第31話 金がない
人類居住区からエルフの町までは、歩けばそれなりに時間がかかる。しかし人類が使う小型車両なら大した距離ではない。
その日、一台の車両が町の入口で止まり、六人の人間が降りてきた。
調査でも外交でもない。ましてや魔物の討伐でもない。
ただ遊びに来たのだ。
「観光ってことでいいんだよな?」
「いいんじゃない? 何か問題ある?」
「いや……」
男は町を見上げた。石造りの建物、木製の看板、道を行き交うエルフたち。荷車が通り過ぎ、遠くから何かを焼く香ばしい匂いが漂ってくる。
「本当に異世界みたいだな」
隣にいた女が笑った。
「向こうから見れば、私たちの居住区の方が異世界でしょうけどね」
「確かに」
六人は連れ立って市場へ向かった。
◇
市場は大勢のエルフで賑わっていた。
野菜、果物、肉、魚、香辛料、布、衣服、食器、装飾品、工具。少し奥へ行けば剣や弓まで普通に売られている。
「おお……」
一人の男が露店へ吸い寄せられた。
赤紫色の果実が山積みになっている。
「これ美味そう」
店主のエルフが答えた。
「甘いぞ。今朝採ったばかりだ」
「一個ください」
「銅貨二枚だ」
「……銅貨?」
男の動きが止まった。
反射的に服のポケットへ手を伸ばし、そこでようやく気づいた。財布など持っていない。忘れてきたのではない。そもそも今の人類には財布というものがほとんど必要ない。
「ごめん。俺、金持ってない」
店主が男を見る。
「……では、なぜ買おうとした?」
「癖で」
「?」
「いや、なんでもない」
男は果物を戻した。
そして同じような出来事が、市場のあちこちで起こった。
「これ綺麗!」
「銀貨一枚だ」
「……銀貨持ってません」
別の場所では、
「これ食べてみたい」
「銅貨五枚」
「金ないんだった……」
さらに酒を見つけた男が値段を聞き、銀貨二枚と言われて肩を落とす。
十分後、六人は市場の中央に集まっていた。
「何も買えねえ」
「当たり前でしょ」
「観光地に財布忘れてきた感じだな」
「忘れたんじゃなくて、財布そのものがないのよ」
「……詰んでるじゃん」
◇
現在、人類居住区では通貨が使われていない。
理由は単純だった。今のところ、なくても社会が動くからだ。
生存者は三千七百余名。食料、住宅、衣服、医療、教育、エネルギーといった生活に必要なものは共同体から供給される。
農業に従事する者は給料を得るために作物を育てているわけではない。皆が食べるために作る。
医師は金を稼ぐためではなく、人を生かすために治療する。技術者は生活基盤を維持し、教師は次世代へ知識を伝える。
そしてラーメン屋の親父はラーメンを作る。
最後の一人だけは、なぜそこまでしてラーメンを作るのか本人にしか分からなかったが、とにかく社会は回っていた。
三千七百人という小さな人口、中央管理された資源、そして高度に自動化された生産設備。
それらが揃っているからこそ成立する、かなり特殊な社会だった。
だが、エルフ社会は違う。
人口が多く、土地を持つ者がいて、農作物を育てる者がいる。鍛冶屋は剣を作り、職人は服や食器を作る。それぞれが自分の作ったものや労働を他者と交換して生活している。
もちろん、すべてを物々交換で済ませるのは難しい。
魚が欲しい鍛冶屋が剣を持って魚屋へ行っても、魚屋が剣を欲しがっているとは限らない。
そこで、誰もが価値を認めるものを交換の間に置く。
貨幣だ。
銅貨や銀貨そのものは食べられないし、雨風を防いでくれるわけでもない。それでも「これには価値があり、次の人も受け取ってくれる」と皆が信じることで、価値を保存し、別のものと交換し、未来へ持ち越すことができる。
そして今、金のない三千七百人の共同体が、金のある社会と本格的に接触し始めていた。
当然、少々面倒なことになる。
◇
「どうする?」
市場の隅で六人が相談していた。
「帰る?」
「せっかく来たのに?」
「金ないんだからしょうがないだろ」
すると、一人の女性が鞄の中を探って「あ」と声を上げた。
「これなら交換できないかな」
取り出したのは一本のボールペンだった。
「そんなの欲しがる?」
「分かんない。聞くだけ聞いてみようよ」
近くにあった文具店へ入り、店主へ話しかける。
「すみません。これと紙、交換できません?」
「何だ、これは?」
「こうやって使うの」
女性は紙を借り、さらさらと文字を書いた。
店主の目が変わった。
「……インクは?」
「中に入ってる」
「羽根を使わない?」
「使わない」
「インク壺も?」
「いらない」
店主はボールペンを受け取り、自分でも文字を書いてみた。一度書き、もう一度書き、今度は線を引く。
「これをくれるのか?」
「紙と交換なら」
「待っていろ」
店主は奥へ消え、しばらくして大量の紙を抱えて戻ってきた。
「これでどうだ」
「そんなに!?」
「少ないか?」
「逆! 多い!」
交渉は成立した。
そして噂が市場を駆け巡るまで、それほど時間はかからなかった。
◇
「見せてくれ!」
「私にも使わせてくれ!」
「売ってくれないか?」
いつの間にか人だかりができていた。
「いや、これ一本しか――」
すると仲間の一人が鞄を探る。
「俺も持ってるけど」
「何!?」
三本出てきた。
人間にとっては珍しくもない筆記具。しかしエルフにとっては、インク壺を持ち歩かずに何度でも文字を書ける便利な道具だった。
そこから、人間たちの鞄の中身を利用した即席の物々交換が始まった。
小さな鏡は大人気だった。
「こんなに歪みなく映るのか!」
「いや、普通の鏡だけど……」
爪切りも予想外に受けた。
「これは便利だ!」
「そこまで感動する?」
折り畳み傘に至っては、開いたり閉じたりするたびに人が集まった。
そして一人の男が自信満々にライターを取り出した。
「これは絶対ウケる」
カチッ。
小さな炎が灯る。
エルフたちは黙って見ていた。
「……どう?」
一人のエルフが人差し指を立てた。
ぽっ、と指先に火が灯る。
人間の男はライターを見た。
エルフを見た。
もう一度ライターを見る。
「いらんな」
「ですよね」
静かに鞄へ戻した。
◇
夕方、人間たちは大量の荷物を抱えて町を出た。
果物、布、酒、工芸品、香辛料。なぜか剣まで一本ある。
「その剣、何と交換したの?」
「爪切り」
「嘘でしょ」
「向こうから言ってきたんだよ」
「爪切り強すぎない?」
笑いながら車両へ荷物を積み込む。
「なんか昔の交易みたいだな」
「完全に物々交換だもんね」
この日は楽しかった。
だが、この時点では人間側もエルフ側も、これが少々面倒な問題へ発展することに気づいていなかった。
◇
一週間後。
蓮の前に大量のボールペンが並べられていた。
「……何これ」
担当者が平然と答える。
「交易用です」
「誰が作った?」
「製造設備です」
「何本?」
「とりあえず五千本」
「作りすぎだろ!」
担当者は困った顔をした。
「でも需要があります。ほかにも鏡が二千枚、爪切り三千個、折り畳み傘を千五百本ほど――」
「待て待て待て!」
蓮は頭を抱えた。
「俺たち何しにこの惑星へ来たんだっけ」
『移住です』
イザナミが即答した。
「そうだよな。ボールペン輸出するためじゃないよな」
『その認識で正しいです』
担当者が申し訳なさそうに続ける。
「それで、少し問題がありまして」
「まだあるの?」
「人間製品の価値が高騰しています」
そこで蓮の表情が変わった。
「……ああ」
人類の製造設備にとって、ボールペン一本を作るコストなど無視できるほど小さい。鏡も爪切りも傘も、材料さえあれば大量生産できる。
しかしエルフ社会では、それらに高い価値がついている。
つまり人類がその気になれば、ほとんど負担なく大量の商品を作り、それと引き換えにエルフ社会の食料、土地、貴金属、工芸品などを吸い上げることができてしまう。
「これ、まずいな」
「はい」
異なる文明が接触すれば、同じ品物でも価値の尺度が一致しない。
こちらではほとんど価値のない物が、向こうでは銀貨一枚になることもある。
しかも圧倒的な生産力を持つ側が無制限に商品を流し込めば、便利になるだけでは済まない。既存の職人や産業を潰し、物価や貨幣価値そのものを混乱させる可能性さえある。
蓮はしばらく考えてから言った。
「交易ルールを作ろう。エルフ側とも話し合って、何をどれだけ持ち込むか決める」
「はい」
「製造設備で交易品を勝手に量産するのも禁止」
「既に申請制へ変更しました」
「仕事早いな」
「五千本作ったあとですが」
「遅いわ!」
◇
しかし、問題はもう一つあった。
「それでですね」
「まだあんの?」
「人間側から要望が出ています」
「何?」
「貨幣を作ってほしいと」
蓮は黙った。
「……早くない?」
「エルフの町で買い物したいそうです」
「理由が軽いな!」
だが、考えてみれば当然の要求でもあった。
今の人類社会だけなら、通貨はなくても困らない。三千七百人という人口と中央管理された資源、高度な自動生産設備があれば、必要なものを必要な場所へ配ればいい。
しかし外には、はるかに多くの人々が暮らしている。
彼らと継続的に交易するなら、毎回「ボールペン一本と果物何個」などと交渉するわけにもいかない。
「……貨幣か」
『今後、必要性は増大すると予測されます』
「でも、人類が勝手に新しい通貨を作ったところで、エルフが信用しなきゃ何の意味もないぞ」
『その通りです』
紙に数字を書けば金になるわけではない。金属を丸く加工しても、それだけでは貨幣にはならない。
受け取った相手が、「これを次の誰かも受け取ってくれる」と信じて初めて貨幣になる。
蓮は椅子にもたれた。
「結局、信用なんだな」
『はい』
「恒星間航行できるようになっても、そこは変わらないか」
少しだけ面白そうに笑った。
「まあ、急ぐ必要はない。エルフ側とも話して考えよう。下手な通貨を作ったら、余計ややこしくなる」
「分かりました」
◇
その日の夜。
ラーメン地球家。
蓮はカウンターでラーメンを啜っていた。
隣にはエルフの男。その隣にはダークエルフ。誰も気にせず、それぞれの丼に向かっている。
蓮はふと店主を見た。
「なあ」
店主がちらりと見る。
「そのうち、この店も金取るようになるのかな」
「あいよ」
蓮の箸が止まった。
「え?」
店主は黙々と次のラーメンを作っている。
「今のどっち? 金取るの?」
「あいよ」
「取らないの?」
「あいよ」
「……どっちだよ」
答えはなかった。
蓮は諦めて麺を啜った。
その時、入口が開く。
「らっしゃいせー」
若いエルフが入ってきて、慣れた様子でカウンターへ座った。
「店主殿」
店主が見る。
エルフは真剣な顔で唱えた。
「ニンニクヤサイアブラカラメマシマシ」
「あいよ」
蓮が顔を上げた。
「まだ流行ってんのかよ……」
エルフが振り返る。
「当然だ。最近は我々の町でも『マシマシ』という言葉が広まり始めているぞ」
「頼むからやめてくれ」
金がある社会と、金のない社会。
数千年、別々の歴史を歩いてきた二つの文明は、こうして少しずつ混ざり始めていた。
そして人類がこの惑星で最初に大量輸出しかけた商品は、宇宙船でも、ナノマシンでも、超高性能機械でもない。
ボールペンと爪切りだった。
――第三十一話 金がない 了




