言った。
「何がだ?」
「そういうこと言うな!」
「なぜ?」
「フラグだから!」
「また旗か」
「そういう意味じゃない!」
ネレウスが三叉槍を構える。
「古き言葉にございます」
「お前まで何!?」
「勝って兜の緒を締めよ」
「そう! 今日はそれでいい!」
「そして、押して駄目ならもっと押せ」
「後半!」
ネレウスがリヴァイアサンへ突進する。
「力こそパワー!」
「全部台無しだよ!」
三叉槍が突き刺さる。
閃光。
バヂィィィィッ!
リヴァイアサンの右前肢から力が抜けた。
巨体が傾く。
ズゥゥゥン――。
地面が揺れた。
ついに海の王が片膝をつく。
『右前肢、ほぼ機能停止』
蓮が息を整える。
「よし……」
アルベルトも剣を下げない。
ネレウスは三叉槍を握ったまま、倒れかけた海の王を見ている。
第三の眼だけが動いた。
蓮を見る。
「次で決める」
『第三眼への攻撃ですか』
「うん」
『攻撃経路を算出します』
蓮の視界にルートが表示される。
今度は先ほどより簡単だった。
リヴァイアサンは弱っている。
右前肢はほとんど動かない。
「これならいける」
アルベルトが言う。
「終わりだな」
「だからそういうこと言うなって」
だが、蓮自身もそう思っていた。
終わる。
あと少し。
この巨大な海の王を殺すことなく、穢れだけを取り除けるかもしれない。
その時だった。
カラ。
小さな音。
蓮が止まった。
「……何?」
カラ。
もう一度。
リヴァイアサンの頭部。
一枚の鱗が持ち上がった。
カラ、カラ。
二枚。
三枚。
首。
肩。
背。
次々と鱗が起き上がっていく。
『対象に生理的変化』
「何してる?」
『解析中』
カラカラカラカラカラカラ――。
無数の音が巨大空間へ広がった。
頭から尾へ。
波のように。
全身を覆っていた鱗が、一斉に逆立っていく。
そして蓮は、思わず息を呑んだ。
「……見える」
今まで闇そのものだった巨体に、輪郭が生まれた。
探照灯の光が返ってくる。
頭部。
長い首。
巨大な胴体。
水を掴むための四肢。
遥か後方まで伸びる尾。
一匹の巨大な海竜。
初めて。
その全貌が見えた。
『測定可能』
イザナミが告げる。
『全長、推定百三十八・六メートル』
アルベルトが呟く。
「……美しいな」
ネレウスは何も言わなかった。
ただ、海の王を見上げている。
確かに美しかった。
禍々しい第三の眼さえなければ。
何千年も前、マリスの民と共に海を泳いでいたという伝承を信じられるほどに。
「ネレウス」
「はい」
「これが本当の姿なんだな」
「……おそらく」
その瞬間。
『警告』
イザナミの声。
蓮が顔を上げる。
「何?」
『対象の体温が急上昇しています』
「体温?」
『上昇継続』
逆立った鱗の隙間から、熱が放出され始める。
空気が揺らいだ。
「……排熱?」
『その可能性があります』
「なんで今?」
返答はない。
リヴァイアサンがゆっくりと頭を上げた。
左右の眼。
そして額の第三眼。
三つの眼が、蓮たちを見た。
口が開く。
その奥に。
小さな光が生まれた。
針の先ほどの光。
蓮は眉をひそめる。
「……何だ、あれ」
『解析中』
光が少しずつ強くなる。
『高エネルギー反応を確認』
「どのくらい?」
『解析中』
「イザナミ?」
返事がない。
蓮の背筋に冷たいものが走った。
今まで何度もイザナミの警告を聞いてきた。
だが。
次に聞こえた声は、それまでとは明らかに違った。
『蓮』
「何?」
『全員、直ちに退避してください』
蓮の表情から笑みが消えた。
「……何なの、あれ?」
『解析を継続しています』
「アーマーで耐えられる?」
一瞬。
沈黙。
『その判断は推奨できません』
「つまり?」
リヴァイアサンの口腔奥で、光がさらに収束する。
そしてイザナミは告げた。
『回避してください』
短い言葉だった。
『直撃を想定した防御は考えないでください』
蓮はアルベルトとネレウスを見る。
「走れ!」
三人が一斉に動いた。
ほんの数十秒前まで。
蓮たちは勝てると思っていた。
あと少しで終わる。
第三の眼を壊せば、海の王を救えるかもしれない。
その認識が、どれほど甘かったのか。
彼らは次の瞬間、思い知ることになる。
――第四十五話 海の王 了




