第22話 帰らぬ守護神
セレネが初めて自分の弓を与えられたのは、十二歳の時だった。
山岳の森で採れた硬い木を削り、何度も油を染み込ませて仕上げた小さな弓だった。集落の職人が、まだ成長途中の彼女の身体に合わせて作ったものだ。
「引いてみろ」
弓を手渡した男が言った。
セレネは嬉しそうに受け取り、すぐに構えた。
「待て。まだ矢は渡していない」
「大丈夫」
「何が大丈夫なんだ」
セレネは弦を引いた。
男が眉をひそめる。
「だから矢が――」
言葉が止まった。
セレネの指先で空気が揺らいでいる。
黒い粒子のようなものが集まり、それが細長く伸びていく。軸が生まれ、鏃が形を取り、最後に矢羽まで形成された。
ほんの数秒で、一本の矢が完成していた。
男は目を見開いた。
「……それは何だ」
「矢」
「それは見れば分かる」
「じゃあ、なんで聞いたの?」
「どこから出した」
セレネは不思議そうに矢を見る。
「作った」
「どうやって?」
「こうやって」
一度弦を戻す。
矢が崩れ、黒い粒子となって消えた。
そして再び弦を引く。
また矢が現れる。
男はしばらく黙っていた。
褐色肌の者たちが普通のエルフより強い力を持つことは珍しくない。岩を浮かせる者もいる。水の流れを変える者もいる。物を作り出す者もいる。
しかしセレネは、その中でも明らかに強かった。
しかも本人にとっては、呼吸するのと大して変わらないらしい。
「とりあえず撃ってみろ。ただし、あの木の的だけだぞ」
「分かった」
セレネが弓を構える。
弦が放たれた。
矢は的の中央を貫通した。
そのまま後方の木へ突き刺さり、木を貫いて、さらに奥の岩まで飛んでいった。
岩の表面が砕ける。
男は口を開けたまま固まった。
セレネは嬉しそうに振り返る。
「当たった!」
「……弓を作り直さないとな」
「なんで?」
「お前に普通の弓を渡した俺が馬鹿だった」
「これ気に入ったのに」
「弓の心配じゃない。後ろの山の心配をしてるんだ」
セレネは意味が分からないという顔をしていた。
◇
その日の夕方、セレネは山を駆け上がった。
「見て!」
巨大な竜が顔を上げる。
かつて盆地へ迷い込んできた若い竜は、長い年月の間に見違えるほど大きくなっていた。
「ナニ?」
「弓もらった!」
セレネが得意そうに掲げる。
竜が顔を近づける。
「ユミ」
「そう!」
「チイサイ」
「私に合わせて作ったんだからいいの!」
セレネが弦を引く。
何もなかった場所に矢が形成された。
竜の目が少し大きくなる。
「オマエ、ツクル」
「できるよ」
「スゴイ」
その一言だけで、セレネは満足だった。
「でしょ?」
竜が鼻先を近づける。
セレネはその鼻を撫でた。
「私、もっと強くなるからね」
「ツヨク?」
「うん」
少女は大きな竜を見上げた。
「いつか私が、あなたを守ってあげる」
竜はしばらく考えた。
「オレ、ツヨイ」
「知ってる」
「セレネ、ヨワイ」
「今はね!」
「チイサイ」
「大きくなるもん」
竜はセレネを見る。
そして、何かに気づいたように言った。
「ムネ、ナイ」
「そこは関係ないでしょ!」
セレネが鼻先を叩く。
竜は喉を鳴らした。
笑っているのかもしれない。
「もう知らない!」
セレネが背を向ける。
「セレネ」
「なに!」
「ニク」
「自分で獲ってきなさい!」
竜はしばらく黙った。
「……オコッテル?」
「怒ってる!」
「ナンデ?」
「あなたのせい!」
竜には最後まで理解できなかった。
◇
それから何十年もの月日が流れた。
山岳の集落は、もはや逃亡者たちの仮住まいではなくなっていた。
家が増え、畑が広がり、道ができた。
子供が生まれ、その子供たちが大人になり、また次の世代を育てた。
他の土地から逃れてくる者も途絶えなかった。
褐色肌の子供を連れた母親。
家族ごと追放された者。
一人で山を越えてきた少年。
彼らはここで受け入れられた。
やがて周辺のエルフたちは、この山岳に暮らす者たちを自分たちとは違う民として扱うようになった。
《黒きエルフ》。
それを意味する呼び名が使われ始めた。
最初は蔑称だった。
しかし長い年月の中で、山岳の民自身もその名を使うようになっていった。
ダークエルフ。
かつて同じ村で暮らしていた者たちは、いつしか一つの民族として見られるようになっていた。
◇
そして竜もまた変わっていった。
集落へ獣が近づけば追い払った。
山で子供が行方不明になれば、空から探した。
雪崩が起きれば、その巨大な質量そのものを見えない力で押し戻した。
大雨で川が氾濫しそうになった時には、水の流れを変えた。
一度、山火事が発生したことがある。
普通なら集落まで燃え広がっていただろう。
竜は炎の前へ降り立ち、巨大な身体で火を遮った。
そして空気中の何かが揺らいだ。
炎が弱くなった。
燃えていた木々の周囲から熱が奪われ、火勢が急激に落ちていく。
人々には、何が起きているのか分からなかった。
ただ一つ分かるのは、竜が自分たちを救ったということだけだった。
最初は《山の守り手》だった。
それが《守護竜》になった。
さらに何世代も経つ頃には、幼い子供たちまで竜へ頭を下げるようになった。
ある日、セレネが集落へ戻ると、大勢の者が竜の前に集まっていた。
供物が並べられている。
肉。
果物。
酒。
竜は嬉しそうに肉を食べていた。
セレネは眉をひそめる。
「何やってるの?」
老人が答えた。
「守護神様への感謝を」
「守護神?」
セレネは竜を見る。
竜は肉を咥えている。
「それが?」
老人が困った顔をした。
「セレネ……」
「昨日、隣の家の家畜を勝手に食べたのよ?」
竜の動きが止まる。
セレネが睨む。
「食べたでしょ」
「タベテナイ」
「口に毛が付いてた」
竜が口を閉じる。
「食べたでしょ」
長い沈黙。
「……オイシカッタ」
「やっぱり食べたんじゃない!」
周囲の者たちは笑いを堪えている。
セレネは竜の鼻先を叩いた。
「神様なら人の家畜を盗まない!」
竜が不満そうに鼻を鳴らす。
「ニク、スキ」
「知ってるわよ!」
人々にとっては守護神。
セレネにとっては違った。
幼い頃から一緒に昼寝をし、喧嘩をし、何度も背中に乗せてもらった相手だった。
神などではない。
大切な友だった。
◇
それから、さらに年月が流れた。
セレネは大人になった。
身体は成長し、少女の頃とは見違える姿になっていた。
長い白銀髪。
褐色の肌。
山岳の民に特徴的な整った顔立ち。
そして、幼い頃には竜から散々からかわれた身体つきも、今では誰も小さいとは言えないほど女性らしく成長していた。
弓も変わった。
子供用の小さな弓ではない。
彼女の身長に近い、長い木製弓。
ただし、矢筒はない。
必要がなかった。
弦を引けば矢が生まれる。
通常の矢。
岩を貫く矢。
着弾すると拘束材へ変化する矢。
複数へ分裂する矢。
セレネ自身も、自分の力を理解し、使いこなすようになっていた。
集落の中でも、彼女ほど強く力を扱える者はほとんどいなかった。
それでも。
竜の前では昔と変わらなかった。
◇
ある日の夕方。
セレネは山頂にいた。
竜がそこに座っている。
珍しいことではない。
だが、その日は様子が違った。
北を見ている。
「何見てるの?」
返事がない。
セレネが隣へ座る。
「ねえ」
竜は北の空を見たまま答えた。
「……ヘン」
「何が?」
「アッチ」
巨大な頭が北を向く。
「ヘン」
セレネも見る。
山。
その向こうに、さらに山。
遠くの空には黒い雲が見える。
「あっちって……《果て》?」
竜は答えなかった。
《果て》。
山岳の民でさえ近づかない土地。
さらに北。
植物がほとんど育たず、生き物も寄りつかない。
一年を通して黒い雲が空を覆い、絶えず嵐が吹き荒れている。
昔から存在する場所だった。
なぜそこだけがそうなっているのか。
誰も知らない。
ただ。
入った者は帰ってこない。
それだけは知られていた。
「近づいちゃ駄目よ」
セレネが言った。
竜が彼女を見る。
「ナンデ?」
「危ないから」
「オレ、ツヨイ」
「知ってる」
「ダイジョウブ」
「そういう奴が一番危ないの」
竜は意味が分からないという顔をした。
セレネは鼻先を軽く叩く。
「行かないでよ」
竜はしばらくセレネを見ていた。
そして。
「ワカッタ」
セレネは笑った。
「よろしい」
◇
翌朝。
竜はいなかった。
セレネは最初、狩りにでも行ったのだと思った。
昼になっても戻らない。
夕方になっても戻らない。
翌日も。
その次の日も。
帰ってこなかった。
三日目。
セレネは山頂へ向かった。
巨大な足跡が残っている。
北へ向いていた。
「……馬鹿」
セレネは呟いた。
弓を掴む。
そのまま北へ向かおうとした。
「待て!」
仲間たちが追いついてくる。
「離して」
「どこへ行くつもりだ!」
「決まってるでしょう」
セレネは北を見る。
「迎えに行く」
「《果て》へ入る気か?」
「あいつが行ったならね」
「駄目だ!」
「離して!」
「お前まで戻らなかったらどうする!」
セレネは振り返る。
「じゃあ放っておけっていうの!?」
誰も答えられない。
「ずっと私たちを守ってきたのよ!」
声が震えた。
「私が子供の頃から、ずっと!」
セレネは弓を握りしめる。
「私も言ったの。いつか私が守るって」
誰も彼女の目を見ることができなかった。
結局。
セレネは《果て》の手前まで行った。
◇
そこには境界があった。
壁があるわけではない。
しかし明らかに世界が違った。
こちら側には草が生えている。
虫が飛んでいる。
鳥の声も聞こえる。
数歩先。
何もない。
黒い大地。
異様な風。
空では巨大な雲が渦を巻いている。
稲妻が絶え間なく走っていた。
セレネは一歩踏み出した。
身体が重くなる。
二歩目。
頭痛。
三歩目。
全身が警告していた。
ここへ入るな、と。
それでも進もうとする。
「セレネ!」
後ろから腕を掴まれた。
「離して!」
「死ぬぞ!」
「あいつはこの先にいる!」
「だから何だ!」
「迎えに行くのよ!」
「守護神様でも帰ってこない場所だぞ!」
セレネは振り返った。
「神じゃない!」
涙が流れていた。
「神様なんかじゃない!」
誰も動けなかった。
「ただの……」
言葉が続かなかった。
セレネは北を見る。
黒い嵐。
その向こうに何があるのか。
分からない。
「……馬鹿な竜よ」
結局。
その日。
セレネは連れ戻された。
◇
一週間が過ぎた。
帰ってこない。
一か月。
帰ってこない。
一年。
帰ってこなかった。
それでもセレネは待った。
竜が寝ていた場所を、そのまま残した。
子供がそこで遊ぼうとすると注意した。
「そこは駄目」
「どうして?」
「あいつの場所だから」
「守護神様の?」
セレネは少しだけ黙る。
「……そう」
いつの間にか。
彼女もその呼び名を否定しなくなっていた。
◇
十年が過ぎた。
二十年。
さらに年月が流れた。
竜を実際に知る者が少なくなっていく。
若い者たちにとって、守護竜は伝説の存在になった。
その姿を彫った像が作られた。
物語が語られた。
歌まで作られた。
守護竜は神話になっていった。
それでも。
セレネにとっては違う。
神話ではない。
伝説でもない。
肉が好きで。
人の家畜を勝手に食べて。
子供を背中に乗せて飛び。
言葉を覚えるのが遅くて。
変なところだけ妙に賢くて。
そして。
いつも自分の名前を呼んでくれた。
あの竜だった。
◇
さらに長い年月が過ぎたある夕方。
セレネは一人で山頂に座っていた。
姿は成熟した女性のままだったが、彼女自身にも確実に年月は積み重なっていた。
北の空を見る。
今日も黒い雲がある。
何も飛んでこない。
何度見ても同じだった。
それでもセレネは毎日見る。
「……遅いわよ」
返事はない。
風が白銀の髪を揺らす。
セレネはしばらく空を見ていた。
そして小さく笑った。
「帰ってきたら、まず一発殴るからね」
その日も。
守護神は帰らなかった。
――第二十二話 帰らぬ守護神 了




