第40話 古いレッドキャップ
貨幣の流通が始まってから、人間側の行政担当者には新しい仕事が増えていた。
市場の調査である。
どの地域で、何が生産されているのか。どれほどの量が流通し、どの程度の価格で取引されているのか。貨幣を導入したことで生活に支障が出ている者はいないか。特定の商人による買い占めや、不当な価格操作が起きていないか。
そして何より、人間側が作った制度と、数千年かけて形成されてきたエルフたちの生活習慣が、実際の現場でどう噛み合っているのか。
会議室で資料を眺めているだけでは分からない。
そのため、周辺集落を巡る現地視察が行われることになった。
「なぜ私が、あなたと二人で行かなければならないのですか」
朝から不機嫌そうな黒崎の隣で、ガルクが荷車の積荷を確認していた。
「こっちの台詞だ」
「私は行政制度の運用実態を確認するために行くのです。遊びではありません」
「俺だって商売だ。ついでに現地の相場を見る」
「ついで?」
「どうせ同じ場所に行くんだ。二人で行けば手間が減るだろ」
「そういう問題では……」
黒崎は言いかけて黙った。
効率という意味では、ガルクの言う通りだった。
それが気に入らない。
ガルクは相変わらず、赤黒い尖り帽子をかぶっている。
丸眼鏡。
小柄な身体。
背負った鞄。
どこから見ても商人だった。
少なくとも黒崎には、そう見えていた。
「護衛は?」
「いらねえ」
黒崎が振り向いた。
「いらない?」
「ああ」
「今回向かう集落までは森林地帯を通ります。周辺では魔物の目撃情報もありますし、街道から外れた地域では盗賊の被害も――」
「知ってる」
「ではなぜ護衛を付けないのです?」
「いるからだ」
黒崎は周囲を見た。
誰もいない。
「どこに?」
ガルクは答えず、荷車を押し始めた。
「行くぞ。日が暮れる」
「ちょっと待ちなさい。今の説明を――」
「遅れるぞ、官僚」
「元官僚です!」
二人は町を出た。
◇
最初に訪れた集落では、大きな問題は起きていなかった。
むしろ黒崎が驚いたのは、貨幣の浸透速度だった。
小さな市場では野菜、布、木工品、薬草などが並び、それぞれに値段が付いている。
もっとも、すべてが貨幣取引になったわけではない。
「この籠はいくらです?」
黒崎が尋ねると、年配のエルフが答えた。
「三枚。でも麦なら一袋でもいいよ」
黒崎の眉が動いた。
「貨幣と物々交換が併存している……」
手元の端末へ記録する。
ガルクは横で鼻を鳴らした。
「当たり前だろ」
「何がです?」
「昨日まで物で交換してた連中が、今日から全部金だけになるわけねえだろ」
「しかし貨幣経済への移行を進めるのであれば、交換手段の統一は――」
「なんで統一する必要がある?」
「取引効率と価格形成の透明性を――」
「この婆さんが麦欲しいって言ってんだから、麦で払えばいいだろ」
「ですが制度として――」
「制度で飯食うのか?」
黒崎の眉間に皺が寄った。
「あなたはまたそうやって……!」
籠を売っていたエルフが二人を見比べる。
「仲がいいねえ」
「よくありません!」
黒崎だけが即答した。
ガルクは笑った。
◇
二つ目の集落では、別の問題が見つかった。
貨幣そのものを貯め込む者が出始めていた。
「使わないのですか?」
黒崎が尋ねる。
若いエルフの男は、小さな革袋を大事そうに抱えていた。
「もっと貯める」
「何か欲しいものが?」
「ない」
「では、なぜ?」
「増えると嬉しい」
黒崎は黙った。
ガルクが笑った。
「正常だ」
「どこがですか!」
「金なんて最初はそんなもんだ」
「貨幣は交換価値を媒介するための――」
「難しく考えすぎなんだよ」
「あなたは商人なのに、なぜ貨幣制度をこれほど雑に扱えるのです!」
「商人だからだよ。金が教科書通りに動かねえの知ってるからな」
黒崎の額に青筋が浮かんだ。
それでも端末には、
《貨幣そのものを保有することへの心理的価値が発生》
ときちんと記録した。
ガルクが覗き込む。
「お前、真面目だな」
「仕事ですから」
「もうちょい適当に生きた方が長生きするぞ」
「あなたにだけは言われたくありません」
◇
予定していた三つの集落を回り終えた頃には、日はかなり傾いていた。
帰路は森林を横切る旧街道を使う。
舗装などされていない。
長年、人や荷車が通ったことで自然にできた道だった。
黒崎は歩きながら端末を操作していた。
「現時点では貨幣導入による深刻な生活破綻は確認されず。ただし地域によって貨幣価値への理解に差があり――」
「歩きながらやるな。転ぶぞ」
「忘れないうちに記録しているのです」
「後でやれ」
「現地調査というものは、記憶が鮮明なうちに――」
ガルクが突然止まった。
黒崎がその背中へぶつかりそうになる。
「何です?」
「端末しまえ」
声が違った。
黒崎は顔を上げた。
道の前方に人影がある。
一人。
二人。
三人。
木々の間にもいる。
後ろにも。
いつの間にか囲まれていた。
前へ出てきたのはエルフだった。
整った顔立ちをしている。
しかし服は汚れ、髪は伸び放題。顎にはエルフには珍しい無精髭まで生えていた。
腰には剣。
その後ろには数人のゴブリンがいる。
こちらはさらに酷い。
粗末な腰布。
錆びた刃物。
弓。
どう見ても商人ではない。
黒崎が小声で言った。
「……盗賊ですね」
「見りゃ分かる」
エルフの男が笑う。
「話が早そうで助かる。荷物と金を置いていけ」
黒崎が一歩前へ出た。
「まず確認します」
ガルクが横を見る。
「何をだ?」
黒崎は盗賊を見る。
「要求されているのは積荷および所持金のすべて、という認識でよろしいですか?」
盗賊が少し困った顔をした。
「……ああ」
「人的被害を加える意図は?」
「抵抗しなければな」
「では、その条件を文書として――」
「お前すげえな」
ガルクが呟いた。
黒崎が振り向く。
「何がです?」
「盗賊相手にも官僚なんだな」
「交渉可能な相手であれば、まず条件を明確化するのは当然です!」
「元官僚だろ」
「そこは今どうでもいいでしょう!」
盗賊のエルフが苛立った。
「何をごちゃごちゃ言ってやがる!」
剣が抜かれた。
黒崎の顔から余裕が消えた。
それでも、後ろへは下がらなかった。
逆だった。
ガルクの前へ出た。
「下がってください」
「……何してんだ?」
「あなたは民間人でしょう」
「商人だ」
「同じです!」
黒崎の手は僅かに震えていた。
戦闘訓練など、ほとんど受けていない。
それでも行政側の人間として、民間人を前に出すわけにはいかないと思ったらしい。
ガルクはしばらく黒崎の背中を見た。
「お前」
「何です」
「馬鹿だな」
「今それを言いますか!?」
「そこどけ」
「嫌です。まず相手の要求を――」
「だから、どけって」
ガルクが黒崎の横から前へ出た。
その時だった。
盗賊の中にいた一人の老ゴブリンが、ガルクを凝視した。
正確には、その頭を。
「……待て」
エルフの頭領が振り返る。
「何だ?」
「待て」
老ゴブリンの声が震えていた。
「そいつ……」
ガルクが目を向ける。
老ゴブリンは帽子を見ている。
赤い。
しかし鮮やかな赤ではない。
長い年月を経て、何度も染め直されたような深い赤。
血が乾いたような赤黒さ。
そして、現在のゴブリン商人がかぶる丸い帽子とは違う。
頭頂部が鋭く尖っている。
「……レッドキャップ」
黒崎が言った。
「商人の証でしょう?」
老ゴブリンが黒崎を見た。
「今はな」
「今は?」
老ゴブリンは答えなかった。
その代わり、後ずさった。
「俺は降りる」
「は?」
エルフ頭領が振り返る。
「何言ってんだ!」
「俺はやらん」
「たかが商人だぞ!」
「知らねえなら黙ってろ!」
老ゴブリンが怒鳴った。
他のゴブリンたちもガルクの帽子を見始める。
その中の一人が気づいた。
顔色が変わる。
武器を下ろした。
「……古い奴だ」
「何?」
「丸じゃねえ」
もう一人も下がる。
「尖ってる……」
黒崎だけが意味を理解できない。
「ガルク」
「何だ」
「説明してください」
「後でな」
ガルクは丸眼鏡を外した。
そして黒崎へ差し出す。
「持ってろ」
「はい?」
「眼鏡」
反射的に受け取る。
「高ぇんだから落とすなよ」
「いや、あなた何を――」
ガルクは帽子を深くかぶり直した。
それだけだった。
だが、黒崎には妙な違和感があった。
さっきまで隣を歩いていた、小うるさい商人ではない。
姿勢が変わった。
肩の力が抜けている。
両腕も自然に下がっている。
なのに、近づいてはいけないような感覚がある。
老ゴブリンがさらに一歩下がった。
ガルクが言った。
「商人ってのはな」
エルフの頭領が剣を構える。
「昔は、自分の商品を守れねえ奴にはできなかったんだよ」
「知るか!」
エルフが踏み込んだ。
速い。
少なくとも黒崎には、そう見えた。
剣が振り下ろされる。
次の瞬間。
エルフの手から剣が消えていた。
「……え?」
ガルクが持っていた。
何をしたのか黒崎には分からなかった。
ガルクは奪った剣を一度見て、放り捨てた。
「手入れくらいしろ」
直後、柄頭がエルフの腹へ入った。
正確には、剣を奪う直前にガルクが抜き取っていた短い棒状の武器だった。
エルフが崩れる。
横から別の盗賊が飛び込んだ。
ガルクは振り向かない。
一歩ずれる。
足を引っかける。
盗賊が地面へ転がった。
その首筋へ棒の先端が止まる。
「次」
誰も動かなかった。
「来ねえの?」
沈黙。
老ゴブリンが武器を捨てた。
「だから言ったろ」
別のゴブリンも捨てる。
さらに一人。
エルフの盗賊が怒鳴った。
「何してる! 相手は一人だぞ!」
「お前がやれ」
「やってるだろ!」
「じゃあ頑張れ」
「ふざけんな!」
再びエルフが立ち上がった。
ガルクがため息をつく。
数十秒後。
盗賊たちは全員、地面に転がっていた。
◇
黒崎は丸眼鏡を持ったまま固まっていた。
ガルクが近づく。
「眼鏡」
「…………」
「おい」
「…………」
「眼鏡返せ」
黒崎がようやく反応した。
「あなた……」
「何だ」
「商人ですよね?」
「そうだ」
「戦闘職では?」
「違う」
「冒険者だったとか?」
「違う」
「では、なぜあんな――」
「眼鏡」
「あ、はい」
黒崎が返す。
ガルクは眼鏡をかけた。
途端に、いつもの小柄な商人に戻ったように見えた。
「傷ついてねえだろうな」
「大丈夫です」
「高ぇんだぞ、これ」
「先ほどからそればかりですね」
黒崎は倒れている盗賊を見る。
誰も死んではいない。
気絶している者。
腹を押さえて呻いている者。
腕を押さえて動けない者。
老ゴブリンだけは最初から戦わなかったので無傷だった。
黒崎はもう一度ガルクを見る。
「出発前に言っていましたね」
「何を?」
「護衛はいる、と」
「ああ」
黒崎は周囲を見た。
やはり誰もいない。
「……あなたですか」
「遅えよ」
◇
盗賊を縛り上げ、人間側の拠点へ連絡を入れた。
現在では、こうした犯罪者をその場で処刑することは原則として認められていない。
少なくとも人間側の管理地域へ引き渡された場合、事情聴取を行い、犯罪歴、被害状況、再犯可能性などを確認した上で処分が決められる。
エルフ社会では、少し事情が違った。
殺人や重大な略奪を繰り返した盗賊なら、その場で処刑されることも珍しくない。
数千年間、それが普通だった。
だからこそ捕らえられたエルフの頭領は、不思議そうにガルクを見た。
「……殺さないのか」
「なんで?」
「俺たちはお前を襲った」
「知ってる」
「荷物も奪おうとした」
「それも知ってる」
「なら、なぜ」
ガルクは荷車の積荷を確認していた。
「俺は商人だ」
「……?」
「命まで仕入れた覚えはねえ」
黒崎がその言葉を聞いていた。
何も言わなかった。
◇
帰り道。
黒崎は珍しく静かだった。
ガルクが横を見る。
「なんだよ」
「何がです?」
「気持ち悪いな。ずっと黙ってる」
「考え事をしていただけです」
「珍しい」
「私は常に考えています!」
いつもの黒崎に戻った。
少し安心する。
しばらく歩いた後、黒崎が口を開いた。
「あなたを少々誤解していたようです」
「どう誤解してた?」
「口が悪く、協調性に欠け、行政制度を軽視し、経済政策について何かにつけて私の案へ難癖をつける、金勘定だけは異常に得意な商人だと」
ガルクは考えた。
「合ってるじゃねえか」
黒崎の眉間に皺が寄った。
「…………」
「なんだ?」
「ぐぬぬぬ……」
ガルクが足を止めた。
黒崎も止まる。
二人は見つめ合った。
ガルクがニヤリとする。
「今、言ったな」
黒崎の顔が赤くなる。
「言ってません」
「言った」
「言ってません!」
「ぐぬぬぬって」
「聞き間違いです!」
「俺は耳いいぞ」
「知りません!」
ガルクは笑いながら歩き始めた。
黒崎も不機嫌そうについていく。
しばらくして、黒崎はガルクの帽子を見た。
「一つだけ聞いても?」
「なんだ」
「その帽子です」
ガルクは答えない。
「レッドキャップは商人の証だと聞いていました。しかし、あの老ゴブリンは『今は』と言った」
「ああ」
「一般的な商人の帽子は、もっと丸く、色も薄い。あなたのものだけ形が違う」
ガルクは歩き続ける。
「古いレッドキャップとは、何なのです?」
少しだけ沈黙した。
森の隙間から夕日が差し込む。
赤黒い尖り帽子が、その光を受けた。
「昔の話だ」
「ですから、その昔の話を――」
「今日は仕事終わったんだろ?」
「終わっていません。帰還後に報告書を――」
「じゃあ仕事しろ」
「あなたは!」
ガルクは振り返らない。
黒崎は追いかける。
その頭にある帽子を、もう一度見た。
商人の証。
それは間違いない。
だが、あの盗賊たちの反応は、商人を見る目ではなかった。
特に老ゴブリン。
あれは知っていた。
そして恐れていた。
黒崎は端末を開いた。
《現地視察報告――》
入力する。
貨幣流通状況。
物々交換との併存。
地域ごとの価格差。
貨幣保有行動。
盗賊との遭遇。
そこまで書いて、指が止まった。
《同行者ガルクの――》
消した。
もう一度入力する。
《護衛体制については再検討を要する》
ガルクが横から覗いた。
「だからいらねえって」
「あなたを護衛として正式に数えてよいのか判断できないから書いているのです!」
「商人だぞ、俺は」
「それが一番信用できません!」
二人の声が夕暮れの街道に響いた。
その日、黒崎は一つだけ理解した。
ガルクがいつも被っている赤黒い帽子は、単なる商人の印ではない。
そしてガルク自身もまた、ただの商人ではない。
だが、その意味をガルクが語ることはなかった。
まだ、この時は。
――第四十話 古いレッドキャップ 了




