第14話 11万本の森
その日、人類の街では建設機械の音が止まっていた。
工場の稼働も必要最低限まで落とされ、普段なら空を行き交っている輸送艇も、決められた航路以外では飛んでいない。
街の北側。
まだ建物のない広大な平原に、三千七百四十二人の人間が集まっていた。
人類の新天地への到着以来、これほど多くの生存者が一か所へ集まったのは初めてだった。
日本人が多い。
それは当然だった。
恒星間移民船アマテラスは、日本を中心として進められた移民計画によって建造された船だったからだ。
しかし、三千七百余名の顔を見渡せば、その姿は決して一様ではない。
地球にいた頃から日本で暮らしていた様々なルーツを持つ人々。
海外から計画へ参加した研究者や技術者。
その家族。
地球では違う言葉を母語としていた者もいる。
今は全員が同じ場所に立っていた。
かつて何者だったかは、あまり意味を持たなくなっている。
政治家。
官僚。
経営者。
医師。
研究者。
教師。
農業技術者。
料理人。
学生。
整備士。
十二万人の社会を構成していた肩書のほとんどは、十二万人が存在していたから意味を持っていた。
今ここにいるのは、その三パーセントほどに過ぎない。
平原の向こうから、一隻の大型輸送艇が降りてきた。
着陸。
後部ハッチが開く。
自律搬送機がゆっくりと外へ出てくる。
運んでいるものを見て、誰も言葉を発しなかった。
休眠槽だった。
その中には人がいる。
眠っているように見える者もいた。
休眠装置の故障によって状態の悪い者もいる。
死亡時期も様々だった。
航海の初期に亡くなった者。
数百年後。
千年以上が経過してから生命維持機能が停止した者。
テラフォーミング完了を目前にして亡くなった者もいた。
それでも可能な限り、遺体は保存されていた。
一隻ではない。
次の輸送艇が空から降りてくる。
さらに次。
軌道上のアマテラスと地表を、何度も往復していた。
十一万七千九百四十二名。
新天地を見ることなく亡くなった人々。
全員を一日で地上へ運ぶことなどできない。
数週間前から移送は始まっていた。
今日の慰霊式が終わった後も続く。
人類が新天地で最初に行った巨大事業は、都市建設ではなかった。
死者を、この星へ迎えることだった。
リシェルは少し離れた場所から、その光景を見ていた。
隣にはトールと、王国から派遣された数名の代表者がいる。
人類側から参列を求められたわけではない。
蓮から、
「来たければ来ていい」
と言われた。
だから来た。
リシェルは、これほど多くの人間を見たことがなかった。
だが同時に思う。
少ない。
あれだけ巨大な船を作り、空を越え、この世界そのものを作り変えた人々。
エルフの伝承では神々だった。
その末裔が、これだけしかいない。
「本当に……十二万人いたの?」
リシェルが小声で尋ねた。
トールは答えられない。
代わりに、近くにいた美冬が答えた。
「いたよ」
「みんな、あの船に?」
「うん」
「じゃあ……」
リシェルは休眠槽を見る。
「ほとんど死んじゃったの?」
美冬は少しだけ間を置いた。
「そうなるね」
リシェルには十一万人という数が、うまく想像できなかった。
自分が知っている村や街の人口を何個足せばいいのか。
それでも分かることはある。
ここに立っている人間のほぼ全員が、誰かを失っている。
いや。
誰か一人ではない。
家族。
友人。
恋人。
同僚。
多くの者が、そのほとんどを失っている。
前方に一人の老人がいた。
身体を支えているのは若い女性だった。
老人の視線の先には、三基の休眠槽がある。
妻。
息子。
娘。
彼だけが目覚めた。
少し離れた場所では、若い男性が一つの休眠槽へ手を置いている。
中にいる女性へ何か話しかけていた。
声は聞こえない。
その隣では、十歳ほどの少年が母親らしい女性に抱かれている。
少年は休眠槽の中の男性をずっと見ていた。
リシェルは目を逸らした。
「神様じゃないんだ……」
思わず言葉が漏れた。
美冬がリシェルを見る。
「うん」
そして静かに答えた。
「最初からね」
やがて、休眠槽の移送が止まった。
蓮が前へ出た。
いつもの軽い服装ではない。
黒を基調とした簡素な正装だった。
その後ろには巨大な記念碑がある。
十一万七千九百四十二名。
その全員の名前が記録されている。
石に刻んだわけではない。
記念碑そのものが巨大な記録装置になっており、触れれば故人の情報を呼び出すことができる。
名前。
生年月日。
出生地。
職業。
家族。
本人が保存を許可していた映像や文章。
その周囲には、小さな苗木が植えられていた。
まだ森とは呼べない。
だが、いずれ森になる。
死亡者一人につき一本。
地球由来の樹木。
この惑星の環境に合わせて最低限の調整を施したものだ。
十一万七千九百四十二本。
人類がこの星に作る、最初の森だった。
蓮の前に原稿が表示された。
イザナミと行政担当者が作成した慰霊文。
蓮は読み始めた。
「本日、我々は――」
止まった。
数秒。
原稿を見る。
そして消した。
美冬が少しだけ眉を上げる。
蓮は頭を掻いた。
「……すみません」
三千七百四十二人が蓮を見る。
「やっぱり、これ違うな」
小さなどよめきが起こった。
蓮は記念碑を見る。
それから、生存者たちへ向き直った。
「俺は、船長じゃありません」
静かになった。
「政治家でもない。地球にいた頃は重力推進とナノ機械を扱ってた技術者です」
少し離れたところで、誰かが小さく笑った。
「事故が起きて、たまたま起こされた」
蓮は続ける。
「推進器を直せる人間が必要だった。それが俺だった」
蓮は自分の胸を指した。
「その途中で死にかけて、イザナミに治されて、目が覚めたら最高管理者になってました」
今度は何人かが笑った。
蓮も少し笑う。
「笑い事じゃなかったんですけどね」
笑いが少し広がった。
そして消える。
「船長は死にました。副船長も死んだ。上級管理者の多くも目覚めなかった」
蓮は記念碑を見る。
「だから非常事態規定で俺に権限が来た。それだけです」
三千七百余名が黙って聞いている。
「でも、もう俺たちは航海してない」
蓮は足元を見る。
草がある。
その下には、この惑星の土がある。
「着いたんです」
誰かが泣いていた。
「予定してた星じゃないけど、着いた」
蓮は空を見る。
青い空。
地球ではない。
それでも青い。
「だから、ここで一度聞いておきたい」
蓮は全員を見る。
「本当に、俺でいいんですか?」
ざわめきが起こった。
リシェルが蓮を見る。
「非常事態規定がそう決めたから、俺が代表を続ける。それは違うと思う」
人々が互いを見る。
「ここから先、俺たちは新しい社会を作ることになる。国になるのか、自治体みたいなものになるのか、それもまだ分からない」
蓮は続けた。
「でも、少なくとも十二万人のために作られた非常事態規定だけで、俺一人が最高責任者を続けるべきじゃない」
群衆の中に、一人の男がいた。
地球にいた頃、国政に携わっていた人物だった。
人前に立つことにも慣れている。
組織を動かすことにも。
政治というものが、人間社会から消えることなどないと知っている。
天城蓮は政治家ではない。
行政経験も乏しい。
交渉についても素人に近い。
そして何より。
一人の人間がアマテラスと惑星管理システムの最高権限を握っている。
健全とは言い難い。
男はそう考えていた。
だが。
今は口を開かなかった。
周囲を見る。
泣いている者。
家族を失った者。
友人を失った者。
その多くが蓮を見ている。
この青年が推進器を修理した。
航路を決めた。
新しい惑星へ船を導いた。
そして今。
自分から権力を手放す可能性を提示している。
今ではない。
男はそう判断した。
やがて。
群衆の中から声が上がった。
「一つ聞いていいか」
白髪の男性だった。
蓮が頷く。
「はい」
「君自身はどうしたい?」
蓮が困った顔をした。
「俺?」
「そうだ」
蓮は少し考えた。
「できれば推進器いじってる方が楽です」
今度は明確な笑いが起こった。
泣きながら笑う者もいた。
「責任者なんて向いてないと思ってます。書類多いし、会議長いし」
美冬が後ろから言った。
「会議を長くしてるのは大体あなたです」
「今それ言う?」
また笑いが起こった。
ほんの少し。
空気が軽くなる。
蓮は再び人々を見る。
「でも」
表情を戻す。
「誰かがやらなきゃいけないなら、やります」
静かになった。
「俺より適任の人がいるなら、その人に任せます」
蓮は言った。
「逃げたいわけじゃない。ただ、俺が偉いからやってるわけでもない」
白髪の男性が頷いた。
「なら、私は天城君でいい」
蓮が少し驚く。
別の場所から声。
「俺も」
女性の声。
「私も異議なし」
さらに。
「続けてくれ」
「頼むよ、最高管理者」
「でも行政はちゃんと作れよ!」
蓮が笑う。
「それは本当にそう思います」
誰かが拍手した。
一人。
二人。
十人。
百人。
やがて。
三千七百余名の拍手が平原に響いた。
蓮は何も言えなかった。
第一話の事故以来。
彼が持っていた最高管理者という肩書は、機械によって与えられたものだった。
非常事態規定。
生存者順位。
権限継承。
ただそれだけ。
だが、この日。
初めて。
生き残った人々が、自分たちの意思で天城蓮を選んだ。
蓮は深く頭を下げた。
「……分かりました」
顔を上げる。
「しばらく、俺がやります」
少し笑う。
「ただし、ちゃんと行政組織は作りましょう。俺一人に全部決めさせないでください」
また笑いが起こった。
蓮は振り返った。
十一万七千九百四十二名の名前。
笑いは自然に消えた。
本来の目的を思い出す。
蓮は記念碑の前へ歩いた。
そして。
今度は原稿を出さなかった。
「俺たちは、着きました」
静かな声だった。
「予定とは違う星です」
風が吹く。
まだ小さな苗木が揺れる。
「予定より、ずっと時間もかかりました」
蓮は名前を見る。
「それに……十二万人で降りることもできませんでした」
誰かの嗚咽が聞こえる。
「あなたたちの分まで生きます、なんて言うつもりはありません」
蓮は一度、言葉を止めた。
「それは重すぎる」
リシェルは黙って聞いていた。
「俺たちは俺たちの人生を生きます」
蓮が言う。
「笑うと思います。喧嘩もすると思います。失敗もする。たぶん、くだらないことで揉めることもある」
少しだけ笑う。
「人間なんで」
誰かが鼻をすすった。
「でも、忘れません」
蓮は記念碑へ手を置いた。
「ここまで一緒に来たことを」
空を見上げる。
「地球には、もう帰れません」
長い航海だった。
あまりにも長すぎた。
地球で彼らを知っていた人間など、とうの昔にいない。
国も。
街も。
家も。
何もかもが過去になった。
蓮は、この惑星を見る。
「だから」
もう一度、生存者たちを見る。
「俺たちは、ここを故郷にします」
風が吹いた。
十一万七千九百四十二本の若木が、一斉に揺れた。
リシェルは、その光景を見ていた。
神々の帰還。
自分たちの伝承では、そう語られている。
だが違った。
帰ってきたのではない。
この人たちは。
帰る場所を失ったのだ。
式が終わった後。
リシェルは一人で立っている蓮を見つけた。
記念碑の前だった。
「レン」
蓮が振り返る。
「ん?」
リシェルは隣へ行く。
しばらく何も言わない。
蓮が聞いた。
「どうした?」
「やっぱり、神様じゃないわね」
蓮が呆れた顔をする。
「だから最初から言ってるだろ」
「うん」
リシェルは若木を見る。
「でも」
「何?」
「みんながあなたを選んだ理由は、少し分かった気がする」
蓮が眉を上げた。
「どんな理由?」
「教えない」
「なんでだよ」
「自分で考えなさい」
リシェルは歩き出した。
数歩進んでから止まる。
振り返らずに言った。
「……レン」
「ん?」
「ここを故郷にするんでしょ?」
「ああ」
「だったら」
尖った耳がわずかに動く。
「私たちは、もう先に住んでるから」
蓮は少し目を見開いた。
「分からないことがあったら、教えてあげてもいいわよ」
蓮は笑った。
「それは助かる」
「特別だからね」
「はいはい」
「何よ、その返事」
「ありがたいです、リシェル先生」
「馬鹿にしてるでしょ」
「してないって」
二人の声が遠ざかっていく。
その背後で。
まだ小さな森が風に揺れていた。
いつか。
この木々が空を覆うほど大きく育った時。
この星で生まれる人間たちは。
地球を知らない。
アマテラスの航海も知らない。
十二万人が旅立ったことも、歴史としてしか知らなくなる。
だが。
この森は残る。
人類がこの世界へ持ってきた最初のものが、兵器でも都市でもなく。
十一万七千九百四十二人の記憶だったことを伝えるために。
――第十四話 十一万本の森 了




