第37話 方舟NOAH
それは、蓮たちを乗せた移民船が地球を離れた後のことだった。
人類は、まだ地球に残っていた。
正確には、残らざるを得なかった。
気候制御はすでに破綻し、海面上昇によって多くの沿岸都市が放棄されていた。巨大な砂漠化地域が大陸を侵食し、農業生産量は年を追うごとに減少している。人類は大気から炭素を回収し、海洋を冷却し、人工降雨を行い、ありとあらゆる手段で故郷を延命しようとした。
それでも、地球は戻らなかった。
惑星そのものを作り変える技術を手に入れた人類が、自分たちの母星だけは救えなかった。
そして、ついに二つの大国が手を組んだ。
中国とアメリカ。
かつて世界の覇権を巡って競争を続けていた二つの国家が、莫大な資金と技術を一つの計画へ投入した。欧州、日本、インドをはじめとする各国も、残された技術、人材、資源を提供した。
人類史上最大の国際共同事業。
そして同時に、人類史上最大の敗北の記念碑でもあった。
人類はついに国境を越えて手を取り合った。
故郷を捨てるために。
◇
その船は、地上では建造できなかった。
あまりにも巨大だったからだ。
全長数十キロメートル。複数の居住ブロック、工業区画、植物プラント、藻類培養施設、核融合炉群、資源循環設備、船内工場、医療区画。そして、百万を超える冷凍睡眠設備。
一つの宇宙船というより、宇宙空間に浮かぶ都市だった。
各国で製造された構造物が次々と軌道へ打ち上げられ、無数の作業機械によって組み立てられていった。月面から採掘された資源まで建造に投入された。
完成まで二十七年。
正式名称、恒星間移民船《NOAH》。
その名前は、遥か昔の宗教伝承に登場する方舟に由来していた。
滅びゆく世界から生命を乗せ、新しい世界へ運ぶ船。
宗教も、国家も、思想も違う人々が、その名前だけには反対しなかった。
それほどまでに、人類が置かれている状況を正確に表していたからだ。
NOAHの乗員定数は百万人。
しかし、百万人が航行中に生活することを想定して造られた船ではない。
大部分の乗員は冷凍睡眠に入り、航行中に活動するのは保守要員と航行管理要員だけ。目的星系への到着後、順次覚醒し、地表へ降下する。
そのため居住設備そのものは、百万人という数字に比べれば小さかった。
植物プラントも藻類培養設備も巨大だったが、本来は目的惑星到着後、地表の食料生産が安定するまでの補助設備として設計されたものだった。
何もかもが、冷凍睡眠が正常に機能することを前提としていた。
◇
出航の日。
地球軌道上に浮かぶNOAHの船体には、巨大な文字が描かれていた。
――NOAH。
地上から最後の輸送船が上がってくる。
そこには、最後まで地球に残っていた技術者たちも乗っていた。
誰も歓声を上げなかった。
船内の大型スクリーンには、地球が映っている。
青い惑星。
映像だけを見れば、まだ美しかった。
一人の少女が窓越しに地球を見ていた。
「帰ってこられる?」
母親は答えられなかった。
帰還計画など存在しない。
「……分からないわ」
嘘をつかなかった。
少女はしばらく地球を見つめてから、小さく手を振った。
周囲でも同じように、最後の地球を見ている人々がいた。
泣く者。
祈る者。
無言で見つめる者。
そして、NOAHの巨大な推進システムが起動した。
人類史上最大の移民船は、ゆっくりと地球を離れていった。
◇
出航から二十三年。
船内時間、午前二時十三分。
最初の警報が鳴った。
「冷却圧低下?」
保守担当の技術者、周明杰は眠気を振り払いながら端末を確認した。
表示されている数値がおかしい。
冷凍睡眠区画第三十二ブロック。
冷却媒体圧力、規定値以下。
「予備系へ切り替えろ」
『自動切替を実行します』
数秒。
表示が変わらない。
「切り替わってないぞ」
『予備冷却系統への切替に失敗しました』
周は椅子から立ち上がった。
「原因は?」
『解析中』
隣の技術者が別の端末を操作する。
「三十二だけじゃない。三十三も落ち始めてる」
「隔離しろ」
「やってる!」
警報が増えた。
第三十四。
第三十五。
第三十六。
周の背中に冷たい汗が流れた。
「おい……待て」
冷凍睡眠設備はブロックごとに独立している。
そのはずだった。
だが完全に独立しているわけではない。
百万人という途方もない数の人間を効率よく冷凍維持するため、複数のブロックが巨大な中央熱交換構造を共有していた。
個々の冷却装置には予備がある。
ポンプにも予備がある。
制御系にも予備がある。
しかし――中央熱交換構造そのものには、完全な予備など存在しなかった。
巨大すぎたのだ。
「中央系を見せろ!」
船体内部の模式図が表示される。
赤い領域が広がっていた。
周は言葉を失った。
「……嘘だろ」
『中央熱交換構造内部に複数の損傷を確認』
「自己修復ナノを投入!」
『実行中です』
「修復時間は!」
短い沈黙。
『算出不能』
「算出不能じゃ分からん!」
周が怒鳴った直後、別の警報が鳴った。
《冷凍睡眠槽緊急覚醒シーケンス開始》
「待て!」
三十二ブロック。
数千基の冷凍睡眠槽が、一斉に覚醒を開始した。
◇
事故発生から六時間後。
NOAHの司令区画は混乱していた。
「第三十八ブロックまで覚醒開始!」
「医療要員が足りない!」
「貨物区画を臨時収容区画に変更しろ!」
「寝具がありません!」
「床でいい! とにかく場所を作れ!」
「第四十一ブロック、冷却圧低下!」
「またか!」
本来なら眠っているはずだった人間が、次々と目を覚ましていた。
最初は数千人。
それが数万人になり、十万人を超えた。
そして損傷は止まらなかった。
船内通路が人間で埋まっていく。
「ここはどこだ!」
「到着したのか?」
「なぜ起こした!」
「子供がいない! 娘はどこ!?」
「もう一度眠らせろ!」
「地球へ戻せ!」
警備要員だけでは到底対応できない。
目覚めたばかりの人間に、状況を説明できる者すら足りなかった。
ある者は怒鳴り、ある者は泣き、ある者は冷凍睡眠槽へ戻ろうとした。
そして事故発生から四日後。
最後まで維持されていた冷凍睡眠ブロックにも、緊急覚醒命令が出された。
百万人。
ほぼすべての人間が目を覚ました。
◇
中央司令室。
各部門の責任者が集まっていた。
誰も眠っていない。
船長の李雪峰が、掠れた声で尋ねた。
「結論を聞こう」
冷凍睡眠設備主任が立ち上がった。
「中央熱交換構造の損傷は、想定より深刻です。ナノマシンによる修復を試みていますが、構造そのものに設計上の問題が発生しています」
「直せるのか」
主任は答えなかった。
「聞いている。直せるのか」
「……長期運用可能な状態への復旧は、不可能です」
誰も動かなかった。
「予備設備は?」
「同じ中央熱交換構造を使用します」
「新しく作れ」
「船内工場では製造できません。規模が大きすぎます」
「小型化して分散させろ」
「百万人分を?」
主任が船長を見る。
「必要資源がありません」
李は目を閉じた。
そして次の質問をした。
「目的星系まで、あと何年だ」
航行担当者が答える前に、船内AIが計算結果を表示した。
《現在航路を維持した場合の目的星系到達予測》
巨大スクリーンに数字が現れる。
《2,476年》
一人が呟いた。
「……日?」
誰も答えない。
「二千四百七十六日なんだろ?」
AIが静かに告げた。
『年です』
誰かが椅子へ崩れ落ちた。
「二千……」
別の誰かが笑った。
乾いた笑いだった。
「馬鹿な」
李はスクリーンを見続けていた。
二千四百七十六年。
地球へ戻ることもできない。
目的地へすぐ到着することもできない。
そして、もう眠ることもできない。
「……我々は」
李の声が震えた。
「どうすればいい」
◇
答えを出したのは、食料生産部門だった。
事故から十一日後。
会議室へ飛び込んできた女性技術者は、端末を抱えていた。
「生きられます」
全員が彼女を見る。
「何?」
「生きられます」
もう一度言った。
「植物プラント、藻類培養設備、水循環系、元素回収系、合成栄養設備。すべてを生命維持だけに集中させれば、理論上は現在の人口を維持できます」
李が立ち上がる。
「二千五百年間か?」
「設備の更新が続く限り」
「食料は?」
「現在の食生活は維持できません」
表示が切り替わる。
クロレラをはじめとする微細藻類。
高効率植物タンパク。
合成脂質。
炭水化物。
ビタミン。
ミネラル。
「生存に必要な栄養素は確保できます。しかし嗜好品の生産はほぼ全面的に停止。家畜飼育区画も閉鎖します。水とエネルギー消費の大きい作物も段階的に廃止します」
「つまり?」
「味ではなく、カロリーと栄養効率を優先します」
沈黙。
しかし、先ほどまでとは違う沈黙だった。
絶望の中に、一本だけ道が見えた。
李が尋ねる。
「条件は、それだけか?」
女性技術者は黙った。
その反応だけで、誰もが察した。
「言ってくれ」
「人口です」
スクリーンに数字が出る。
現在人口。
生命維持能力。
設備更新に必要な人員。
遺伝的多様性。
年齢構成。
出生率。
死亡率。
数千年にわたる予測。
「人口を厳密に管理する必要があります」
「どの程度だ」
「増えすぎても、減りすぎてもいけません」
「つまり、子供の数を管理すると?」
「はい」
会議室の空気が変わった。
「誰が決める」
誰かが言った。
「我々です」
「人間が子供を作るかどうかを、お前たちが決めるのか?」
「そうしなければ――」
「ふざけるな!」
男が机を叩いた。
「食事を奪って、仕事を決めて、今度は子供まで管理するのか!」
「では二百年後に全員死にますか!」
女性技術者も叫んだ。
静まり返る。
彼女の目には涙が浮かんでいた。
「私だって、こんな計算をしたくありません」
誰も何も言えなかった。
「でも……二千五百年なんです」
彼女は震える声で続けた。
「私たちは目的地へ行けません。私たちの子供も行けない。その子供も、そのまた子供も行けない」
スクリーンに表示された《2,476年》という数字を指した。
「何十世代先になるか分からない人たちを、あそこまで届けなければならないんです」
李は長い間、数字を見つめていた。
そして言った。
「生存計画を作成してくれ」
「船長!」
「他に方法があるなら言ってくれ」
誰も答えなかった。
「ただし、最初からすべてを強制するな。必要性を説明する。理解を求める」
それが、この船で最後に行われた「お願い」だったのかもしれない。
◇
最初の十年は混乱だった。
出生管理への反対運動。
食料配給への不満。
居住区再編への抵抗。
暴動も起きた。
自殺する者もいた。
冷凍睡眠設備を修復しろと訴え続ける者もいた。
地球へ帰還すべきだと主張する者もいた。
だが、時間だけは進んだ。
使えなくなった冷凍睡眠区画は解体され、その資材で居住区が作られた。
巨大な貨物庫には集合住宅が建設された。
格納庫には学校ができた。
船内工場は衣服や家具ではなく、生命維持設備の交換部品を最優先で作るようになった。
食卓から肉が消えた。
魚が消えた。
果物が消えた。
やがて料理そのものが消えていった。
藻類と植物タンパクを主体とした栄養食。
美味しくはない。
しかし、人は死なない。
それで十分だった。
最初は。
◇
事故から三百十二年。
食堂で、一人の少年が緑色のペーストを食べていた。
壁には今日の栄養摂取基準が表示されている。
《推奨摂取量:1,964 kcal》
少年の向かいには母親が座っている。
彼女も同じものを食べていた。
壁面ディスプレイには教育資料として、古い地球の映像が流れている。
少年の手が止まった。
画面には、大きな皿が映っていた。
焼かれた肉。
色鮮やかな野菜。
湯気の立つスープ。
別の映像。
寿司。
パン。
ケーキ。
そして、丼いっぱいの麺。
少年は不思議そうに画面を見た。
「お母さん」
「何?」
「これは?」
「食事よ」
少年は自分のトレーを見る。
緑色のペースト。
もう一度、画面を見る。
「これも?」
「そうよ」
「どうして昔の人は、栄養をこんな形にしていたの?」
母親は少し考えた。
彼女自身、映像でしか知らない。
「……楽しむためだったそうよ」
「栄養摂取を?」
「そう記録されているわ」
少年は首を傾げた。
「変なの」
母親は小さく笑った。
「そうね」
少年は再び食事を始めた。
残すという発想はない。
必要量を摂取する。
それは食事ではなく、毎日行う生命維持行為だった。
◇
事故から六百年。
出生は許可制になっていた。
職業は適性によって決められていた。
事故から九百年。
個人が所有する物品には厳しい制限が設けられた。
事故から千二百年。
恋愛と生殖は完全に分離された。
遺伝的多様性を維持するため、生殖計画は中央管理システムによって決定されるようになった。
事故から千五百年。
家族という言葉の意味が変わり始めた。
事故から千八百年。
感情を理由に職務を拒否することは、重大な社会的不適応と判断されるようになった。
事故から二千年。
「自分が何をしたいか」という問いそのものが、ほとんど意味を持たなくなっていた。
誰かが決めたわけではない。
独裁者が現れたわけでもない。
百万人を生かすために、その時代その時代の人間が、必要だと思ったものを少しずつ削っていった。
贅沢。
所有。
選択。
恋愛。
家族。
そして、感情。
削るたびに、人類は少しだけ効率的になった。
効率的になるたびに、NOAHは生き延びた。
◇
事故から二千四百五十年。
少女が一人、船内通路を歩いていた。
白い制服。
装飾品はない。
髪型も規定通り。
彼女は壁面端末の前で立ち止まった。
《個体識別》
《適性評価完了》
《次期配属:環境維持部門》
少女は表示を見る。
喜びもしない。
落胆もしない。
ただ確認する。
「承認します」
『配属を確定しました』
「はい」
少女は歩き出した。
途中、展望区画を通る。
巨大な窓の向こうには星がある。
かつてなら、人間はその光景を美しいと思ったのかもしれない。
少女は一度だけ星を見た。
しかし立ち止まらない。
見る必要がないからだ。
その時、船内放送が流れた。
『全居住者へ通知します。本日の生命維持設備稼働率は99.97パーセント。人口変動は計画範囲内。資源循環率は基準値を維持しています』
少女は歩き続ける。
『NOAHは正常です』
誰も歓声を上げない。
当然だからだ。
二千年以上前、祖先たちはこの船を牢獄だと思った。
その子供たちは、この船から出たいと願った。
さらにその子供たちは、いつか見る惑星を夢見た。
だが、いつからだろう。
誰も目的地について話さなくなった。
地球について語る者もいなくなった。
なぜ自分たちが旅をしているのかさえ、日々の生活には必要のない情報になった。
必要なのは今日の仕事。
今日の栄養。
今日の睡眠。
そして次の世代へ、同じ船を渡すこと。
それだけだった。
少女が角を曲がった後。
誰もいなくなった展望区画の窓の向こうを、一つの恒星がゆっくりと横切っていった。
船体外壁。
何千年もの補修を受け、建造当時の外装などほとんど残っていない。
それでも、そこだけは何度も修復されてきた。
巨大な四文字。
――NOAH。
かつて、それは新世界へ人類を運ぶための方舟だった。
今ではもう、誰も方舟の外を知らない。
そしてNOAHは進み続けていた。
人類を救うために造られた船は、二千五百年という時間をかけて、人類そのものを作り変えながら。
《目的星系到着まで――残り二十六年》
第三十七話 方舟NOAH 了




