第20話 忌み子たち
その頃、彼らにはまだ、自分たちを他のエルフと分ける名前などなかった。
森の中に一つの村があった。
畑を耕し、森で獣を狩り、川から水を引き、季節ごとに祭りを行う。子供たちは同じ場所で遊び、大人たちは同じ酒を飲んだ。
その中に、肌の色が少し違う者たちがいた。
褐色の肌と白銀の髪。
ただ、それだけだった。
少なくとも、最初は。
◇
「元気な女の子ですよ」
産婆が赤ん坊を抱き上げた。
母親は疲れた顔で笑った。
「見せて……」
産婆は赤ん坊を渡そうとして、わずかに手を止めた。
母親が不安そうに見る。
「どうしたの?」
「いえ……」
産婆の腕の中で、赤ん坊が元気よく泣いている。
肌は褐色。
頭には薄い白銀の産毛が生えていた。
母親の肌は白い。
部屋の外で待っていた父親も、ごく普通のエルフだった。
「あなた」
母親が呼ぶ。
父親が勢いよく入ってきた。
「生まれたか!」
笑顔で近づき、赤ん坊を見たところで足を止める。
「……どうして」
母親の顔から笑みが消えた。
「分からないわ」
「お前の家に、こういう者は?」
「いない」
「俺の家にもいない」
産婆が静かに口を挟んだ。
「時々、生まれるのです」
父親が振り向く。
「時々?」
「ええ。私も何人か取り上げたことがあります」
「病気なのか?」
「いいえ」
赤ん坊はよく泣き、手足も正常に動いている。耳も目も、何もおかしくない。
ただ、肌が黒く、髪が白かった。
母親は赤ん坊を抱き寄せた。
「この子には関係ないわ」
父親はしばらく黙っていたが、やがて小さな娘の頭へ手を置いた。
「……そうだな」
その時は、それで終わった。
◇
少女はリナと名付けられた。
普通に育った。
他の子供たちと走り回り、転べば泣き、母親に叱られ、父親の帰りを待った。
少し違うことが分かったのは、五歳の頃だった。
村の子供たちが川辺で遊んでいた時、一人の少年が足を滑らせた。
流れは速かった。
「助けて!」
大人たちは遠い。
リナは反射的に手を伸ばした。
「止まって!」
その瞬間、少年の周囲だけ川の流れが不自然に変わった。
水が盛り上がり、少年の身体を岸へ押し戻す。
子供たちは黙った。
助けられた少年も、リナ自身も何が起きたのか分かっていない。
「……どうやったの?」
友達が聞く。
リナは首を傾げた。
「分かんない」
すぐに子供たちは喜び始めた。
「すごい!」
「もう一回やって!」
「私にも教えて!」
リナも笑った。
その日、彼女は村の英雄だった。
◇
だが、大人たちは違った。
「水を操った?」
「そうらしい」
「五歳の子供が?」
「普通ではない」
「魔法なら我々も使う」
「そういうものではなかったそうだ」
噂は少しずつ広がった。
似た話は、他にもあった。
褐色肌の少年が倒れてきた木を空中で止めた。
別の村では、白銀髪の少女が何もない場所から刃物を作った。
さらに遠い土地では、一人では到底動かせない岩を持ち上げた者がいるという。
それでも、しばらくは珍しい者たちとして扱われていた。
強い力を持って生まれた者。
そう考える者も多かった。
◇
年月が経った。
リナは十六歳になった。
褐色の肌と長い白銀髪を持つ、美しい少女に成長していた。
彼女を好きになる少年もいた。
けれど、子供の頃とは何かが違っていた。
市場を歩けば視線を感じる。
井戸へ行けば、話していた女たちが口を閉ざす。
幼い頃から遊んでいた友人の家へ行っても、以前のようには迎えられない。
「ごめん」
幼馴染みが玄関先で言った。
「父さんが……もう家に入れるなって」
「どうして?」
「分からない」
「あなたもそう思ってる?」
幼馴染みは答えなかった。
リナはしばらく相手を見てから、わずかに笑った。
「分かった」
それ以降、彼女はその家へ行かなかった。
◇
同じ頃、村では褐色肌の者たちを少しずつ中心部から遠ざけるようになっていた。
最初は井戸だった。
「水場を分けた方が揉め事が起きない」
次は市場。
「商売の場所を決めるだけだ」
そして住居。
「村の外れにも良い土地がある」
誰も追放とは言わなかった。
だが、気がつけば褐色肌の者たちの多くは村の外れに住んでいた。
そこにいたのは、褐色肌の者だけではない。
褐色肌の妻を持つ夫。
褐色肌の息子を持つ母親。
普通の肌に生まれた兄弟姉妹。
家族を捨てるくらいなら自分も行くと、村の中心部を離れた者たち。
彼らは一つの民族ではなかった。
ただの家族だった。
◇
さらに別の村では、もっと酷いことが起き始めていた。
普通のエルフの夫婦に、褐色肌の赤ん坊が生まれた。
村の長老たちは母親を呼び出した。
母親は赤ん坊を抱いたまま、集会所の中央に立っている。
「子供を渡せ」
長老が言った。
母親は耳を疑った。
「なぜです?」
「その子を村には置けぬ」
「私の子です」
「分かっている」
「なら、なぜ?」
「災いを呼ぶ」
母親は腕の中の赤ん坊を見る。
小さな子は何も知らずに眠っていた。
「この子が何をしたのです」
「今は何もしていない」
「では――」
「黒き子だ」
それだけだった。
「子供を渡せば、お前はここに残ってよい」
母親は長く考えなかった。
赤ん坊を抱く腕に力を込める。
「嫌です」
「よく考えろ」
「考えることなどありません。この子は私の娘です」
長老はため息をついた。
「ならば、お前も出ていけ」
母親は立ち上がった。
「分かりました」
迷いはなかった。
同じような者たちが、少しずつ村の外れへ集まっていった。
妻と褐色肌の娘を捨て、村に残ることを選んだ男もいた。
「すまない」
それだけ言って背を向ける。
幼い娘が泣きながら呼んだ。
「お父さん!」
男は振り返らなかった。
母親は娘を抱き寄せる。
「行こう」
「お父さんは?」
母親は答えられなかった。
◇
そして雨が降り始めた。
最初は誰も気にしなかった。
三日経っても止まらない。
四日。
五日。
山から流れる川が増水し、地面は大量の水を吸った。木々の根元から泥が流れ出し、山道の一部が崩れ始める。
六日目の夜。
山が鳴った。
低く、腹の底へ響くような音だった。
「何だ?」
誰かが家の外へ出る。
暗闇の中で山を見る。
木々が動いている。
いや。
山そのものが動いていた。
「逃げろ!」
巨大ながけ崩れが発生した。
◇
土砂は村の中心部へ一気に押し寄せた。
家が潰れる。
巨岩が壁を砕く。
人が流される。
悲鳴があちこちから上がった。
「母さん!」
「こっちだ!」
「子供がまだ中にいる!」
誰にも止められない。
自然そのものが村へ襲いかかってきた。
村の外れでも同じものが見えていた。
リナは山を見上げた。
巨大な岩がこちらへ向かって落ちてくる。
その先には家がある。
中には子供たちがいる。
「リナ!」
母親が叫ぶ。
リナは逃げなかった。
両手を前へ出す。
「止まれ!」
巨岩が空中で止まった。
地面からわずか数メートル。
そのまま震えている。
リナの腕も震えた。
「誰か!」
すぐに他の者たちが集まる。
褐色肌の男が手を向ける。
さらに一人。
二人。
巨岩がゆっくり横へ移動した。
その間にも土砂が押し寄せてくる。
「そっちを止めろ!」
「無理だ、量が多すぎる!」
「流れを変えろ!」
何人もの褐色肌の者たちが手を伸ばした。
土砂の流れが歪む。
家々の手前で二つに分かれ、居住区の左右へ流れていった。
別の者は地面を固めた。
崩れかけた斜面が止まる。
普通のエルフたちは、子供や老人を安全な場所へ運んだ。
誰が褐色肌で、誰がそうでないかなど考えている余裕はなかった。
全員が必死だった。
夜が明けた頃。
村外れの居住区には被害が出ていた。
家も何軒か壊れた。
怪我人も多い。
それでも、死者は驚くほど少なかった。
一方。
村の中心部は壊滅的だった。
何十軒もの家が土砂に埋まり、大勢が死んだ。
畑も失われた。
家族を失った者たちが、泥だらけになりながら遺体を掘り出していた。
そして。
誰かが村外れを見た。
「……なぜだ」
そこには家が残っている。
人が歩いている。
子供たちもいる。
「なぜ、あいつらだけ……」
その言葉に、別の誰かが反応した。
「おかしくないか」
「何が?」
「あいつらのところだけ被害が少なすぎる」
「力を使って止めたんだ」
「だからおかしいんだ!」
声が大きくなる。
「なぜあいつらだけ、あんな力を持っている?」
「それと崖崩れは関係ないだろ!」
「本当にそうか?」
さらに別の声が上がった。
「奴らが何かしたのでは?」
「馬鹿なことを言うな!」
「では、なぜ奴らだけ助かった!」
理屈ではなかった。
妻を失った者。
子供を失った者。
家も畑も何もかも失った者。
怒りと悲しみの行き先を、誰かが必要としていた。
そして。
一人の神官が言った。
「これは神々の怒りではないのか」
周囲が静かになった。
「我々が、穢れた者をこの土地に住まわせ続けた」
誰かが頷く。
「だから神々がお怒りになった」
「違う!」
普通のエルフの男が叫んだ。
「俺の娘が岩を止めたんだ! あの子たちがいなければ外れの家だって全滅していた!」
神官は男を見る。
「だからこそだ」
「何?」
「なぜ、その娘にはそのような力がある?」
男は答えられなかった。
神官は周囲を見る。
「我々にはない力を持ち、災いの中でも傷つかぬ。これを穢れと呼ばずに何と呼ぶ」
恐怖は、理屈より速く広がった。
◇
その日の夕方。
村外れへ人々が押しかけてきた。
最初は「出ていけ」という叫びだけだった。
石が投げられた。
窓が割れた。
家の壁へ火がつけられた。
「やめろ!」
リナの父親が前へ出る。
「子供がいるんだぞ!」
「黒き者を庇うな!」
「俺の娘だ!」
誰かが槍を突き出した。
リナの父親の腹へ刺さった。
一瞬。
何が起きたのか分からなかった。
父親が膝をつく。
「あなた!」
母親が駆け寄る。
「父さん!」
リナも走る。
男の口から血が流れた。
「……逃げろ」
それだけ言った。
そして動かなくなった。
空気が変わった。
褐色肌の者たちの周囲で、石が浮き上がった。
何もない場所に刃が作られる。
地面が振動する。
本気で戦えば。
おそらく彼らの方が強かった。
アルヴァが叫んだ。
「殺すな!」
皆が彼を見る。
「でも!」
「向こうが父さんを殺した!」
「分かってる!」
アルヴァも怒っていた。
それでも叫ぶ。
「あそこには、まだ俺たちの家族がいる!」
村の中心部を指す。
「兄弟もいる! 親もいる! 昨日まで隣人だった者もいる!」
誰も動かない。
「武器だけ奪え!」
褐色肌の者たちが手を向ける。
暴徒の剣や槍が手から引き抜かれた。
空へ舞い上がる。
別の者が地面を隆起させ、壁を作る。
追ってくる者たちの前へ土壁が立ち上がった。
「家族を集めろ!」
誰かが叫ぶ。
「子供と老人を先に!」
「食料を持て!」
「怪我人を運べ!」
彼らは逃げる準備を始めた。
もはや。
ここにはいられない。
◇
夜明け前。
村外れに暮らしていた家族たちは、山へ向かって歩き始めた。
褐色肌の者だけではない。
普通のエルフも大勢いる。
妻を選んだ夫。
子を選んだ母。
兄弟を選んだ者。
孫を選んだ老人。
振り返る者もいた。
そこは、生まれ育った故郷だった。
憎いだけの場所ではない。
楽しい記憶もある。
家族の墓もある。
友人も残っている。
だからこそ。
離れることが苦しかった。
リナは母親と一緒に歩いていた。
父親はいない。
もう戻らない。
山道へ入る直前。
リナは一度だけ振り返った。
遠くに村が見える。
泣かなかった。
ただ。
母親の手を強く握った。
彼らはまだ知らなかった。
この先に何があるのか。
どこへ行けばいいのか。
生き延びられるのか。
それでも進んだ。
帰る場所を失った者たちは。
山の奥へ向かって歩き始めた。
――第二十話 忌み子たち 了




