第26話 守護神の最後
「最後に一回だけ、守らせて」
セレネは弓を構えた。
空には四枚の翼を広げた守護竜がいる。
伸びた角。
額に開いた第三の眼。
その周囲では大小無数の岩石が浮かび、山そのものが竜の支配下に置かれたかのように震えていた。
もう、セレネの知る姿ではない。
それでも。
あれは間違いなく、彼女が何十年も帰りを待ち続けた竜だった。
「何をするつもりだ?」
蓮が聞いた。
「分からない」
「おい」
「でも、あいつの中に変なのがいるんでしょう?」
「ああ」
「だったら追い出す」
蓮は一瞬黙った。
「できるのか?」
「だから分からないって言ってるでしょ」
「堂々と言うなよ……」
セレネは弦をさらに引いた。
いつもの矢とは違った。
鏃もない。
矢羽もない。
細長い棒状の構造物が形成され、その表面を無数の微細な粒子が流れている。
セレネ自身にも、なぜこの形を作ったのか分からない。
ただ、そうすればいい。
そんな感覚があった。
「昔からそうなのよ」
「何が?」
「どうやればいいかなんて知らない。でも、こうすればできるって分かる」
蓮の表情が変わった。
「それ……」
「何?」
「いや、今はいい」
蓮は守護竜を見上げた。
「やれ」
セレネが放った。
◇
矢は守護竜の胸へ向かった。
第三の眼が動く。
竜が未知の言葉を発した。
空中の岩石が一斉に矢へ殺到した。
「邪魔させるか!」
蓮が右手を振る。
人類側に残された環境ナノ群を総動員し、岩石の軌道をずらす。
ダークエルフたちも加わった。
「道を開けろ!」
いくつもの岩が弾き飛ばされる。
矢はその間を抜けた。
守護竜が身体を捻る。
「逃がすな!」
セレネが叫ぶ。
矢が急激に軌道を変えた。
そして。
守護竜の胸へ突き刺さった。
爆発はしなかった。
傷もほとんどない。
その代わり。
矢が崩れた。
無数の粒子となり、守護竜の身体へ入り込んでいく。
「蓮!」
「見えてる!」
蓮の視界に新しい経路が開いた。
セレネの作ったナノ群が、守護竜内部の既存システムへ接続している。
「……すげえな」
「何が!」
「お前、こいつの内部へ穴を開けたぞ」
「じゃあ入って!」
「言い方!」
蓮はすぐに接続した。
◇
意識が落ちた。
そう感じた。
蓮は一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった。
身体の感覚が消えている。
視界もない。
音もない。
それでも何かがある。
情報。
膨大な情報が流れている。
守護竜の記憶。
山。
空。
セレネ。
肉。
またセレネ。
飛ぶ。
眠る。
子供を背中へ乗せる。
家畜を盗んでセレネに怒られる。
そして。
北。
黒い嵐。
《果て》。
そこから先。
記憶が壊れていた。
「……何だ、これ」
蓮の声なのか、それとも思考なのか分からない。
暗い。
あまりにも暗い。
そして。
広い。
守護竜一頭の意識の中に存在できるはずのない広さだった。
「蓮?」
セレネの声がした。
「お前もいるのか?」
「分からない。何ここ」
「こいつの中だ」
「……あいつ?」
「たぶんな」
二人は同じものを感じていた。
暗闇。
その向こうに何かがある。
姿は見えない。
形もない。
大きさすら分からない。
ただ。
何かを探している。
そんな感覚だけが伝わってきた。
遠くへ。
もっと遠くへ。
どこまでも。
誰か。
何か。
自分ではないものを。
探している。
セレネが呟いた。
「……寂しいの?」
蓮が反応した。
「何?」
「分からない」
セレネ自身も戸惑っていた。
「でも……なんか……」
暗闇の向こう。
何かが動いた。
こちらを。
見た。
「切れ!」
蓮が叫んだ。
◇
二人の意識が現実へ戻った。
セレネが大きく息を吸う。
「今の……!」
「後だ!」
蓮は守護竜を見る。
第三の眼が激しく動いていた。
「見つけた」
蓮が言った。
「何を?」
「分からん」
「何よそれ!」
「分からないけど、正常な制御系と異常な制御系の境目は見つけた!」
蓮が右手を守護竜へ向ける。
「イザナミ!」
『接続経路を確認しています』
「セレネのナノを足場にしろ!」
『実行』
「第三眼へつながってる制御だけ全部切断!」
『対象の構造変化が予測できません』
「構わん!」
守護竜が咆哮した。
四枚の翼が大きく広がる。
「やれ!」
《強制遮断》
第三の眼が大きく開いた。
未知の言葉が発せられる。
しかし途中で途切れた。
「――――」
音にならない声。
第三の眼が震える。
そして。
ゆっくり閉じた。
◇
守護竜が落ちた。
巨大な身体が地面へ激突する。
「押さえろ!」
ダークエルフたちが重力場を形成する。
しかし。
抵抗がない。
後から生えた二枚の翼が崩れ始めた。
肉が腐るような崩れ方ではない。
細かな粒子へ変わり、空気中へ消えていく。
異常に伸びていた角も縮んでいく。
やがて。
そこに残ったのは。
二枚の翼。
二本の角。
セレネが知っている姿だった。
「……ねえ」
セレネが近づく。
「おい」
蓮が止めようとした。
「大丈夫」
根拠などなかった。
それでもセレネは歩いた。
守護竜の瞼が開く。
澄んだ瞳。
「……セレネ」
セレネが笑った。
「うん」
「イタイ」
「……ごめん」
竜が自分の肩を見る。
そこにはセレネの矢が貫通した傷がある。
「セレネ……ヤッタ?」
「私がやった」
竜はしばらく考えた。
「ヒドイ」
セレネの顔がくしゃくしゃになった。
「うるさい」
竜の喉から小さな音が出る。
笑っている。
昔と同じだった。
セレネは鼻先へ額をつけた。
「帰ろう」
「カエル」
「みんな待ってる」
「ニク、アル?」
「あるわよ」
「タクサン?」
「山ほど食べさせてあげる」
「カエル」
セレネは笑った。
「うん。帰ろう」
◇
第三の眼が開いた。
ほんの少し。
「……え?」
セレネが気づいた。
守護竜の身体が震える。
「蓮!」
「見えてる!」
蓮が再接続する。
《未知命令検出》
「また来やがった!」
《強制遮断》
《拒否》
「くそっ!」
守護竜が苦しそうに頭を振る。
「セレネ……」
「大丈夫! もう一回やるから!」
「ムリ」
「できる!」
「ムリ」
竜はセレネを見る。
「マタ、クル」
「だったら何度でも追い出す!」
「マタ、クル」
「何度でも!」
守護竜はしばらく彼女を見ていた。
そして。
「オレ……」
言葉を探している。
「オレダケ……ジャナイ」
セレネの動きが止まった。
「何言ってるの?」
竜が自分の胸を見る。
「ナカ……イル」
「追い出せる」
「モウ……イル」
「だから!」
「セレネ」
その声だけは。
妙にはっきりしていた。
「ムリ」
セレネは何も言えなくなった。
◇
蓮も理解していた。
先ほどの接続で見た。
異常は単純な寄生ではない。
未知の情報構造は、既に守護竜自身のナノマシンや細胞と絡み合っている。
一度切り離しても。
戻ってくる。
なぜ戻ってくるのかは分からない。
どこから来るのかも分からない。
だが。
この竜自身が。
何かの入口になっている。
「蓮」
セレネが振り返らずに聞いた。
「治せる?」
蓮は答えなかった。
「正直に言って」
「……今は無理だ」
セレネが目を閉じた。
守護竜が空を見た。
青い空。
その遥か彼方。
何かを感じたように。
「ソラ」
蓮の表情が変わる。
「何だ?」
「ソラカラ……クル?」
セレネが蓮を見る。
蓮は黙っていた。
守護竜がもう一度聞く。
「クル?」
蓮は観念した。
「……ああ」
「ツヨイ?」
「たぶんな」
「オレヨリ?」
蓮は少し考えた。
「当たればな」
「オレ……シヌ?」
「やめて!」
セレネが叫んだ。
「そんなこと聞かなくていい!」
守護竜はセレネを見る。
それから。
蓮を見た。
「ソレ、ツカエ」
◇
「嫌よ」
即答だった。
「セレネ」
「嫌」
「ツカエ」
「嫌だって言ってるでしょう!」
守護竜は困ったように首を傾げた。
昔と同じ。
「セレネ、オコッテル?」
「怒ってる!」
「ナンデ?」
「あなたのせいよ!」
「……ナンデ?」
「もう!」
セレネの目から涙が落ちた。
守護竜がそれを見る。
「セレネ、ナク?」
「泣いてない!」
「ナイテル」
「泣いてない!」
「ナミダ」
「うるさい!」
竜は少し黙った。
そして。
鼻先をセレネへ寄せた。
「セレネ」
「何よ……」
「オレ、マモル」
セレネが顔を上げた。
「セレネ、マモル」
竜は周囲を見る。
ダークエルフたち。
蓮。
傷つき、倒れている者たち。
遠くにある山々。
さらにその向こう。
自分が長い間守ってきた土地。
「ミンナ、マモル」
セレネは唇を噛んだ。
遠い昔。
まだ小さな少女だった頃。
自分はこの竜に言った。
いつか私が。
あなたを守ってあげる。
「……ずるい」
「?」
「今それ言うの、ずるいわよ」
守護竜には意味が分からない。
それでも。
セレネが泣いていることだけは分かった。
◇
第三の眼が開き始めた。
「時間がない」
蓮が言った。
セレネは返事をしない。
「セレネ」
「分かってる」
守護竜の背中が隆起する。
新しい翼が再形成され始める。
「セレネ」
竜が苦しそうに言う。
「ナニ?」
「ニク」
セレネは目を見開いた。
「……まだ言うの?」
「タベタカッタ」
泣きながら。
セレネは笑った。
「馬鹿」
「ニク……」
「分かった」
セレネは鼻先を撫でた。
「向こうで好きなだけ食べなさい」
竜は意味を理解したのか。
それとも。
分からなかったのか。
小さく喉を鳴らした。
そして。
第三の眼が完全に開いた。
◇
守護竜が咆哮した。
四枚の翼が展開する。
「来るぞ!」
蓮が叫ぶ。
未知の言葉。
環境ナノ群が一斉に反応した。
地面が浮き上がる。
重力場が歪む。
しかし。
守護竜の身体が震えた。
「グ……!」
自分自身の飛行制御に抵抗している。
左右の瞳には。
まだ意識が残っている。
「イ……マ!」
蓮が目を見開く。
「全員拘束!」
ダークエルフたちが一斉に手を向けた。
重力場が重なる。
守護竜の巨体が地面へ押しつけられる。
「グオオオオオッ!」
第三の眼が未知の言葉を発する。
四枚の翼が動く。
だが。
守護竜自身がそれを止める。
「イマ!」
セレネが弓を引いた。
何十本。
何百本。
矢が空を埋める。
放つ。
守護竜の全身へ突き刺さり、拘束構造へ変化した。
「蓮!」
「ああ!」
蓮が空を見る。
「イザナミ!」
『軌道投射システム、準備完了』
「投射!」
『実行します』
◇
遥か上空。
惑星軌道。
母船から一つの物体が放たれた。
爆薬はない。
推進装置も最低限。
ただ。
重い。
極めて高密度の金属塊。
それが惑星へ向かって落下を始めた。
『投射体、大気圏突入まで十二秒』
守護竜が暴れる。
「押さえろ!」
『十秒』
ダークエルフの一人が膝をつく。
「もう……無理だ!」
「あと少し!」
『八秒』
拘束矢が一本切れた。
二本。
十本。
『六秒』
守護竜の第三眼が空を見る。
何かに気づいた。
未知の言葉を発する。
重力場が上空へ向けられる。
「蓮!」
「分かってる!」
蓮が全権限を投入した。
「環境ナノ群、全部取り返せ!」
『競合中』
「一秒でいい!」
『管理者権限最大出力』
一瞬。
守護竜の重力場が消えた。
『制御権奪還』
「今だ!」
セレネが最後の一本を作った。
小さな矢。
何の攻撃能力もない。
ただ。
位置を示すためだけの矢。
守護竜の胸へ放つ。
刺さった。
『地上誘導確認』
『三秒』
セレネは弓を下ろした。
守護竜を見る。
『二秒』
第三の眼が空を見ている。
しかし。
左右の眼が動いた。
セレネを見る。
『一秒』
「セレネ」
はっきりした声だった。
「なに?」
守護竜の口が動いた。
「アリガト」
セレネは笑った。
「……うん」
空が光った。
◇
音より先に。
光が来た。
高質量金属杭が守護竜の背へ直撃した。
地面が沈んだ。
巨大な衝撃波が周囲へ広がる。
山肌が崩れる。
木々がなぎ倒される。
蓮たちは防御場を展開した。
それでも身体が吹き飛ばされる。
遅れて。
轟音。
世界そのものが割れたような音だった。
そして。
静かになった。
◇
土煙が晴れるまで。
誰も動かなかった。
やがて。
セレネが立ち上がった。
「……どこ?」
誰も答えない。
「どこよ」
歩き出す。
地形が変わっていた。
巨大なクレーター。
その中央。
守護竜がいた。
身体は大きく損傷している。
だが。
残っている。
セレネは走った。
「セレネ!」
蓮の声も聞かなかった。
竜の頭までたどり着く。
「ねえ」
返事はない。
第三の眼は閉じている。
後から生えた翼も崩れ始めていた。
「ねえ」
鼻先へ触れる。
冷たい。
「起きなさいよ」
動かない。
「肉、食べるんでしょう?」
返事はない。
「山ほど食べるんでしょう?」
セレネの声が震えた。
それでも。
泣き崩れなかった。
しばらく。
ただ鼻先を撫でていた。
そして。
小さく拳を握った。
こつん。
守護竜の鼻先を叩いた。
「帰ってきたら、一発殴るって決めてたの」
もう一度。
今度は撫でる。
「……これで許してあげる」
風が吹いた。
白銀の髪が揺れる。
かつて。
毎日のように見上げていた空には。
もう。
守護神の姿はなかった。
――第二十六話 守護神の最期 了




