第16話 穢れた竜
その竜を最初に見つけたのは、羊飼いの少年だった。
エルフ王国北東部。
深い森林と山岳地帯の境界に、人口三百人ほどの小さな集落がある。
人類の都市から見れば遠隔地だが、エルフたちにとっては珍しい場所ではない。
森では獣が狩られ、開けた土地では家畜が飼われている。
竜もいる。
滅多に姿を見せるものではないが、珍獣というほどでもなかった。
遠くの空を飛ぶ姿を見たことがある者なら、村にも何人かいる。
だから少年も、最初は喜んだ。
「竜だ!」
放牧していた家畜の向こう。
山の稜線から巨大な影が現れた。
翼を広げている。
だが羽ばたいていない。
風に乗って滑空しているようにも見えない。
巨体そのものが、何かに吊られているように空中を移動していた。
少年には知る由もない。
その身体を浮かせているのが、翼ではないことを。
竜の体内に存在する高密度ナノシステムが周辺の環境ナノマシンへ干渉し、自身へ作用する重力を大幅に軽減している。
翼は姿勢制御と推進のための器官に過ぎない。
それを少年は魔法と呼ぶ。
竜は強大な魔力を持つ。
昔からそう教えられていた。
「でっかい……」
少年は目を輝かせた。
だが。
家畜たちの反応は違った。
一頭が鳴いた。
続いて別の一頭。
群れ全体が突然騒ぎ始めた。
「どうした?」
少年が振り返る。
家畜が逃げようとしている。
柵へ身体を押しつけ、互いにぶつかりながら村の方向へ走ろうとしていた。
「おい! 落ち着け!」
竜が近づいてくる。
少年はもう一度、空を見た。
何かがおかしい。
飛び方ではない。
姿だった。
竜について詳しいわけではない。
それでも分かる。
痩せている。
巨大な身体に対して、腹部が異様に細い。
ところどころ皮膚が裂けている。
黒ずんだ傷。
翼の一部も欠けている。
それなのに飛んでいる。
そして。
目。
少年の笑顔が消えた。
「……なんだ、あれ」
竜の瞳は濁っていた。
少年の祖父が昔、話してくれたことがある。
北の山へ行くな。
さらに向こうには、獣も鳥も住まない土地がある。
そこへ近づいたものは穢れる。
子供を怖がらせる昔話だと思っていた。
だが祖父は最後に、必ず同じことを言った。
――目の濁った獣を見たら、戦おうとするな。
――逃げろ。
少年は走った。
「竜だ!」
村へ向かって叫ぶ。
「竜が来る!」
◇
警鐘が鳴った。
村人たちが家から飛び出す。
「何事だ!」
「北から竜!」
「どの種類だ!」
「分からない!」
村の中央へ男たちが集まる。
弓。
槍。
剣。
武器を持ってはいる。
しかし誰も、本気で竜と戦えるとは思っていない。
やがて。
空が暗くなった。
巨大な影が村の上空を通過した。
「伏せろ!」
風が吹き荒れた。
屋根が軋む。
家畜が鳴く。
子供たちが泣き叫ぶ。
竜が旋回した。
村人の一人が呟く。
「……炎竜だ」
全長二十メートルを優に超えている。
赤黒い皮膚。
長い尾。
二本の角。
だが。
「違う」
年老いた男が言った。
「何が?」
「普通じゃない」
老人は竜を見ていた。
「穢れている」
周囲の者が黙った。
誰かが笑おうとした。
「昔話だろ」
老人は答えない。
竜が降下を始めた。
「来るぞ!」
弓兵が構える。
「撃つな!」
村長が叫んだ。
「刺激するな!」
竜が村の外へ降りた。
地面が揺れる。
翼を畳む。
頭を上げた。
村人たちを見る。
唸る。
低い。
腹の底まで震えるような音。
「下がれ」
村長が言う。
「ゆっくり下がれ」
竜が一歩進む。
誰も攻撃しない。
さらに一歩。
その時だった。
竜の口が動いた。
「ニン……ゲン……」
村人たちが凍りついた。
竜が言葉を発すること自体は、伝承にも残っている。
古い竜。
力の強い竜。
そうした個体は、時として人の言葉を口にする。
だが。
声がおかしかった。
「ニン……ゲン……」
竜が頭を振る。
苦しんでいるようだった。
前脚で地面を掻く。
「イナイ……」
村長が眉をひそめる。
「人間?」
竜が顔を上げる。
「ニンゲン……」
そして。
「スキ……」
誰も意味を理解できなかった。
村長が武器を下げかける。
その瞬間。
竜の身体が大きく痙攣した。
「グ……ァ……」
頭を地面へ叩きつける。
一度。
二度。
土が飛ぶ。
「何をしている?」
皮膚の下で何かが動いている。
裂けた傷が閉じていく。
黒ずんだ肉が剥がれ、その下から新しい組織が形成される。
老人の顔色が変わった。
「逃げろ」
竜が顔を上げた。
濁った目。
先ほどとは違う。
「コロ……ス」
村長が叫んだ。
「全員逃げろ!」
竜が口を開いた。
その周囲で空気が揺らいだ。
エルフには見えない。
大気中に漂っていた環境ナノマシンが、一斉に竜の口腔前方へ集まり始めていた。
密度上昇。
大気圧縮。
加熱。
電離。
竜の口の奥が白く輝く。
老人が叫んだ。
「伏せろ!」
閃光。
直後。
白熱した奔流が村を横切った。
家屋が消えた。
燃えたのではない。
壁も柱も家具も。
一瞬で炭化し、その一部は吹き飛んだ。
炎が遅れて広がる。
悲鳴。
「母さん!」
「水を!」
「怪我人を運べ!」
「弓隊、撃て!」
矢が飛ぶ。
竜の身体へ突き刺さる。
一本。
二本。
十本。
竜が吠えた。
そして。
矢が抜け落ちていく。
傷が塞がる。
「効いてない……」
誰かが呟いた。
竜が走り出した。
巨体からは想像できない速度だった。
前脚が男を捉える。
身体が宙を舞った。
壁へ叩きつけられる。
動かない。
騎士が剣を抜く。
「こっちだ!」
竜が振り向く。
尾が振るわれる。
盾ごと吹き飛ばされた。
村人たちが逃げる。
炎が広がる。
泣き叫ぶ子供を母親が抱き上げる。
その前へ竜が降り立った。
「いや……」
竜が口を開く。
「やめろ!」
村長が槍を投げた。
穂先が竜の頬へ刺さる。
竜が振り向いた。
母親はその隙に走る。
「来い!」
村長が叫ぶ。
「こっちだ!」
竜が村長を見る。
濁った瞳。
「コロス」
「やってみろ」
村長は剣を抜いた。
勝てない。
分かっている。
それでも。
逃げる時間を稼ぐ。
竜が迫る。
その時。
空から何かが落ちた。
轟音。
竜と村長の間に土煙が上がる。
「……何だ?」
土煙の中。
銀色の物体。
人ではない。
四本脚の機械。
頭部に複数のセンサー。
人類の無人偵察機だった。
『危険生物を確認』
声が響く。
『住民の退避を優先します』
竜が機械を見る。
首を傾げた。
「ニン……ゲン?」
偵察機が答える。
『違います』
「ニンゲン……ドコ」
『回答できません』
竜が唸る。
口が光る。
偵察機が警告を発する。
『高エネルギー反応を検出』
閃光。
偵察機が消えた。
爆発。
破片が降る。
だが。
その数秒で十分だった。
人類側へ映像は送信されていた。
◇
人類居住区。
蓮は食堂にいた。
目の前にはラーメン。
その向かいにはリシェル。
「だから、その赤いやつ全部入れたら辛いって言っただろ」
リシェルは涙目だった。
「先に言いなさいよ!」
「言ったよ!」
「聞いてない!」
「それは俺の責任じゃない」
水を飲む。
「舌が痛い……」
「自業自得」
その時。
蓮の視界に赤い表示が出た。
《緊急通知》
表情が変わる。
リシェルも気づいた。
「どうしたの?」
「ちょっと待って」
イザナミの声。
『北東部監視ドローン一機を喪失』
「原因」
『大型人工生物による攻撃』
映像が表示された。
燃えている村。
逃げるエルフ。
そして。
竜。
蓮が立ち上がった。
「……こいつ」
リシェルも映像を見る。
顔色が変わる。
「炎竜」
「知ってる?」
「種類は。でも……」
リシェルが画面へ近づく。
「これ、普通じゃない」
「どういう意味?」
リシェルは竜の目を見る。
「穢れてる」
蓮が振り向く。
「穢れ?」
「昔から言われてるの。北の果てに近づいた獣は、時々こうなる」
「詳しく」
「知らない。昔話みたいなものだから」
蓮が映像を拡大する。
竜がブレスを吐く直前。
口の周囲へ何かが集まっている。
人類側のセンサーには見えていた。
「イザナミ」
『はい』
「環境ナノ密度を解析」
『完了しています』
数字が表示される。
蓮が目を見開いた。
「……嘘だろ」
リシェルが聞く。
「何?」
「こいつ、自分の体内ナノだけ使ってるんじゃない」
映像を止める。
「周辺の環境ナノマシンまで掌握してる」
「それって……」
リシェルは蓮を見る。
「あなたと同じ?」
「似てる。でも俺とは違う」
蓮が解析結果を見る。
ドラゴンには用途が限定された制御系が組み込まれている。
重力制御。
生体修復。
環境ナノ群制御。
熱エネルギー操作。
「翼で飛んでるんじゃないのか」
『主浮揚機構は重力制御です』
イザナミが答える。
『翼は主として推進および姿勢制御に使用されています』
蓮が頭を掻く。
「本当にドラゴン作ったのかよ、昔の人類……」
リシェルが怪訝そうに見る。
「今さら?」
「今さらだけどさ」
さらにデータが表示された。
蓮の表情が再び変わる。
「待て」
『異常を検出しました』
竜の体内ナノシステム。
本来の設計情報と照合。
《DRG系統》
《大型環境管理・警護生物》
《基幹人類親和性:高》
蓮が画面を見る。
「……人間に懐くように作られてる」
リシェルが黙る。
「じゃあ、なんで?」
「分からない」
蓮が答える。
映像の音声を再生する。
ノイズ。
炎。
悲鳴。
そして。
竜の声。
『ニンゲン……スキ……』
数秒後。
『コロス』
蓮は黙った。
リシェルも何も言わない。
イザナミが解析を続ける。
『神経系に大規模な異常を確認』
「病気?」
『不明です』
「感染症?」
『現時点では感染性因子を確認できません』
「ナノマシンの故障?」
『その可能性はあります。ただし――』
「ただし?」
一瞬。
イザナミが沈黙した。
『既知の故障パターンと一致しません』
蓮が眉をひそめる。
「じゃあ何だよ」
『追加解析が必要です』
別の表示が現れる。
監視ドローンが最後に取得したデータ。
蓮の目が止まった。
未知の信号。
ほんの一瞬だけ記録されている。
ドラゴンの体内ナノシステムに残された、異常な干渉痕。
『類似データを検索します』
数秒。
結果。
《一致候補:1》
蓮が画面を見る。
「どこだ?」
地図が表示された。
惑星北方。
巨大な空白。
REGULATORが何千年にもわたり、テラフォーミングに失敗し続けた地域。
探査機が失われ。
ナノマシンすら正常に機能せず。
現在も巨大な嵐に覆われている場所。
《テラフォーミング不能区域》
蓮の表情から笑みが消えた。
「……また、あそこか」
リシェルが地図を見る。
「何なの、そこ」
「それを知りたいんだよ」
蓮は立ち上がった。
アーマーの準備を指示する。
美冬たちへ緊急招集。
救護艇。
戦闘ドローン。
医療班。
「レン」
リシェルが呼び止める。
「何?」
「殺すの?」
蓮は答えなかった。
画面の中。
炎竜が暴れている。
人が死んでいる。
放置はできない。
だが。
これは本当に敵なのか。
人類を好きになるよう作られ。
何千年もの間、この惑星で生き。
何かに壊された。
「まず止める」
蓮は言った。
「殺すかどうかは、その後決める」
リシェルも立ち上がる。
「私も行く」
「駄目」
「なんでよ」
「危険だから」
「私の国の村よ」
蓮が止まった。
「私の同族が襲われてる」
リシェルは蓮を見る。
「あなたたちだけの問題じゃない」
数秒。
蓮がため息をついた。
「アーマー着ろよ」
「着る」
「俺から離れるな」
「分かってる」
「勝手に突っ込むなよ」
「あなたにだけは言われたくない」
「……それもそうだな」
二人は走り出した。
窓の外。
人類の街では。
一頭の巨大な竜が昼寝をしていた。
人間を見ると尻尾を振り。
子供から食べ物をもらい。
最高管理者の顔を舐める。
本来。
ドラゴンとは、そういう生物だった。
では。
北の竜に。
何が起きたのか。
その答えは。
人類がまだ足を踏み入れていない土地にあった。
――第十六話 穢れた竜 了




