第40話 古いレッドキャップ
9月9日 整合性を持たせるために加筆修正しました。
人類自治政府が現地貨幣を使った対外交易の運用を始めてから、人間側の行政担当者には新しい仕事が増えていた。
市場の調査である。
どの地域で何が作られ、どの程度の価格で取引されているのか。人類製品の流入によって既存の産業が圧迫されていないか。買い占めや極端な価格操作が起きていないか。
会議室で資料を眺めているだけでは分からない。
そこで周辺集落を巡る現地視察が行われることになった。
「なぜ私が、あなたと二人で行かなければならないのですか」
朝から不機嫌そうな黒崎の隣で、ガルクが荷車の積荷を確認していた。
「こっちの台詞だ」
「私は交易制度の運用実態を確認するために行くのです。遊びではありません」
「俺も商売だ。ついでに相場を見る」
「ついで?」
「行き先が同じなんだから、一緒に行けばいいだろ」
黒崎は反論しかけて、やめた。
効率という意味では正しい。それが余計に気に入らない。
ガルクはいつもの丸眼鏡に、乾いた血を思わせる暗赤色の尖り帽子を被っている。腰には鞘に収められた短剣が一本。
「護衛は?」
「いらねえ」
「今回の経路には森林地帯もあります。魔物や盗賊の報告も――」
「知ってる」
「では、なぜ?」
「いるからだ」
黒崎は周囲を見回した。
誰もいない。
「どこに?」
ガルクは答えず、荷車を押し始めた。
「行くぞ」
「説明してください」
「遅れるぞ、官僚」
「元官僚です!」
二人は町を出た。
◇
最初の集落では、大きな問題は見つからなかった。
むしろ黒崎が興味を示したのは、貨幣と物々交換が自然に併存していることだった。
「この籠はいくらです?」
「銅貨三枚。でも麦なら一袋でもいいよ」
籠を並べていた年配のエルフが答える。
黒崎はすぐに端末へ記録した。
「貨幣と物々交換が併存……」
「当たり前だろ」
ガルクが横から言った。
「昨日まで物で交換してた連中が、急に全部金だけになるわけねえ」
「しかし取引手段が統一された方が――」
「この婆さんは麦が欲しいんだ。麦で払えるならそれでいい」
「制度としては――」
「制度で飯食うのか?」
「あなたはまたそうやって……!」
籠売りのエルフが二人を見比べて笑った。
「仲がいいねえ」
「よくありません!」
黒崎だけが即答した。
◇
別の集落では、貨幣そのものを貯め込む者もいた。
「何か買う予定があるのですか?」
「ない」
若いエルフは革袋を大事そうに抱えている。
「では、なぜ貯めるのです?」
「増えると嬉しい」
黒崎が黙った。
ガルクが笑う。
「正常だ」
「どこがですか!」
「金なんてそんなもんだ」
「貨幣は交換価値を媒介するための――」
「商人だから知ってるんだよ。金は教科書通りには動かねえ」
黒崎は不満そうだったが、端末にはきちんと記録した。
《貨幣そのものの保有に心理的価値が発生》
もちろん、ガルクにはそこに何と書かれているのか分からない。
「また何か難しいこと書いてんのか?」
「調査記録です」
「お前、真面目だな」
「仕事ですから」
◇
予定していた集落を回り終えた頃には、日が傾いていた。
帰路は森林を抜ける旧街道だった。
黒崎は歩きながら端末へ記録を続けている。
「現時点では交易制度による深刻な生活上の問題は確認されず。ただし地域によって貨幣利用の程度には差があり――」
「歩きながらやるな。転ぶぞ」
「忘れないうちに記録しているのです」
「後でやれ」
「現地調査というものは――」
ガルクが止まった。
黒崎が顔を上げる。
「何です?」
「端末しまえ」
声が違った。
黒崎は黙って端末をしまった。
前方に三人。
木々の間にも人影がある。
後ろにもいた。
囲まれている。
前へ出てきたのはエルフの男だった。服は汚れ、腰には剣。その周囲にはゴブリンも混じっている。
商人ではない。
「荷物と金を置いていけ」
エルフの男が言った。
黒崎が一歩前へ出る。
「確認します。積荷と所持金を渡せば、こちらには危害を加えない。それで間違いありませんね」
盗賊が少し面食らった。
「……ああ」
ガルクが横から黒崎を見る。
「盗賊相手にも条件確認するのか」
「交渉できるなら確認するのは当然です」
「やっぱお前、官僚だな」
「元官僚です」
「何をごちゃごちゃ言ってやがる!」
盗賊が剣を抜いた。
黒崎の顔から余裕が消えた。
それでも後ろには下がらない。
逆に、ガルクの前へ出た。
「下がってください」
「何してんだ?」
「あなたは民間人でしょう」
「商人だ」
「同じです」
黒崎の手はわずかに震えていた。
戦闘訓練など、ほとんど受けていない。
それでも人類自治政府の人間として、同行している民間人を前へ出すわけにはいかないと思っているらしい。
ガルクはその背中を見上げた。
「お前」
「何です」
「馬鹿だな」
「今それを言いますか!?」
「どけ」
「嫌です」
「いいから、どけって」
その時だった。
盗賊の中にいた老ゴブリンが、ガルクを凝視した。
「……待て」
エルフの頭領が振り返る。
「何だ?」
「待てって言ってる」
老ゴブリンの目は、ガルクの頭に向けられていた。
乾いた血を思わせる、暗赤色の尖り帽子。
「……レッドキャップ」
黒崎が言った。
「商人の証でしょう?」
老ゴブリンが黒崎を見る。
「今はな」
「今は?」
老ゴブリンが一歩下がった。
「俺は降りる」
「は?」
「俺はやらん」
エルフの頭領が苛立つ。
「たかが商人だぞ!」
「知らねえなら黙ってろ!」
老ゴブリンが怒鳴った。
ほかのゴブリンたちも、ようやく帽子を見始めた。
「……古い奴だ」
「丸くねえ……」
「尖ってるぞ」
黒崎には意味が分からない。
「ガルク。説明を」
「後でな」
ガルクは丸眼鏡を外し、黒崎へ差し出した。
「持ってろ」
「はい?」
「眼鏡。高ぇんだから落とすなよ」
反射的に受け取った黒崎の前で、ガルクは腰へ手を伸ばした。
短剣が抜かれる。
黒崎は初めて、その刃をまともに見た。
金属ではない。
濡れた夜のように黒く、磨かれた石特有の艶がある。
「……黒曜石?」
黒崎が呟いた。
普通なら、金属製の剣を相手にするような素材ではない。
だが――。
「それ……」
老ゴブリンの声が震えた。
帽子を見た時以上だった。
「それまで持ってるのか……」
ガルクは答えない。
黒い短剣を逆手に持ち、暗赤色の帽子を深く被り直した。
それだけで雰囲気が変わった。
いつもの、金勘定にうるさい小柄な商人ではない。
肩の力は抜けている。
構えてすらいない。
なのに老ゴブリンは、さらに後ずさった。
「商人ってのはな」
ガルクが言った。
「昔は、自分の商品を守れねえ奴にはできなかったんだよ」
「知るか!」
エルフの頭領が踏み込んだ。
剣が振り下ろされる。
ガルクは半歩ずれた。
黒崎には、それしか見えなかった。
次の瞬間にはガルクが男の懐へ入り込んでいる。
短剣を持った右手ではなく、空いた左手が剣を握る手首を押さえた。
捻る。
剣が地面へ落ちた。
「な――」
ガルクの膝が男の腹へ入る。
身体が折れたところを足払い。
エルフの頭領が地面へ転がった。
黒曜石の短剣の切っ先が、その喉元で止まる。
「次」
誰も動かなかった。
ガルクは相手を斬ってすらいない。
だが、黒い刃を見ているゴブリンたちの顔には、明らかな恐怖が浮かんでいた。
老ゴブリンが最初に武器を捨てた。
「だから言ったろ」
もう一人のゴブリンも武器を落とす。
「何してる!」
倒れたエルフが怒鳴った。
「相手は一人だぞ!」
「なら、お前がやれ」
「やっただろ!」
「じゃあもう一回やれ」
エルフの男が顔を引きつらせた。
ガルクは黒い短剣を持ったまま待っている。
結局、立ち上がろうとはしなかった。
◇
「眼鏡」
黒崎は固まっていた。
「おい。眼鏡返せ」
「あ……はい」
黒崎が丸眼鏡を返す。
ガルクは短剣を鞘へ収めてから眼鏡を掛けた。
「傷ついてねえだろうな」
「大丈夫です」
「高ぇんだぞ、これ」
「それはもう聞きました」
黒崎は地面に座らされている盗賊たちを見る。
誰も死んでいない。
そして、もう一度ガルクを見る。
「あなた、商人ですよね?」
「そうだ」
「元冒険者では?」
「違う」
「戦士でも?」
「違う」
「では、なぜ……」
そこで黒崎は思い出した。
「出発前に言いましたね。護衛はいる、と」
「ああ」
黒崎は周囲を見回す。
やはり誰もいない。
ゆっくりガルクを見る。
「……あなたですか」
「遅えよ」
◇
盗賊たちを拘束し、黒崎は人類自治政府へ連絡を入れた。
ほどなくして引き取りの人員が向かうとの返答があり、それまでは街道脇で待つことになった。
捕らえられたエルフの頭領が、不思議そうにガルクを見る。
「……殺さないのか」
「なんで?」
「俺たちはお前を襲った」
「知ってる」
「荷物も奪おうとした」
「それも知ってる」
「なら、なぜ」
ガルクは荷車の中身を確認しながら答えた。
「俺は商人だ」
「……?」
「命まで仕入れた覚えはねえ」
黒崎はその言葉を聞いていたが、何も言わなかった。
◇
帰り道。
黒崎は珍しく静かだった。
「なんだよ」
「何がです?」
「ずっと黙ってる。気持ち悪い」
「考え事をしていただけです」
「珍しい」
「私は常に考えています!」
いつもの黒崎に戻った。
しばらく歩いてから、黒崎が口を開く。
「あなたを少々誤解していたようです」
「どう誤解してた?」
「口が悪く、協調性に欠け、行政制度を軽視し、何かにつけて私の案に難癖をつける、金勘定だけは異常に得意な商人だと」
ガルクは少し考えた。
「合ってるじゃねえか」
「…………」
「なんだ?」
「いえ。何でもありません」
黒崎はそれ以上相手にしなかった。
少し歩いてから、視線をガルクの腰へ落とす。
「一つだけ聞いても?」
「なんだ」
「その短剣です」
ガルクの手が、一瞬だけ腰の鞘に触れた。
「黒曜石に見えました」
「そうだな」
「普通の黒曜石ではありませんね?」
「さあな」
「老ゴブリンは、あなたの帽子よりもあの短剣を見た時の方が驚いていました」
返事はない。
「それと、その帽子です。レッドキャップは商人の証だと聞いていました。しかし、彼は『今は』と言った」
「ああ」
「一般的なレッドキャップとは形が違うのですか?」
「今の奴は丸いのが多い」
「では、あなたの尖った帽子は?」
しばらく沈黙が続いた。
森の隙間から夕日が差し込み、暗赤色の尖り帽子を照らした。
「昔の形だ」
「どれくらい昔の?」
「昔は昔だ」
「短剣も?」
ガルクは答えなかった。
「ガルク」
「今日は仕事終わったんだろ?」
「終わっていません。帰還後に報告書があります」
「じゃあ仕事しろ」
「あなたは……!」
ガルクは振り返らず、荷車を押していく。
黒崎はその背中を追いながら、もう一度帽子と腰の短剣を見た。
商人の証。
それ自体は間違いない。
だが、盗賊たち――特に老ゴブリンの反応は、ただ商人を見た者のそれではなかった。
黒崎は端末を開いた。
《現地視察報告――》
貨幣と物々交換の併存。
地域ごとの取引状況。
貨幣そのものを保有する行動。
盗賊との遭遇。
そこまで入力して、指が止まる。
《同行者ガルクの――》
数文字入力してから消した。
少し考え、別の一文を打ち込む。
《現地視察時の護衛体制については再検討を要する》
当然、隣を歩くガルクには何が書かれているのか分からない。
だが、黒崎がちらりと自分を見てから入力し直したのには気づいたらしい。
「今、俺のこと書いただろ」
「何のことでしょう」
「こっち見てから書いただろ」
「あなた、人類の文字は読めないでしょう」
「読めなくても、それくらい分かる」
「では、ご想像にお任せします」
「絶対ろくなこと書いてねえな」
黒崎は眼鏡を直した。
「護衛体制について再検討しているだけです」
「ほら、俺のことじゃねえか」
「あなたを護衛として正式に数えてよいのか判断できないからです!」
「商人だぞ、俺は」
「それが一番信用できません!」
二人の声が夕暮れの街道に響いた。
その日、黒崎は一つだけ理解した。
ガルクのレッドキャップは、ただの商人の印ではない。
そして、あの黒い短剣にも何かがある。
だが、その意味をガルクが語ることはなかった。
――第四十話 古いレッドキャップ 了




