第23話 帰ってきた守護神
「……遅いわよ」
遠い昔、山頂で何度も口にした言葉だった。
返事はなかった。
あの頃は。
◇
セレネの目の前で、巨大な竜が咆哮した。
大気が震え、地面に亀裂が走る。
長い年月を経て、記憶の中よりはるかに巨大になった身体。かつて艶のあった鱗は黒ずみ、ところどころが異様に隆起している。
その周囲では空気そのものが歪んでいた。
重力が安定していない。
小石が浮かび、次の瞬間には地面へ叩きつけられる。
竜が一歩踏み出すたび、周囲の環境ナノマシンが異常な挙動を示した。
蓮の視界には警告が並んでいた。
《外部干渉検出》
《環境ナノ群・制御競合》
《命令系統不明》
「……やっぱりおかしい」
蓮が呟いた。
竜が強力なナノマシン制御能力を持っていること自体は不思議ではない。
そう設計された生物なのだから。
だが、今起きていることは違う。
人類の制御命令に割り込んでいる何かがある。
しかも、その命令形式を蓮は知らなかった。
「蓮!」
声が飛ぶ。
竜が首を振った。
巨大な尾が薙ぎ払われる。
蓮は重力制御で身体を浮かせ、一気に後退した。
直後、尾が地面を抉った。
土砂が爆発したように舞い上がる。
「危なっ……!」
着地した蓮の横を、一本の矢が通過した。
セレネだ。
木製の長弓を構えている。
矢筒はない。
弦を引くと同時に、指先から矢が形成された。
放つ。
矢は竜の眼前で炸裂し、無数の細い糸へ変化した。
首へ絡みつく。
さらに別のダークエルフたちが手を向ける。
「押さえろ!」
竜の周囲で重力場が発生した。
巨体が地面へ沈む。
「グ……!」
竜が苦しそうに頭を振る。
セレネが叫んだ。
「傷つけるな!」
「しかし!」
「押さえるだけでいい!」
「セレネ!」
仲間の一人が叫ぶ。
「あれはもう――」
「分かってる!」
セレネの声が響いた。
「分かってるから……!」
その先は言えなかった。
◇
竜が顔を上げた。
その目がセレネを捉える。
一瞬だけ。
動きが止まった。
セレネも弓を下ろした。
「……私よ」
ゆっくりと前へ出る。
「セレネだよ」
蓮が振り返った。
「おい、近づくな」
セレネは聞かなかった。
竜との距離を縮めていく。
「覚えてるでしょう?」
竜の喉から低い音が漏れる。
「グ……ア……」
「昔みたいに呼んでよ」
竜が頭を振る。
その周囲で黒い粒子のようなものが蠢いていた。
セレネはさらに一歩進む。
「ずっと待ってたのよ」
竜の瞳が揺れた。
「……セ……」
セレネの足が止まる。
「……レ……」
「そう」
弓を持つ手が震えた。
「そうよ」
竜の口がゆっくり動く。
「セ……レネ……」
セレネの目から涙が溢れた。
「遅いのよ……馬鹿」
竜が首を傾ける。
ほんの一瞬。
かつての仕草だった。
「セレネ……」
「うん」
セレネが笑った。
「帰ってきたのね」
竜の瞳が大きく揺れた。
次の瞬間。
黒いものが瞳の奥を走った。
「――セレネ!」
蓮が叫ぶ。
竜の前脚が振り下ろされた。
◇
セレネの身体が横へ吹き飛んだ。
だが、地面へ叩きつけられる直前に止まった。
蓮が重力制御で受け止めたのだ。
「何やってんだ!」
「……覚えてた」
「だからって近づく奴があるか!」
セレネは立ち上がろうとする。
「まだ中にいる」
「分かってる!」
蓮は竜を見た。
「だから余計に厄介なんだよ」
竜が苦しそうに頭を振っている。
右へ。
左へ。
自分自身から逃げようとしているようにも見えた。
「セ……レ……」
また声が漏れる。
しかし次に出た言葉は違った。
「……ダレ?」
セレネの表情が凍った。
「私よ」
「ダレ……?」
「セレネよ」
「ダレ……ダレ……」
竜が頭を抱えるように地面へ擦りつける。
「ダレ……ダレ……ダレ……!」
突然、咆哮した。
凄まじい衝撃波が発生する。
ダークエルフたちの拘束が一瞬で破られた。
「下がれ!」
蓮が叫ぶ。
全員が散開した。
◇
竜の身体が浮き上がった。
翼を大きく広げている。
しかし羽ばたいてはいない。
重力操作。
そこまでは想定内だった。
問題は、その次だった。
蓮の視界に警告が表示される。
《重力制御領域への外部アクセス》
「は?」
蓮の身体が突然重くなった。
「ぐっ……!」
膝が地面につく。
他の人間たちも同じだった。
「何これ!」
「身体が……!」
蓮が強制的に制御権を取り戻す。
「こいつ……!」
竜を見る。
「俺たちの制御領域に入ってきやがった」
セレネが振り向く。
「どういうこと?」
「こいつが重力を操ってるだけじゃない」
蓮は立ち上がる。
「俺たちが使ってる環境ナノ群そのものに命令を出してる」
「竜なら、それくらい――」
「違う」
蓮は即座に否定した。
「命令の形式が違う」
セレネには意味が分からない。
だが蓮の表情を見れば、それが重大なことだけは分かった。
「こいつを作った時に設定した制御方式じゃない」
蓮が呟いた。
そして、少し間を置いた。
「俺たちの技術じゃない」
◇
竜が大きく息を吸い込んだ。
周囲の温度が急上昇する。
「散れ!」
蓮が叫ぶ。
竜の口から光が溢れた。
次の瞬間。
灼熱のブレスが地上を薙ぎ払った。
炎ではない。
空気そのものが発光するほどの熱。
地面が一瞬で焼け、岩の表面が赤くなる。
全員が重力制御で跳んだ。
しかし一人のダークエルフが遅れた。
「くっ!」
セレネが振り返る。
弓を引く。
矢が形成される。
放つ。
矢は男の手前へ突き刺さり、巨大な半透明の壁へ変化した。
ブレスが直撃する。
壁が赤熱する。
「もって……!」
セレネが歯を食いしばる。
数秒。
ブレスが止まった。
壁が崩壊する。
男は生きていた。
「下がって!」
「すまない!」
セレネは再び竜を見る。
涙はもう拭っていた。
◇
「殺さずに止められる?」
セレネが聞いた。
蓮は答えなかった。
「蓮」
「今考えてる」
「できるの?」
「分からん」
セレネが睨む。
「そこは、できるって言いなさいよ」
「無茶言うな」
蓮は竜を観察する。
再生速度。
重力制御。
環境ナノ群への干渉。
ブレス。
そして何より、未知の命令系統。
「麻痺は?」
「効かない」
「拘束は?」
「さっき破られた」
「眠らせるとか」
「薬剤を作って打ち込むことはできる。でも代謝系がどうなってるか分からない」
「じゃあ調べて」
「戦いながらやってる!」
セレネは黙った。
竜が再び咆哮する。
「……一つだけ聞く」
蓮が言った。
「こいつがこうなったのは、いつからだ?」
セレネの表情が変わった。
「分からない」
「最後に見た時は?」
「普通だった」
「どこへ行った?」
セレネは北を見る。
その先。
遠い山々の向こう。
「《果て》」
蓮の目が細くなる。
「《果て》?」
「ずっと嵐が吹いてる場所。生き物は近づかない。私たちも入らない」
「こいつは入ったのか?」
「たぶん」
「それから?」
セレネは竜を見る。
「何十年も帰ってこなかった」
「何十年……?」
「もっと長いかもしれない。そして、戻ってきた時には……」
そこまで言って、セレネは唇を噛んだ。
蓮は竜を見る。
人類がこの惑星へ投入した生命。
人類が設計したナノマシン。
人類が構築した生態系。
そのどれとも違うものが。
竜の中にいる。
「……《果て》か」
蓮が呟いた。
◇
母船から通信が入った。
『蓮、解析結果が出ました』
「聞いてる」
『対象個体から検出されている制御信号について、既存データベースとの照合を完了』
「一致したか?」
短い沈黙。
『いいえ』
蓮は予想していた。
それでも、その次の言葉には眉をひそめた。
『人類の既知技術との一致率――ゼロです』
「ゼロ?」
『はい』
セレネが蓮を見る。
「何?」
蓮は答えず、通信へ聞いた。
「故障した人類製システムが変質した可能性は?」
『極めて低いと判断します』
「理由は」
『信号に規則性があります』
蓮の表情が消えた。
『破損でも、暴走でもありません』
通信の向こうから、静かな声が続いた。
『何者かが設計した命令体系です』
◇
竜が空へ上昇した。
黒い粒子が巨体の周囲へ集まっていく。
セレネが弓を構える。
「蓮」
「ああ」
「まだ殺さないで」
蓮は竜を見上げた。
「できる限りはな」
セレネは小さく息を吐いた。
「それでいい」
弦を引く。
矢が形成される。
今度は一本ではない。
セレネの周囲に数十本の矢が浮かび上がった。
竜が口を開く。
光が集まる。
蓮も右手を上げた。
「全員、死ぬなよ」
戦いはまだ終わっていない。
そして彼らはまだ知らなかった。
《果て》で。
この竜に何が起きたのかを。
――第二十三話 帰ってきた守護神 了




