第21話 山の守護者
故郷を離れて十二日が経っていた。
彼らは山の奥へ向かっていた。行き先が決まっていたわけではない。ただ、戻ることができないから進んでいた。
一行の姿は様々だった。褐色の肌と白銀の髪を持つ者もいれば、ごく普通のエルフと変わらない者もいる。老人も子供も、夫婦も兄弟もいた。
褐色肌の妻を捨てることができず、一緒に故郷を出た男。白い肌に生まれたものの、母親が褐色肌だったためについてきた少年。褐色肌の孫娘を庇ったことで村を追われた老人もいた。
彼らを一つの民族と呼ぶには、あまりにもばらばらだった。
彼らを結びつけているのは血でも肌の色でもない。
家族だった。
そしてもう一つ、帰る場所を失ったという事実だった。
◇
「止まれ」
先頭を歩いていたアルヴァが手を上げた。褐色肌の大柄な男だった。
「どうした?」
「道がない」
山道が途中で消えている。先日の豪雨で斜面そのものが崩落し、眼下には深い谷が広がっていた。
「迂回できるか?」
「できる。ただし二日はかかる」
一行からため息が漏れた。
食料はほとんど残っていない。百人以上いた一団も、すでに八十人ほどまで減っていた。追っ手に殺された者もいれば、怪我が悪化した者、体力の尽きた老人もいる。幼い子供も二人死んだ。
ここからさらに二日の迂回は厳しい。
「私たちで道を作る」
褐色肌の女が前へ出た。
「できるか?」
「やるしかないでしょう」
数人が崩れた斜面へ手を向ける。
小石が震え、ゆっくりと浮かび上がった。続いて大きな岩が持ち上がり、一人では到底動かせない巨岩までが地面を離れる。
「もっと右! そっちは下げて!」
「分かってる!」
「土台を先に固めろ。このままだとまた崩れるぞ!」
褐色肌の者たちが岩を動かし、地面を固める。普通のエルフたちは木を切り、蔓を編み、土を運んだ。
誰も指示する必要はなかった。
十二日間、そうやって助け合いながら生き延びてきたのだ。
数時間後、谷を横切る粗末な道が完成した。
アルヴァが最初に渡って強度を確認する。
「大丈夫だ。子供と老人から渡せ」
子供、老人、怪我人の順に渡らせる。
最後の一人が向こう側へ着いたところで、アルヴァは振り返った。
追っ手の姿はない。
それでも故郷の方向を見ている者は多かった。
そこには自分たちを追い出した者だけではなく、親や兄弟、友人も残っている。
憎み切れるほど、彼らの世界は単純ではなかった。
◇
夕方、一行は山々に囲まれた盆地へ出た。
「……水だ」
誰かが呟いた。
盆地の中央には川が流れ、その周囲には深い森が広がっている。少し離れた場所には草地もあった。
アルヴァは川へ近づいて水を掬い、匂いを確かめてから少し口に含んだ。
「飲める」
その一言で、人々の表情が変わった。
子供たちが川へ走り出す。
「待て! 一気に飲むな!」
久しぶりに笑い声が聞こえた。
森には獣の気配がある。木の実も食べられる草もあり、川には魚まで泳いでいる。
アルヴァは盆地を見渡した。
「今日はここで休もう」
「明日は?」
誰かが尋ねた。
アルヴァは答えなかった。
明日のことなど、今は考えられない。
今日を生き延びた。それだけで十分だった。
◇
その夜。
「ミアがいない!」
女の叫び声で皆が起きた。
「娘がいない! さっきまでここにいたの!」
ミアは六歳の少女だった。母親は普通のエルフで、父親は褐色肌。娘は母親と同じ白い肌をしていた。
松明が次々と灯される。
「ミア!」
「どこだ! 返事をしろ!」
やがて小さな足跡が見つかった。川へ向かっている。
アルヴァたちは足跡を追って走った。
そして川辺へ出た瞬間、全員が足を止めた。
巨大な生物がいた。
四本の脚に長い尾、大きな翼。頭にはまだ短い二本の角が生えている。後に知られる姿に比べればまだ小さかったが、それでも十分に巨大だった。
「……竜」
誰かが呟いた。
褐色肌の者たちが前へ出る。岩が浮かび、別の者の手元では空中に刃のようなものが形成され始める。普通のエルフたちも弓を構えた。
「待って!」
ミアの母親が叫んだ。
竜の前に、ミアがいた。
生きている。それどころか、川辺に座り込んでいた。
少女の前には何匹かの魚が並んでいる。
竜が一匹を咥え、そのまま飲み込んだ。
「おいしい?」
ミアが笑う。
「ミア!」
母親の声に、少女が振り返った。
「あ、お母さん」
「何をしているの!」
「魚あげてる」
「そこから離れなさい!」
「でも、この子お腹空いてるよ」
「この子じゃありません!」
竜が顔を上げた。
全員が身構える。
竜の喉から低い音が漏れた。
唸っているのかと思った。
しかし違った。
「……ダレ?」
アルヴァが目を見開く。
「喋った……?」
竜が首を傾げる。
「オマエ……ダレ?」
誰も答えなかった。
ミアだけが平然と答える。
「ミア」
竜は少女を見る。
「ミ……ア」
「そう」
「ミア」
少女が嬉しそうに笑った。
「言えた!」
母親は今にも気絶しそうな顔をしている。
「ミア! お願いだからこっちへ来て!」
「待って。もう一匹あげる」
「待たなくていいから!」
ミアは最後の魚を差し出した。
竜が食べる。
少女は空になった両手を見せた。
「もうないよ」
竜は魚が置かれていた場所を見て、次に少女の手を見る。
しばらく考えてから言った。
「……モット」
ミアが笑った。
「やっぱりお腹空いてるんじゃん」
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
アルヴァは浮かせていた岩をゆっくり地面へ戻した。
「何をしている。竜だぞ」
隣の男が囁く。
「敵意がない」
「だからといって――」
「少なくとも今のところ、俺たちを殺そうとはしていない」
アルヴァは竜を見る。
「故郷にいた連中より、話が通じそうだ」
誰も笑わなかった。
しかし、否定する者もいなかった。
◇
翌朝になっても、竜はまだ川辺にいた。
昼になってもいる。
夕方になっても帰らない。
三日目、狩人が鹿を仕留めて帰ってくると、竜がむくりと起き上がった。
鹿を見る。
狩人を見る。
また鹿を見る。
「……ニク」
「駄目だ」
「ニク」
「これは俺たちの食料だ」
「ニク」
「話を聞いてるのか?」
竜が近づいてくる。
「来るな!」
結局、鹿の脚一本を持っていかれた。
少し離れた場所で美味そうに食べている竜を見ながら、狩人は頭を抱えた。
「返せ!」
「食ったものをどうやって返すんだ」
アルヴァが言う。
「お前はどっちの味方だ」
「少なくとも、あいつの口から鹿を取り返そうとするほど馬鹿じゃない」
五日目には、竜は完全に居着いていた。
子供たちもすでに怖がっていない。
「乗っていい?」
「ノル?」
「背中!」
竜は少し考えると、地面へ伏せた。
「やった!」
「待て!」
親たちの制止など聞かず、子供たちが次々と背中へ登っていく。
竜が立ち上がった。
「飛ぶなよ!」
アルヴァが叫ぶ。
竜が翼を広げる。
「だから飛ぶなって――」
巨大な身体がふわりと浮き上がった。
子供たちは歓声を上げ、親たちは悲鳴を上げる。
竜は地上数メートルほどの高さをゆっくり進んでいく。
アルヴァはその姿を見ながら眉をひそめた。
おかしい。
あの翼だけで、あれほど巨大な身体が浮くのだろうか。
すると竜は翼を動かすことさえやめた。
それでも落ちない。
何か別の力で空中に浮いている。
「……お前、どうやって飛んでるんだ」
当然、返事はない。
竜は子供たちを乗せたまま遠ざかっていく。
「遠くへ行くな!」
「ハーイ!」
返事をしたのは子供たちだった。
◇
十日ほど経った頃、誰かが言った。
「ここに住まないか」
皆が黙った。
「水がある。森もある。獣もいる。畑だって作れそうだ」
「でも、追っ手が来るかもしれない」
アルヴァは周囲の山々を見る。
「ここまで来ると思うか?」
誰も答えられなかった。
その時、森の奥から木の折れる音がした。
竜が現れる。
口には巨大な木を咥えていた。
「何だそれ」
竜が木を地面へ置く。
地面が揺れた。
「キ」
「見れば分かる」
「キ」
「だから、何で持ってきたんだ」
竜は建築途中の小屋を見て、次に木を見る。
「ツカウ」
アルヴァはしばらく黙った。
誰かが吹き出した。
「手伝ってるつもりじゃないか?」
「これを?」
根ごと引き抜かれた巨木だった。
「どうやって使えっていうんだ」
竜が首を傾げる。
「キ」
とうとう笑い声が起きた。
最初は一人。
それが二人、三人と増え、やがて大勢が笑っていた。
故郷を追われてから、これほど皆が笑ったことはなかった。
◇
彼らは盆地に家を建て始めた。
畑を作り、水路を掘った。
竜も手伝った。
役に立つ時もあれば、余計な仕事を増やすこともあった。それでも竜は毎日のように集落へ現れた。
そんなある朝、見張りが駆け込んできた。
「人が来る!」
笑顔が消えた。
「何人だ?」
「三十ほど! 武装している!」
アルヴァたちは集落の入口へ向かった。
やがて見覚えのある紋章が見えてきた。
故郷の者たちだった。
「まだ追ってきたのか……」
誰かが呟く。
アルヴァが前へ出た。
「何の用だ」
追っ手の男が答える。
「ここは我らの領域だ」
「村から何日歩いたと思ってる」
「山も森も我らの土地だ」
「なら俺たちはどこへ行けばいい」
「知らぬ」
アルヴァの顔から表情が消えた。
「戻るつもりはない。だから放っておいてくれ」
「できぬ」
男が剣を抜いた。
「穢れを残すわけにはいかない」
後ろで誰かが息を呑んだ。
アルヴァは拳を握ったが、それでも攻撃しなかった。
追っ手の中には知っている顔がある。
昔、一緒に酒を飲んだ男。畑仕事を手伝ってくれた男。子供の頃、一緒に川で泳いだ男。
ほんの少し前まで同じ村で暮らしていた人々だった。
「……帰れ」
アルヴァが言った。
「俺たちは戦いたくない」
「我々もだ」
追っ手の男が答える。
「だから抵抗するな」
その時、森の奥から木々の折れる音が響いた。
追っ手たちが振り向く。
竜が歩いてきた。
武装した者たちの顔が強張る。
竜はアルヴァを見て、それから追っ手を見る。
「……ダレ?」
アルヴァは答えない。
竜が剣や槍へ目を向けた。
「テキ?」
アルヴァは迷った。
彼らを敵と呼べば、竜が何をするか分からない。
だから正直に答えた。
「……分からん」
竜が首を傾げる。
「ワカラナイ?」
「ああ」
竜はしばらく考えてから、追っ手たちの前へ歩いていった。
巨大な頭を下げる。
「カエレ」
誰も動かなかった。
一人の兵士が恐怖に耐えきれなくなったのか、弓を引いた。
「やめろ!」
矢が放たれた。
竜の鼻先へ突き刺さる。
静寂が訪れた。
竜は目を寄せ、自分の鼻に刺さった矢を見る。
「……イタイ」
次の瞬間、凄まじい咆哮が山々に響いた。
追っ手たちの武器が一斉に手から離れる。
剣も槍も弓も空へ吸い上げられ、竜の頭上へ集まっていく。
金属製の武器が見えない力に押し潰され、ひしゃげ、絡み合い、巨大な金属塊になった。木製の弓は砕け、破片となって地面へ降り注いだ。
竜はもう一度言った。
「カエレ」
今度は全員が理解した。
追っ手たちは逃げていった。
竜は追わなかった。
誰一人殺さなかった。
◇
アルヴァは地面に転がる金属塊を見た。
それから竜を見る。
「お前、それができるなら最初からやれよ」
「デキル」
「そうじゃない」
竜が首を傾げる。
「?」
アルヴァはため息をついた。
その横でミアが笑っていた。
「この子、私たちを守ってくれたんだよ」
竜がミアを見る。
「マモル?」
「そう。守ってくれたの」
ミアが竜の鼻を撫でる。
竜はしばらく考えた。
「マモル」
アルヴァも竜を見る。
「……そうだな」
その日から、人々の竜を見る目が少し変わった。
巨大な獣でも、居候でも、食料泥棒でも、子供たちの遊び相手でもない。
追われた者たちがようやく見つけた場所を、この竜は守った。
誰かが冗談半分に言った。
「山の守り手だな」
その呼び名は、いつしか皆が使うようになった。
◇
年月が流れた。
小さかった集落は少しずつ大きくなった。
別の土地から逃げてきた者たちも加わった。
褐色肌の者もいれば、その家族もいる。黒い子供を捨てることを拒んで追放された母親や、家族と共に生きることを選んだ普通のエルフもいた。
ここでは、肌の色を理由に追い出される者はいなかった。
そして、さらに長い年月の後。
一人の女の子が生まれた。
褐色の肌と白銀の髪を持ち、よく泣き、よく食べ、母親が目を離すとすぐにどこかへ行ってしまう子供だった。
名を、セレネといった。
◇
七年後。
「セレネ!」
母親の声が山に響いた。
返事はない。
だが、大人たちはそれほど慌てていなかった。探す場所はだいたい分かっている。
山の上では、すっかり巨大になった竜が昼寝をしていた。
そして、その腹の上。
小さな少女も一緒になって眠っている。
母親が額を押さえた。
「……またここにいたのね」
竜が片目を開ける。
「ウルサイ」
「あなたが甘やかすからでしょう!」
竜は再び目を閉じた。
「ネムイ」
「寝るな!」
その声でセレネも目を覚ました。
「……お母さん?」
「降りてきなさい」
「やだ」
「セレネ」
「この子、あったかいんだもん」
「この子ではありません!」
竜がもう一度目を開ける。
「セレネ」
「なに?」
「ニク」
「また?」
「ニク」
「昨日も食べたでしょ」
竜は少し考えた。
「キノウ、キノウ。キョウ、キョウ」
セレネが吹き出した。
「変なところだけ賢くなってる!」
竜が満足そうに喉を鳴らす。
山に少女の笑い声が響いた。
かつて故郷で穢れた者と呼ばれ、追われ、殺され、逃げ続けた人々は、ようやく自分たちの居場所を見つけていた。
そして、その場所を守る巨大な竜を、いつしか誰もが《守護竜》と呼ぶようになっていた。
まだ神とは呼ばれていない。
それは、もう少し後の話だった。
――第二十一話 山の守護者 了




