第28話 ラーメン地球家
人類居住区の中央通りに、新しい店ができた。
白い壁に引き戸。入口には赤い暖簾が掛けられ、その上には黒々とした文字で店名が記されている。
『ラーメン地球家』
十二万人で地球を旅立ち、この惑星の地上へ降りることができたのは三千七百余名。
生存者たちが住居を建て、食料生産を安定させ、学校を再開し、ようやく明日の生存だけを考えなくてもよくなり始めた頃だった。
そんな人類に、ラーメン屋ができた。
◇
「……なんでラーメン屋なんだ?」
蓮は腕を組み、店を見上げていた。
隣にいた男が答える。
「本人がやりたいって言ったからでしょう」
「それは知ってる。許可したの俺だし」
「じゃあ何が問題なんです?」
「いや……」
蓮は赤い暖簾を見る。
「文明再建って、もっとこう……学校とか工場とか議会とか、そういうものから始まると思ってた」
「全部作ってるじゃないですか」
「まあな」
「だったらラーメン屋くらいあってもいいでしょう」
蓮は少し考えた。
「……ラーメン屋も文明か」
「立派な文明です」
引き戸を開けた。
「らっしゃいせー」
低い声が飛んできた。
◇
店内はそれほど広くない。
カウンターが十二席。奥にいくつかのテーブル。
厨房には大きな寸胴、製麺機、冷蔵設備、調理台が並んでいる。
どこからどう見ても地球にあったラーメン屋だった。
ただし、寸胴も製麺機も冷蔵設備も、人類が恒星間移民のために開発したナノ製造技術によって作られている。
蓮はカウンターへ座った。
店主は五十代ほどの男だった。
頭にタオルを巻き、無表情で厨房に立っている。
「なあ」
店主が見る。
「この寸胴、ナノ製造設備で作ったよな?」
「あいよ」
「製麺機も?」
「あいよ」
「冷蔵庫も?」
「あいよ」
「人類が恒星間移民するために持ってきた製造設備で?」
「あいよ」
「ラーメン作ってんの?」
「あいよ」
蓮は少し考えた。
「……まあいいか」
壁には品書きがある。
醤油。
塩。
味噌。
豚骨醤油。
チャーシューメン。
そして端には小さく、
《本日百二十食》
と書かれていた。
食料が無限にあるわけではない。
小麦も肉も野菜も、人類共同体の生産物だ。
地球家にも一定量の食材が割り当てられている。
ただし、金は取らない。
そもそも今の人類社会には通貨がなかった。
蓮は品書きを見る。
「豚骨醤油」
「あいよ」
「麺硬め」
「あいよ」
「味濃いめ」
「あいよ」
「油普通」
「あいよ」
少し間を置いて、蓮が聞いた。
「俺が誰か知ってる?」
「あいよ」
「移民団の最高責任者」
「あいよ」
「だから何だって思ってる?」
「あいよ」
「思ってるんだな?」
店主は既に蓮を見ていなかった。
麺を茹で始めている。
「……強いな、この人」
◇
やがて一杯のラーメンが置かれた。
「あいよ」
湯気が上がる。
醤油と脂の香り。
麺。
チャーシュー。
海苔。
ネギ。
蓮はしばらく丼を見ていた。
珍しい料理ではなかった。
地球にいた頃なら、街を歩けばいくらでも食べられた。
有名店もあった。
安い店もあった。
夜中まで開いている店もあった。
飲んだ帰りに何となく入った店もあった。
いつでも食べられると思っていた。
箸を取る。
麺を啜った。
「……」
スープを飲む。
もう一度、麺を啜る。
店主は何も聞かない。
「……地球の味だな」
店主の手が一瞬だけ止まった。
だが、すぐに次の作業へ戻った。
「あいよ」
それだけだった。
◇
地球家の噂は、瞬く間に広がった。
翌日には開店前から列ができた。
「昨日食った?」
「食った」
「どうだった?」
「ラーメンだった」
「だから味を聞いてるんだよ」
「だからラーメンだったんだよ」
「意味分かんねえよ」
近くにいた女が笑った。
「でも、なんか分かる」
誰かが聞いた。
「店主、魚介系やらないんですか?」
「あいよ」
「やるの?」
「あいよ」
「替え玉は?」
「あいよ」
「つけ麺」
「あいよ」
「二郎系」
「あいよ」
「全部やるの?」
「あいよ」
本当に聞いているのか。
誰にも分からなかった。
◇
さらに数日後。
長い耳を持つ三人の若いエルフが、地球家の前に立っていた。
人間区域への立ち入りが制限付きながら認められるようになり、好奇心の強い若者を中心に人間の文化を見に来る者が増えていた。
三人は暖簾を見上げる。
「ここらしい」
「ラァメンという料理を出す場所か」
「人間の間ではかなり評判らしい」
「入るぞ」
引き戸を開ける。
「らっしゃいせー」
三人が止まった。
「……何と言った?」
「分からない」
「翻訳されなかったぞ」
「人間の言語ではないのか?」
店主が三人を見る。
三人も店主を見る。
沈黙。
やがて一人が勇気を出した。
「店主殿」
「……」
「我々は、その……ラァメンというものを食べたい」
「あいよ」
三人が顔を見合わせる。
「通じた」
「通じたな」
「しかし、何を頼んだことになった?」
「知らん」
◇
出てきたのは醤油ラーメンだった。
「あいよ」
三人は人間の客を観察した。
箸で麺を持つ。
啜る。
真似をする。
「……!」
一人が目を見開いた。
もう一口。
スープ。
チャーシュー。
しばらく誰も喋らなくなった。
やがて一人が顔を上げる。
「店主殿」
「……」
「非常に美味い」
「あいよ」
「この汁は何から作る?」
「あいよ」
「いや、だから材料を――」
「あいよ」
エルフは隣の仲間を見る。
「秘伝なのだろう」
「なるほど」
「職人とはこういうものか」
違う気もしたが、誰も訂正しなかった。
食事を終える。
エルフの一人が立ち上がった。
「それで店主殿。代価は?」
店主は麺を茹でている。
「……」
「この料理に対して何を渡せばよい?」
「あいよ」
「いや、そうではなく……」
隣に座っていた人間が笑った。
「いらないよ」
「何?」
「今の俺たち、金なんて使ってないから」
エルフが驚いた。
「では、この者は何のために毎日料理を作っている?」
人間は店主を見る。
店主は黙々と湯切りしている。
「……作りたいからじゃない?」
エルフも店主を見る。
「それだけで?」
「あいよ」
聞いていたのかは分からなかった。
◇
そして。
問題は、その数日後に起きた。
昼前。
一人の若いエルフが地球家へ入ってきた。
「らっしゃいせー」
既に何度か来たことのある男だった。
今日は様子が違う。
妙に緊張している。
カウンターへ座る。
偶然、少し離れたところに蓮もいた。
若いエルフは一度深呼吸した。
「店主殿」
店主が見る。
エルフは真剣な顔で告げた。
「ニンニクヤサイアブラカラメマシマシ」
店内が静まり返った。
蓮がゆっくり顔を上げた。
「……誰だ」
誰も答えない。
「誰だ、あいつにそれ教えたの」
人間の客が一斉に目を逸らした。
エルフが不安そうに店主を見る。
「……呪文を間違えただろうか?」
「呪文じゃねえよ」
蓮が突っ込んだ。
店主は全く動じない。
「あいよ」
蓮が店主を見る。
「通るの!?」
「あいよ」
「できるの!?」
「あいよ」
◇
しばらくして。
丼が置かれた。
「あいよ」
エルフが固まった。
山だった。
大量の野菜。
脂。
ニンニク。
濃いタレ。
その下に麺が埋まっている。
エルフは丼を見た。
店主を見る。
もう一度、丼を見る。
「……店主殿」
「……」
「これは一人分なのか?」
「あいよ」
「本当に?」
「あいよ」
周囲の人間たちは誰も目を合わせない。
自分で唱えた呪文である。
逃げるわけにはいかない。
「……いただこう」
エルフは箸を取った。
◇
三十分後。
「……美味かった」
若いエルフが立ち上がった。
顔色が悪い。
腹が明らかに膨れている。
「ありやっしたー」
「店主殿」
「……」
「次回は……ヤサイは普通にする」
「あいよ」
エルフはふらふらと店を出ていった。
蓮がその背中を見る。
「だから誰なんだよ。変な地球文化を教えてる奴……」
その時。
店の隅にいた別のエルフが、小さな板へ何かを書き留めているのが見えた。
蓮は嫌な予感がした。
「おい」
「……何だ?」
「今、何書いた?」
「何も」
「見せろ」
「これは、その……」
蓮が板を見る。
《ニンニク》
《ヤサイ》
《アブラ》
《カラメ》
《マシ》
《マシマシ》
そして、その下には。
《呪文ではない》
と書かれていた。
蓮は頭を抱えた。
「そこは学習したんだな……」
◇
さらに数日後。
人間区域に奇妙な日本語が広がり始めた。
「今日の訓練はどうだった?」
「かなりマシマシだった」
「何が?」
エルフの若者が市場で言う。
「その果物、もう少しマシマシで頼む」
「何を?」
別の場所では。
「酒をマシマシで」
「だから何を増やすんだよ!」
人間の言語を研究していた生存者の一人が、それを聞いて頭を抱えた。
「よりによって最初に定着する日本語が『マシマシ』なのか……」
文化というものは。
伝える側の思い通りには広がらないらしい。
◇
そんなある日。
セレネが地球家へやって来た。
「らっしゃいせー」
カウンターへ座る。
「肉が多いやつ」
「あいよ」
やがて。
チャーシューメンが置かれた。
「あいよ」
セレネは丼を見る。
麺がほとんど見えない。
「……多くない?」
「あいよ」
「まあ、頼んだの私だけど」
「あいよ」
一枚食べる。
「……美味しい」
店主は何も言わない。
二枚目。
三枚目。
そして。
箸が止まった。
チャーシューを見る。
少しだけ。
笑った。
「……あいつ、これ絶対好きだったわ」
店主が一瞬だけセレネを見る。
「馬鹿みたいに肉ばっかり食べる奴だったの」
何も聞かない。
何も尋ねない。
セレネが言った。
「ねえ」
店主が見る。
「肉だけ二枚、包んでくれる?」
「あいよ」
◇
食事を終えたセレネが立ち上がる。
「美味しかった」
「ありやっしたー」
「また来る」
「あいよ」
少し離れた席にいた蓮も立ち上がった。
「ごちそうさん」
「ありやっしたー」
二人は店を出た。
セレネの手には小さな包み。
「墓か?」
蓮が聞く。
「……うん」
「食うかな」
「食べるわけないでしょう」
「だよな」
少し歩く。
セレネが包みを見る。
「でも」
「ん?」
「食べそうじゃない?」
蓮は守護竜を思い出した。
「……食べそうだな」
二人は笑った。
◇
夕方。
守護竜の墓。
《我らを守りし者、ここに眠る》
セレネはその前へ座った。
包みを開く。
チャーシューを二枚置いた。
「地球ってところの料理なんだって」
風が吹く。
「ラーメンっていうの」
返事はない。
「肉いっぱい乗ってた」
セレネは墓を見る。
「食べたかったでしょ」
少し笑う。
「残念でした」
しばらく座っていた。
やがて立ち上がる。
「じゃあね」
歩き出す。
今度は振り返らなかった。
◇
夜。
最後の客が店を出た。
「ごちそうさまでした」
「ありやっしたー」
店主は一人で片付けを始める。
寸胴を洗う。
丼を片付ける。
厨房を拭く。
翌日の小麦と肉の割当量を確認する。
最後に暖簾を下ろす。
照明を消そうとして。
一度だけ。
壁を見る。
そこには一枚の写真が飾られていた。
宇宙から見た地球。
青い海。
白い雲。
かつて。
十二万人が暮らしていた故郷。
店主は何も言わない。
しばらく見てから。
照明を消した。
◇
翌朝。
店主が地球家へ来る。
既に行列ができていた。
人間。
エルフ。
ダークエルフ。
二十人以上。
「店主来たぞ」
「今日、味噌ある?」
「ニンニク入れられる?」
そして。
列の後ろからエルフの声がした。
「今日はヤサイマシでいく」
別のエルフが答える。
「弱気だな。私はマシマシだ」
店主は何も言わない。
鍵を開ける。
赤い暖簾を出す。
『ラーメン地球家』
地球から遠く離れた惑星。
故郷を失った人間たちと。
人間から生まれ。
人間を知らずに何千年も生きてきた者たち。
そんな彼らが。
同じ店の前に並んでいた。
店主は厨房へ入る。
寸胴の蓋を開ける。
そして。
いつもと同じ声で言った。
「らっしゃいせー」
ラーメン地球家。
今日も営業開始。
――第二十八話 ラーメン地球家 了




