第39話 ラーメン戦争
貨幣というものがこの世界に入り込んでから、町の風景は少しずつ変わり始めていた。
最初に変わったのは、物の渡し方だった。
以前なら余った野菜を隣人へ渡し、代わりに別の日には薪を分けてもらう。服を繕ってもらえば、収穫した果物を持っていく。そんな緩やかな物々交換で多くのことが済んでいた。
しかし、人間、エルフ、そしてゴブリンの行き来が増えるにつれ、それでは面倒な場面が増えてきた。
そこでガルクが持ち込んだ貨幣という仕組みが、予想以上の速さで浸透し始めた。
もちろん、水や最低限の食料、医療といった生存に直結するものまで、いきなり金を払わなければ手に入らなくなったわけではない。
だが、必要ではないもの。
少し綺麗な服。
装飾品。
酒。
菓子。
珍しい料理。
そうした「なくても死なないが、あればちょっと嬉しいもの」に値段がつき始めた。
そしてある日、一軒の店が開いた。
看板には、少々歪んだ文字でこう書かれていた。
《ラァメンマシマシ屋》
◇
店主は若いエルフの男だった。
彼には師匠がいた。
ただし、その師匠本人は弟子を取った覚えなど一切ない。
ラーメン地球家。
店主は、あの店の常連だった。
最初こそ恐る恐る食べていたものの、いつしか完全にハマり、数日おきに姿を現すようになった。
そしてある時期から、食べるだけではなくなった。
見るようになった。
麺を茹でる。
湯を切る。
丼にタレを入れる。
スープを注ぐ。
麺を入れる。
肉を乗せる。
野菜を盛る。
脂をかける。
ニンニクを乗せる。
エルフの男は、カウンターの向こうで行われる一連の作業を毎回食い入るように見ていた。
地球家の店主も気づいてはいた。
だが、何も言わない。
「……」
「……」
視線だけが交差する。
「あいよ」
ラーメンが置かれる。
それだけだった。
料理について教えてもらったことなど、一度もない。
しかし男は数十回の観察を経て、一つの結論へ到達した。
――分かった。
完全に分かった。
そして貨幣経済という新しい仕組みが始まった。
自分で料理を作り、それを売ればいい。
そう考えた男は店を開いた。
本人としては満を持しての開店だった。
◇
最初の問題は麺だった。
小麦はある。
パンを焼く文化がある以上、小麦粉そのものは珍しくない。
しかしラーメン用の麺をどう作っているのかまでは分からなかった。
地球家で見た記憶を頼りに、小麦粉へ水を加え、こねる。
伸ばす。
切る。
完成したものは――太かった。
「……少し太いな」
少しではない。
うどんに近かった。
しかも妙に硬い。
試しに茹でて食べてみる。
「……」
ワシワシ。
ゴワゴワ。
顎に来る。
しかし男は考えた。
「食べ応えがある」
前向きだった。
次は野菜。
地球家で山のように盛られていた、白く細長い野菜。
同じものは見つからなかった。
だが、よく似たものならあった。
この地方で昔から食べられている豆科植物。その種を発芽させると、白く長い芽が伸びる。
「これだ」
大量に作った。
大量に茹でた。
食べてみる。
「……普通だな」
問題ない。
そして最大の問題が、スープだった。
地球家で使われている醤油という調味料が存在しない。
そこで男は、エルフが古くから肉料理に使ってきた発酵調味料を使った。
豆と穀物を発酵させた塩気の強い調味液。
色は似ている。
味も、方向性だけなら遠くはない。
「これならいける」
ニンニクはあった。
これは問題ない。
問題は肉だった。
豚はいない。
しかし森にはワイルドボアがいる。
見た目はかなり近い。
捕獲された大きなワイルドボアの肉を塊のまま煮込む。
数時間後。
男は一切れ切って口に入れた。
「……臭い」
野生だった。
香草を入れた。
煮込んだ。
もう一度食べた。
「……まだ臭い」
酒を入れた。
さらに煮た。
「…………」
まだ少し臭い。
男は考えた。
「野趣だな」
便利な言葉を覚えた。
さらにワイルドボアから取れた背脂を加熱してみた。
猛烈に濃い。
舌へまとわりつく。
単体で食べれば、とてもではないが大量には食べられない。
しかし熱いスープへ落とすと、ゆっくりと溶けた。
白い脂が茶色いスープ一面へ広がる。
「……これだ」
何が「これ」なのか本人にもよく分かっていなかった。
そして最後まで再現できなかったものがある。
化学調味料。
存在そのものを知らないのだから、どうしようもない。
それでも男は完成させた。
太く硬い麺。
豆科植物のスプラウト。
エルフ古来の発酵調味料。
ニンニク。
臭みの残るワイルドボア肉。
その背脂。
すべてを一つの丼へ放り込む。
完成。
男は胸を張った。
「ラァメンだ」
◇
新しいエルフ居住地の端。
人間居住区近くに店を構えた。
開店初日。
客は来た。
珍しいものが好きなエルフはどこにでもいる。
「これが地球の料理なの?」
「そうだ」
厳密にはかなり違う。
だが店主は自信満々だった。
「注文は?」
「普通で」
「ニンニクは?」
「少し」
「野菜は?」
「普通で」
店主の耳が少し下がった。
マシマシしてほしかった。
やがて巨大な丼が置かれる。
客は麺を一本持ち上げた。
太い。
「……これ、麺?」
「麺だ」
食べる。
ワシワシ。
「硬くない?」
「食べ応えだ」
肉を食べる。
「……少し臭くない?」
「野趣だ」
スープを飲む。
「脂、多くない?」
「コクだ」
野菜を見る。
「これ、こんなに必要?」
「必要だ」
店主は一歩も引かなかった。
三日後。
客は減った。
一週間後。
かなり減った。
評判も微妙だった。
「重い」
「脂っぽい」
「肉が臭い」
「麺が硬い」
「野菜が多すぎる」
エルフの食文化からすれば、どれも当然の感想だった。
店主は悩んだ。
地球家へ行った。
「らっしゃいせー」
いつもの店主がいる。
いつもの席へ座る。
「ニンニクヤサイアブラカラメマシマシ」
「あいよ」
食べる。
「……うまい」
自分の店へ戻る。
自分のラァメンを作る。
食べる。
「……違う」
何が違うのか分からない。
そして翌日。
事件が起きた。
◇
三人の人間が店の前で立ち止まった。
仕事帰りの技術者たちだった。
「ラァメン……?」
一人が看板を読む。
「マシマシ屋」
もう一人が二度見した。
「エルフの店だよな?」
「そうみたいだな」
「入ってみる?」
「やめといた方がよくない?」
「なんで?」
「ラーメンをエルフが想像で作ったんだぞ」
三人は看板を見る。
《ラァメンマシマシ屋》
「……行こう」
好奇心が勝った。
店へ入る。
「いらっしゃい」
店主の耳がぴんと立った。
人間。
初めての人間客だった。
「三人」
「注文は?」
人間たちは顔を見合わせる。
「普通で」
店主の耳が少し下がった。
「ニンニクは?」
一人が答えた。
「入れて」
「野菜は?」
「普通」
さらに耳が下がる。
やがて三つの丼が置かれた。
三人は黙った。
山だった。
「……二郎?」
「俺も思った」
店主が聞く。
「ジロウとは?」
「いや、何でもない」
まず麺。
一本持ち上げる。
「太っ!」
食べる。
ワシワシ。
「……うどん?」
「違うな」
「硬いな」
店主の耳が下がる。
次に肉。
「…………」
「どう?」
「ちょっと臭い」
「やっぱり?」
店主の耳がさらに下がる。
野菜。
「普通」
スープ。
「なんか惜しい」
「醤油じゃないな、これ」
「でも発酵系だな」
店主は黙って聞いていた。
エルフと同じだった。
失敗した。
そう思った。
ところが一人の男が、もう一度箸を動かした。
今度は違った。
麺。
野菜。
肉。
ニンニク。
全部をまとめて口へ入れる。
噛む。
ワシワシした麺。
シャキシャキした豆の芽。
強烈なニンニク。
発酵調味料。
ワイルドボアの野性味。
そして、舌へまとわりつく濃厚な背脂。
男の動きが止まった。
「……ん?」
「どうした?」
もう一口。
今度はスープも一緒に。
「…………」
「まずい?」
男は首を振った。
「いや」
さらに食べる。
「なんだこれ」
「何?」
「うまい」
店主が顔を上げた。
「え?」
「単体だと全部微妙なのに」
「おい」
「いや、本当に。麺だけだと硬いし、肉は臭いし、脂は重いし、スープもなんか違う」
店主の耳が完全に下がった。
「でも」
男はまた食べた。
「全部一緒だと、なんかうまい」
二人も試す。
麺。
野菜。
肉。
ニンニク。
脂。
スープ。
「…………」
「な?」
「……うまいな」
「なんで?」
「分からん」
三人の箸が止まらなくなった。
店主は呆然と見ていた。
自分でも何度も食べていた。
だが、材料ごとの出来ばかり気にしていた。
男たちは汗をかきながら食べ続ける。
「ニンニク追加できる?」
店主の耳が立った。
「できる」
「野菜も」
「増やすか?」
「増やして」
店主の目が輝いた。
「マシ?」
「マシ」
「脂は?」
男は少し考えた。
「……マシ」
店主は立ち上がった。
「分かった!」
その声は、開店以来もっとも力強かった。
◇
三日後。
異変が起きた。
「ここ?」
「ここ」
「例の?」
「そう」
人間が並んでいた。
五人。
翌日は十二人。
その次の日は二十人。
一週間後。
店の前に行列ができた。
エルフたちは遠巻きに見ていた。
「何が起きているの?」
「分からない」
「あそこ、あまり美味しくないよ?」
「人間には美味しいらしい」
「なぜ?」
誰にも分からなかった。
人間たちの間では、口コミが猛烈な勢いで広がっていた。
「肉がちょっと臭いんだよ」
「それ褒めてる?」
「食えば分かる」
「麺も硬いぞ」
「だからいいんだよ」
「スープも地球家とは全然違う」
「それでもうまい」
そして、ついに注文方法まで変わった。
「ニンニクヤサイアブラマシマシ!」
店主が笑う。
「分かった!」
別の客。
「ニンニクマシ、ヤサイマシマシ、アブラ普通!」
「分かった!」
さらに別の客。
「全部マシマシ!」
店主の耳が勢いよく立った。
「任せろ!」
山が作られた。
◇
噂は当然、地球家にも届いた。
ある日の営業終了後。
地球家の店主が、ラァメンマシマシ屋の前に立っていた。
エルフ店主は固まった。
「……」
「……」
師匠。
本人だけがそう思っている。
「らっしゃい」
声が少し震えた。
地球家の店主が座る。
「普通」
「ニンニクは?」
「入れて」
「野菜は?」
「普通」
少し残念だった。
それでも全力で作る。
太い麺を茹でる。
発酵調味料。
スープ。
ワイルドボア。
スプラウト。
背脂。
ニンニク。
丼を置いた。
「どうぞ」
地球家の店主が食べる。
何も言わない。
麺。
肉。
野菜。
スープ。
また麺。
エルフ店主は動けない。
食べ終わる。
丼が置かれた。
「……」
「……」
長い沈黙。
そして地球家の店主が言った。
「うめえじゃん」
エルフ店主の耳が勢いよく立った。
「本当か!?」
地球家の店主は丼を見る。
「でも」
耳が下がる。
「これ、ラーメンじゃねえな」
「…………」
エルフ店主は絶望した。
しかし店主は続けた。
「ラァメンだな」
「……?」
「これでいいんじゃねえの」
エルフ店主はしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくり頷いた。
「……そうか」
地球家の店主が立ち上がる。
代金を置く。
「あの!」
振り返る。
「ありがとう」
地球家の店主は片手を上げた。
「ありやっしたー」
店を出ていった。
エルフ店主は、その背中が見えなくなるまで頭を下げていた。
◇
ところが、話はそこで終わらなかった。
一か月後。
人間社会に奇妙な派閥が生まれた。
地球家派。
マシマシ屋派。
きっかけは些細な会話だった。
「ラーメンなら地球家だろ」
「いや、最近はマシマシ屋」
「は?」
「マシマシ屋の方が好き」
「お前、正気か?」
「何が?」
「あれ肉臭いだろ」
「あれがいいんだよ」
「麺もラーメンじゃねえぞ」
「だからラァメンなんだよ」
「化調も入ってねえ!」
「だからなんだ!」
議論は広がった。
「地球家は完成度が違う!」
「マシマシ屋は中毒性がある!」
「地球家のスープ飲んでから言え!」
「ワイルドボアの背脂食ってから言え!」
エルフたちは困惑した。
「人間たちが喧嘩している」
「何が原因?」
「麺らしい」
「麺?」
「太い方がいいか、細い方がいいか」
「……そんなことで?」
「肉が臭い方がいいという人間もいるらしい」
「なぜ?」
分からない。
まったく分からない。
◇
蓮は市場の一角で、その光景を眺めていた。
地球家には行列。
少し離れたマシマシ屋にも行列。
そして、その中間地点で人間二人が言い争っている。
「地球家!」
「マシマシ!」
「地球家!」
「マシマシ!」
蓮は呆れた。
「平和だなあ……」
隣にいたガルクが丸眼鏡を押し上げる。
「いいことだ」
「どこが?」
「同じような物を売る店が二つある」
「うん」
「客が自分で好きな方を選ぶ」
「うん」
「店は客を取るために工夫する」
「まあ」
ガルクが笑った。
「競争だ」
蓮は二軒の店を見る。
「そんな大層なものか?」
「最初はこんなもんだ」
ガルクの視線の先で、エルフの女性がマシマシ屋へ入っていった。
以前は「あまり美味しくない」と言っていた一人だった。
人間たちがあまりにも美味そうに食べるので、もう一度試してみたくなったらしい。
「ニンニクは?」
「……少し」
「野菜は?」
女性は周囲を見る。
人間たちは山盛りのラァメンを食べている。
少し迷った。
「……マシ」
店主の耳が立つ。
「脂は?」
さらに迷う。
「普通」
「分かった!」
しばらくして巨大な丼が置かれた。
女性は麺だけを食べようとして、隣の人間を見た。
麺と野菜と肉を一緒に食べている。
真似してみる。
「…………」
もう一口。
「…………」
さらに一口。
店主が緊張して見ている。
女性は顔を上げた。
「前より美味しくなった?」
店主は首を傾げた。
「ほとんど変えてない」
「……変ね」
そう言いながら、また食べる。
ガルクがそれを見て笑った。
「こうやって広がる」
蓮は二軒の店を眺めた。
地球から持ち込まれた料理。
それをエルフが見よう見まねで作った、似ているようでまったく違う料理。
そして今度は、それを人間が食べている。
「文化って変なもんだな」
「商売もな」
ガルクが答えた。
その日の夕方。
ラァメンマシマシ屋の入口に、新しい札が掛けられた。
《本日完売》
エルフ店主は厨房で一人、空になった寸胴を眺めていた。
一か月前まで客が来なかった店。
地球家と同じものを作ろうとして、何一つ同じものを作れなかった。
麺も違う。
調味料も違う。
肉も違う。
野菜も違う。
味も違う。
だから失敗だと思っていた。
だが、違った。
地球家と同じものを作る必要など、最初からなかったのだ。
男は翌日の仕込みを始めた。
ワイルドボアの肉を鍋へ入れる。
相変わらず少し臭い。
「……野趣だ」
背脂を切る。
相変わらず重い。
「……コクだ」
太い麺を打つ。
相変わらずワシワシしている。
「……食べ応えだ」
男は満足そうに頷いた。
こうしてこの惑星に、地球には存在しなかった新しい料理が一つ生まれた。
そして後世、この時期に起きた人間たちのくだらない論争は、少々大げさな名前で呼ばれることになる。
――第一次ラーメン戦争。
第三十九話 ラーメン戦争 了




