第35話 商人の勘定
人類とエルフの交易が始まってから、まだそれほど日数は経っていなかった。
それでも問題はすでに起き始めていた。
ボールペン、鏡、爪切り、折り畳み傘。人類にとってはありふれた日用品が、エルフの市場では高値で取引されている。
特に鏡は人気だった。
人類の製造設備で作られた鏡は、エルフの職人が研磨した金属鏡とは比較にならないほど鮮明に姿を映す。それを最初に手に入れた商人が別の町へ持ち込み、さらに高値で転売したことで、一枚の鏡が銀貨十枚以上で取引された例まで出ていた。
当然、人類側でも対策を考えることになった。
そのために開かれた会議に、蓮、リーネ、ガルク、そして人類側の行政を担当する数名が集まっていた。
その中に、これまであまり表舞台へ出てこなかった男がいた。
黒崎孝文、四十八歳。
地球では中央省庁に勤務し、産業政策や通商政策に携わっていた元官僚である。
細身で姿勢がよく、眼鏡を掛け、資料を読む時には必ず机の上で紙の端を揃える癖があった。
黒崎は資料を置くと、咳払いした。
「現状を整理します。人類製品の急速な流入によって、一部市場で価格形成に混乱が生じています。したがって当面の措置として、人類・エルフ間交易管理委員会を設置し、品目別の輸出数量を設定したうえで、四半期ごとに市場価格、需給動向及び現地産業への影響を精査し――」
「遅い」
ガルクが言った。
黒崎の説明が止まる。
「……まだ説明の途中ですが」
「聞く必要がない」
赤い帽子を被ったゴブリン商人は、椅子の上で腕を組んでいた。
黒崎の眉がわずかに動く。
「では、どの部分に問題があると?」
「四半期」
「はい?」
「市場を三か月も放っておくつもりか?」
黒崎は眼鏡を直した。
「統計的に有意な市場動向を把握するためには、一定期間のデータ蓄積が必要です」
「鏡の値段が崩れるのに三か月もかからん」
「短期的な価格変動に行政が逐一介入すれば、市場の自律的な価格形成を阻害する恐れがあります」
「では放っておけ」
「ですから、その影響を四半期ごとに――」
「違う」
ガルクは丸眼鏡を押し上げた。
「人間が鏡を売るなと言っている」
黒崎が黙った。
蓮が口を挟む。
「ガルク、前は五十枚くらいならって言ってなかった?」
「状況が変わった」
「何が?」
「昨日、エルフの町で鏡職人が二人、店を閉めた」
会議室が静かになった。
黒崎が資料を見る。
「その情報はこちらには上がっていません」
「昨日の話だからな」
「確認が必要です」
「確認している間に三人目が閉める」
黒崎の眉間に皺が寄った。
「だからといって、特定商品の流通を一商人の判断だけで停止することは――」
「なら売れ」
ガルクはあっさり答えた。
「その代わり聞こう。人間の鏡が市場を全部取ったあと、お前たちが鏡の供給をやめたら誰が作る?」
「現地産業の再建支援を行えばいい」
「潰してから?」
黒崎が止まった。
ガルクが続ける。
「なぜ最初から潰さない?」
「しかし、より安価で品質の高い商品が普及することは、消費者利益という観点から――」
「安い?」
ガルクが首を傾げた。
「人間の鏡は安くないぞ」
「製造コストの話です」
「客はお前たちの製造コストなど知らん」
「……何が言いたいのです?」
ガルクは机に銀貨を十枚並べた。
「人間はほとんどタダで鏡を作れる。それを私が銀貨十枚で売る」
「それは不当な利益では?」
「なぜ?」
「製造原価と比較して――」
「客が銀貨十枚を払うと言っている」
「だからといって――」
「では銀貨一枚で売るか?」
黒崎は答えなかった。
ガルクは銀貨を一枚だけ残した。
「人間の鏡が銀貨一枚になれば、職人の鏡は一枚も売れなくなる。十枚なら金持ちだけが買う。職人の鏡も残る」
蓮が「ああ」と声を漏らした。
ガルクは黒崎を見る。
「安く売る方が善良だと思ったか?」
「……」
「安さで市場を壊すこともある」
黒崎は腕を組んだ。
「しかし高価格を維持するため意図的に供給量を絞るのであれば、それは一種の市場操作です」
「そうだ」
「認めるのですか?」
「当然だ」
あまりにも即答だったため、今度は黒崎の方が戸惑った。
ガルクは平然としている。
「市場は誰かがいつも動かしている。売る者、買う者、作る者、運ぶ者。何もしなければ自然に正しい値段になるなどという話を、私は信用しない」
「市場原理そのものを否定するおつもりですか?」
「知らん」
「知らん?」
「お前の言う難しい言葉は知らん。私は売って買って三十年生きてきた」
ガルクは銀貨を摘まみ上げた。
「これが昨日いくらだったか。今日いくらか。明日誰が欲しがるか。それなら知っている」
蓮は小声で呟いた。
「強いな……」
リーネも頷いた。
「黒崎が押されている」
◇
だが黒崎も元官僚である。
この程度では引き下がらなかった。
「では、あなたの案を聞きましょう」
「簡単だ。人間製品は私が買う」
「却下します」
今度はガルクが止まった。
「なぜだ?」
「あなた一人に流通経路を独占させることになるからです」
「私が信用できないと?」
「あなた個人の信用の話ではありません。誰であっても、一者に流通を独占させる制度は認めるべきではないと言っています」
ガルクが黒崎を見つめる。
「理由は?」
「あなたが死んだら?」
ガルクの耳がぴくりと動いた。
「後継者が無能だったら? あるいは意図的に供給を止めたら? 競争相手を潰すため特定地域にだけ商品を流さなかったら?」
黒崎は資料を閉じた。
「制度は善人を前提に作るものではありません」
今度は蓮がガルクを見る。
ガルクはしばらく黙っていた。
やがて丸眼鏡を押し上げる。
「……なるほど」
黒崎の口元がわずかに上がった。
「ご理解いただけましたか」
「お前もたまには役に立つな」
「たまにはとは何ですか!」
蓮が吹き出した。
「そこは素直に褒めろよ」
「褒めた」
「今ので!?」
「商人にとって最大級の賛辞だ」
「知りませんよ!」
◇
話し合いは続いた。
人類製品を誰が扱うのか。
どれだけ流通させるのか。
どの地域へ売るのか。
武器や医療品をどう扱うのか。
黒崎は制度を作ろうとする。
ガルクは現場を語る。
そして二人は、驚くほど意見が合わなかった。
「交易許可品目については、事前審査制度を導入すべきです」
「遅い」
「またそれですか!」
「新しい商品が出るたびに会議を開くのか?」
「安全性の確認は必要でしょう!」
「爪切りに何の安全審査がいる」
「爪切りでも怪我はします!」
「剣を腰に差して歩いている連中が?」
「それとこれとは別問題です!」
蓮が顔を伏せた。
笑ってはいけない。
しかし、もう限界だった。
ガルクが続ける。
「なら品物を三つに分けろ」
黒崎が止まる。
「三つ?」
「好きに売っていいもの。量を決めるもの。売ってはいけないもの」
黒崎は少し考えた。
「……自由流通品、管理品、禁制品ということですか」
「名前は好きにしろ」
黒崎は資料へ何かを書き込んだ。
「それなら運用可能かもしれません」
「最初からそう言っている」
「言っていません!」
「今言った」
「今でしょう!」
「だから今決まった」
「制度というものは、そう簡単に――」
「決まったなら早く始めろ」
黒崎のこめかみに血管が浮かんだ。
◇
次の議題は貨幣だった。
黒崎が資料を切り替える。
「長期的には、人類独自の決済手段を整備する必要があると考えています」
ガルクがため息をついた。
「またそれか」
「何です、その反応は」
「既に金がある」
「しかし、我々が現在使用している生産・資源管理システムと、エルフ社会の金属貨幣には互換性がありません」
「だから?」
「将来的な取引規模の拡大を考えれば、人類側で信用を担保した交換媒体を――」
「誰が信用する?」
「人類共同体が価値を保証します」
「私は?」
「……はい?」
「私がそれを受け取って、次にエルフへ渡す。エルフは受け取るのか?」
「それは今後、信用を――」
「受け取らん」
「最初から決めつけるのは――」
「では、お前が作った紙を銀貨百枚分受け取れと言われたら、お前は受け取るか?」
黒崎が黙る。
ガルクは追撃した。
「知らない国。知らない王。知らない紙。『これは銀貨百枚の価値があります』と言われたら?」
「……信用の裏付けを確認します」
「何年かけて?」
「ぐ……」
「私は明日、商売をする」
黒崎の口元が引きつった。
ガルクは机の上に銀貨を置いた。
「これなら今日使える。明日も使える。エルフも使う。ゴブリンも使う。人間も使えばいい」
「しかし、将来的には独自の金融制度を構築する必要性が――」
「必要になったら作れ」
「制度設計は事前に――」
「まだ誰も欲しがっていない金を作るために?」
「将来を見越して――」
「今ある金を使いながら考えればいい」
「しかし!」
「金を使ったことのない今の人間が、金を毎日使っている私に貨幣を教えるのか?」
黒崎の顔が固まった。
「我々は地球で高度な金融システムを――」
「今あるのか?」
「……ありません」
「銀行は?」
「ありません」
「税は?」
「現在はありません」
「給料は?」
「……ありません」
「商店は?」
黒崎が一瞬、地球家を思い浮かべた。
「あれを商店と呼んでいいのかは……」
「では、お前たちは金を使っていない」
「それは現在の特殊な社会構造によるもので――」
「私は昨日も金を使った」
「だから何です!」
「私の方が今の市場を知っている」
黒崎の顔が赤くなった。
「ぐ……」
蓮が嫌な予感を覚えた。
「黒崎さん?」
「ぐぬ……」
リーネが首を傾げる。
「どうした?」
「ぐぬぬぬぬ……!」
会議室が静まり返った。
若い技術職員が目を丸くした。
「……初めて見ました」
隣の職員が小声で聞く。
「何を?」
「リアルで『ぐぬぬぬ』って言ってる人」
蓮が吹き出した。
リーネも耐えられなかった。
「聞こえているぞ!」
黒崎が叫んだ。
ガルクだけが不思議そうな顔をしていた。
「グヌヌとは何だ?」
「今それ聞くな!」
黒崎の怒声が会議室に響いた。
◇
数時間後。
結局、かなり現実的な案がまとまった。
既存の銅貨、銀貨、金貨を人類側でも対外取引に使用する。
人類製品は自由流通品、管理品、禁制品の三分類とする。
流通量は現地市場を見ながら調整し、複数の商人を通すことで一者による独占を防ぐ。現地産業と直接競合する製品については、価格だけでなく既存の生産者への影響も考慮する。
さらに、取引記録は人類側でも保存する。
ガルクの現場感覚と、黒崎の制度設計。
互いに散々文句を言い合った結果、どちらか一方だけで作るより、はるかにまともな仕組みが出来上がっていた。
黒崎は完成した文書を読み返した。
「……不本意ですが、悪くありません」
ガルクも見る。
「文字が多すぎる」
「必要です」
「三分の一にできる」
「できません」
「半分」
「値切らないでください!」
蓮が笑う。
「仲いいよな、お前ら」
二人が同時に振り向いた。
「どこがだ!」
「どこがですか!」
また声が重なった。
若い職員がぼそりと言う。
「やっぱり仲いいですよ」
「黙りなさい!」
◇
会議が終わり、ガルクは荷物をまとめ始めた。
黒崎がふと尋ねる。
「一つ聞いても?」
「何だ」
「あなたは経済をどこで学んだのです?」
「ケイザイ?」
「物の値段や流通、信用、需給についてです」
ガルクは丸眼鏡を押し上げた。
「父親」
「お父上も商人?」
「ああ。十歳から荷車を引かされた。十二歳で初めて一人で仕入れに行った。十五歳の時に値段を読み違えて全財産の半分を失った」
「……それは」
「父親に殴られた」
「教育方法には問題がありますね」
「その翌年、父親が値段を読み違えた」
「どうなったんです?」
「殴り返した」
黒崎が絶句した。
ガルクは平然としている。
「商売は公平だ」
「絶対に違うと思います」
ガルクは荷物を背負った。
「お前は?」
「私?」
「どこで商売を学んだ」
黒崎は眼鏡を直した。
「私は商人ではありません。大学で経済学を学び、その後は行政で産業政策と通商政策に――」
「つまり商売をしたことはない?」
「……ありません」
ガルクはしばらく黒崎を見つめた。
そして、ぽん、と肩を叩いた。
「これから覚えればいい」
黒崎の眉が跳ね上がった。
「なぜあなたが上からなんです!」
ガルクは既に出口へ向かっていた。
蓮が笑いながら後を追う。
「黒崎さん、完全に弟子扱いされてますよ」
「誰があのゴブリンの弟子になるものですか!」
廊下の向こうからガルクの声が返ってきた。
「明日は市場へ行くぞ、黒崎!」
「なぜ私が!」
「紙の上では値段は動かん!」
「私は行くとは言っていません!」
「朝六時だ!」
「早い!」
「商人の朝は早い!」
黒崎は額を押さえた。
そして小さく呟く。
「ぐぬぬ……」
隣にいた職員が嬉しそうに振り向いた。
「二回目だ」
「数えるな!」
こうして、人類とこの世界を結ぶ新しい交易制度が動き始めた。
その中心にいたのは、宇宙を渡ってきた人類の経済学者でも、巨大な演算能力を持つ人工知能でもなかった。
丸眼鏡を掛け、赤い帽子を被った、一人のゴブリン商人だった。
――第三十五話 商人の勘定 了




