第131話 過去の未来
ジョン・スミスの一日は、決まった時刻に始まる。
正確には、JS-417として生活していた頃から何も変わっていない。起床時刻も、洗面も、健康状態の確認も、勤務区画へ向かう時間も、すべてNOAHの運行計画に合わせて最適化されている。
ただ、その朝、居住区画を出たジョンは少しだけ足を止めた。廊下の先で、男女二人が話していたからだ。
珍しいことではない。業務上の会話なら以前からいくらでもあった。だが二人の前には端末も作業表示もなく、勤務区画へ急ぐ様子もない。ただ並んで壁面表示を眺めながら話している。
「昨日の方が良かったと思う」
「私は今日の方が好きです」
「甘すぎない?」
「そこがいいんです」
食事の話だった。
ジョンはその横を通り過ぎながら、少しだけ振り返った。最近、こういう会話が増えている。何かを決めるためでも、問題を解決するためでもない。ただ話したいから話している。それだけの時間を過ごす者が、以前より明らかに増えていた。
食堂へ入ると、その理由の一つがすぐに分かった。
匂いがする。
温かい空気の中に、焼いた穀物と油脂、それに僅かな香辛料の匂いが混ざっていた。ほんの少し前まで、NOAHの食事にこんな匂いはなかった。
長い航海の大半で、乗員が口にしてきたのは藻類を主原料とした栄養食だった。どろりとした半固形に近いものか、さらに薄めた液状のもの。必要な栄養を必要量だけ摂取でき、保存と循環効率に優れ、製造に使う資源も最小限で済む。食事は生命維持の一工程であり、それ以上の意味を持たなかった。
EDENへの到着が現実的な距離に入ってから、それが少しずつ変わった。最初に出てきたのは、柔らかく加工された食事だった。穀物や藻類由来の蛋白質を組み合わせた、昔の記録で言えば離乳食に近いものだったらしい。それでも、粘度しか違わなかった従来食に比べれば大きな変化だった。
そして最近になって、千年以上停止していたフードプリンターが再稼働した。
もう数千年先まで食料を引き延ばす必要はない。EDENへ到着するまで持てばいい。その判断によって、長らく節約されてきた原料やエネルギーの一部を、食事へ回せるようになった。
「今日は何ですか?」
配膳口の前で誰かが訊ねている。
『旧地球料理データに基づく再現食です』
「それは見れば分かります。料理名を聞いています」
『パンケーキです』
「パンケーキ」
周囲で何人かが同時にその言葉を繰り返した。
ジョンも皿を受け取る。円形に近い、少し歪んだ焼き物が二枚。その上に淡い色のソースがかかっている。完全な再現ではない。原料の多くは依然として船内で生産可能な藻類や培養素材から作られている。それでも見た目は、古い記録映像に残る料理に近かった。
ジョンは一口食べた。
柔らかい。少し甘い。噛むと僅かな弾力があり、飲み込んだ後にも香りが残った。
「……昨日より好きだな」
思わず口にしてから、ジョンは自分で少し驚いた。
向かいの席に座っていた男が顔を上げる。
「私もそう思います」
その隣に座っていた女性が首を振った。
「私は昨日の方が好きです」
「昨日は塩味が強かったでしょう」
「だから好きなんです」
「そういうものですか」
「そういうものです」
三人とも少し笑った。
以前ならあり得なかった会話だった。栄養組成が適切かどうかなら話しただろう。供給量や製造効率について議論することもあった。しかし、好きか嫌いかを話す理由はなかった。
ジョンはもう一口食べる。
以前の食事へ戻せと言われれば、問題なく食べられるだろう。藻類を主原料にした、あの粘り気のある半固形食。栄養面では十分だったし、それで自分たちは生きてきた。
身体は拒絶しない。
けれど今なら分かる。戻りたくない。
それは贅沢なのかもしれない。だがジョンはもう、温かい食事を知ってしまった。匂いがあることも、噛んだ時に食感が変わることも、次の食事を少し楽しみにすることも知ってしまった。それを失うのは嫌だと思う自分がいる。
その感覚を、以前のJS-417は知らなかった。
◇
通信管制区画へ向かう途中、ジョンは医療区画の前を通った。正確には、その一角に設けられた心理支援室だった。
以前はほとんど使われていなかった場所だが、今は待機表示に数人の番号が並び、個別ブースの使用中表示も点灯している。
「また増えていますね」
隣を歩いていた同僚が言った。
「何がです?」
「カウンセリングです。ここ最近ずっと」
ジョンも気づいていた。NOAHのAIによる心理相談を利用する乗員は、EDENへの接近とともに急増している。
「精神状態が悪化しているんでしょうか」
「AIはそう判断していないらしいですよ」
二人の会話を拾ったのか、壁面端末にNOAHの管理AIが応答した。
『現在確認されている心理変化について、集団的な精神疾患の増加を示す証拠はありません』
同僚が端末を見る。
「では、なぜ利用者が増えているんです?」
『複数の要因が考えられます。最も高い相関を示しているのは、目的地への到着を現実的な将来として認識し始めた時期との一致です』
「到着が近いから?」
『その可能性があります』
ジョンは足を止めた。
「それで不安定になるんですか?」
『不安定という表現が適切とは限りません。NOAHの乗員は幼少期から航海維持を前提とした環境で成長しています。役割遂行、資源維持、社会安定が生活の基盤であり、それらに伴う継続的緊張状態を本人が通常状態として認識している可能性があります』
同僚が眉を寄せる。
「緊張していたつもりなんてありませんけど」
『その状態以外をほとんど経験していない場合、自覚できないことがあります。現在は航海の終点が具体的なものとして認識され始めており、長期間維持されていた心理的緊張が緩和し、それまで抑制されていた感情反応が表面化している可能性があります』
「例えば?」
『理由のない涙、軽度の不眠、集中力や食欲の変化、苛立ち、笑う頻度の増加、将来に関する反復的思考などです』
「最後のは病気なんですか?」
『いいえ』
同僚が笑った。
「なら、私は大丈夫そうです」
「何を考えているんです?」
「地上に降りたら何を食べるかです」
「それなら私もです」
二人はそのまま歩き出した。
ジョンは少し遅れて後に続きながら考えた。確かに、何かは変わっている。だが、それを悪い変化だとは思えなかった。
◇
その日の午前、ジョンはいつものようにEDENとの定時通信を担当した。
業務連絡そのものは、いつも通りだった。乗員の健康状態、生命維持系、電力、推進、船体、警報履歴。必要な報告を終えたあと、紗季から思いがけないことを聞かされた。
――こっちから、NOAHが見えるようになりましたよ。
まだ白い点にしか見えないという。
それでも、EDENの地上から自分たちの船が見える。
通信を終えてからも、その言葉は妙に頭に残っていた。
午前の通信業務を終えたあと、ジョンは休憩区画で飲み物を受け取った。
これも最近増えたものだった。栄養補給用ではない。ただ飲むための飲み物だ。
「ジョン」
呼ばれて振り返ると、一人の若い乗員が立っていた。
「何です?」
「聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「ジョンというのは、本当にあなたの名前なんですか?」
ジョンは少しだけ考えた。
「今は、そうです」
「今は?」
「以前はJS-417でした」
「それは知っています。どうして名前を持ったんです?」
「EDEN側の通信担当者がそう呼び始めました」
「向こうの人が決めたんですか?」
「きっかけはそうですね」
「ジョンだけですか?」
「スミスもあります」
「ジョン・スミス」
「はい」
「どういう意味なんです?」
「特別な意味はないそうです。昔の英語圏では非常にありふれた名前で、仮名として使われることもあったと聞きました」
乗員はしばらく考えてから訊いた。
「気に入っていますか?」
ジョンは即答しようとして、やめた。考える必要など本当はなかった。
「はい。気に入っています」
口にしてみると、それが自分でも驚くほど自然だった。
JS-417は、自分を管理し、記録し、他者と区別するための識別番号だった。だがジョン・スミスは違う。誰かが自分を呼ぶために生まれた名前だった。
紗季が冗談めかして口にした、遥か昔のありふれた名前。それなのに今では、呼ばれるたびに自分のことだと分かるだけではなく、それが自分自身の名前なのだと思える。
「……いいですね」
乗員が言った。
「何がです?」
「名前」
彼は自分の胸元に表示された管理番号を見下ろした。
「私も、名前が欲しいかもしれません」
ジョンは少し驚いた。
「自分で決めればいいのでは?」
「どうやって?」
「私は他人に決められたので分かりません」
二人とも少し笑った。
すると近くで聞いていた別の女性が口を挟んだ。
「祖先の記録から探せないんですか?」
「祖先?」
「私たちの遺伝情報と、昔の乗員記録は残っているでしょう。ある程度なら、自分につながる人たちを追えるんじゃない?」
彼女は天井のセンサーへ視線を上げた。
「NOAH、私の遺伝情報と保存されている乗員記録から、地球時代まで系譜を追える?」
『保存された遺伝情報と乗員記録を照合すれば、一定範囲で可能です。ただし完全な系譜の復元を保証するものではありません』
「名前も残ってる?」
『一部の記録には残存しています』
「あとで見せて」
『承知しました』
最初に質問した乗員もすぐに続いた。
「私もお願いします」
『記録します』
少し離れた席から、別の声が上がる。
「私も」
さらにもう一人。
ジョンは飲み物を手にしたまま、その様子を見ていた。自分が何かを始めたつもりはない。ただ、一人の女性から名前をもらっただけだ。
それが今、他の誰かにも必要なものとして見え始めている。
◇
午後の移動中、ジョンは観測区画の前を通った。
そこにも人がいた。
以前なら、観測窓は宇宙航行担当者や研究担当者が必要に応じて使用する場所だった。今は、ただ眺めるために来る者がいる。
窓の前には男女が二人並んでいた。一人が何かを言うと、もう一人が笑う。仕事の話ではなさそうだった。
ジョンは通り過ぎようとして、その二人が朝の廊下にいた二人だと気づいた。
まだ一緒にいる。
そのことを変だとは思わなかった。最近は、特定の相手と一緒に過ごす者が増えている。食事を待ち、休憩を合わせ、仕事が終わったあとも話している。異性同士で行動する者も目立つようになった。
それが何を意味しているのか、ジョンにも知識としては分かる。恋愛、好意、交際。そうした言葉自体はNOAHにも保存されているが、長いあいだ、それらは歴史や社会学の中の概念に近かった。
最近になって、それが自分たちの日常へ戻り始めている。
ジョンは少しだけ口元を緩めた。
これも、到着が近いからなのだろうか。
航海中は、明日も来年も、その先もNOAHの中にあった。だが今は違う。少し先には地上がある。
その地上で何をするかを考える。何を食べるか、どこへ行くか、誰と一緒にいるか。そして、自分を何と呼んでもらうか。
そんなことを考える余裕が、ようやく生まれたのかもしれない。
◇
勤務を終えたあと、ジョンは観測区画へ向かった。
窓の向こうにはEDENがある。
もう光点ではない。青白い小さな円盤で、満月よりは小さい。それでも、そこが一つの世界だと分かるだけの大きさがあった。白い雲が青い表面を覆い、その一部は夜へ沈んでいる。
観測表示を重ねれば、さらに細かく見える。大陸、海、気象、夜側に浮かぶ人工の光。そして、SHINAR CITYとBABEL。
自分たちを迎えるために造られている場所。
ジョンはしばらく黙ってEDENを見つめた。
あそこにいる人類は、自分たちから見れば百世代以上も昔の人間だった。
NOAHの中では、そのあいだに百を超える世代が生まれ、死に、次の世代へ船と役割を引き継いできた。一方、アマテラスでEDENへ辿り着いた人類の多くは、その長い時間の大半を眠ったまま越えてきた。
時間そのものは同じだけ流れている。
それでも、ジョンたちから見れば彼らは遥か昔の人間だった。本来なら、歴史記録の中にしか存在しないような時代の人々だ。
それなのに、実際に話してみれば驚くほど普通だった。笑い、冗談を言い、食べ物の話をし、相手を名前で呼ぶ。
ジョンは自分の名前を思った。
ジョン・スミス。
遠い昔にはありふれていたという名前を、百世代以上も昔の人間から自分はもらった。そして、その名前を気に入っている。
奇妙な話だと思う。だが嫌ではない。むしろ、今ではそれが自然だった。
NOAHは長いあいだ、生き延びるために進み続けてきた。食事は栄養であり、人は番号で管理され、会話には目的があり、生活には役割があった。
それが今、少しずつ変わり始めている。
料理を楽しみ、好き嫌いを口にし、仕事とは関係のない話をする。誰かと一緒にいたいと思い、自分の名前を欲しがり、到着したあとの未来を考える。
おそらく、自分たちは壊れ始めたのではない。
ようやく、張り詰めていたものが緩み始めたのだ。
ジョンは青い惑星を見つめた。
過去にいるはずの人々が、そこで自分たちを待っている。だが、あそこは過去ではない。自分たちがこれから降り、食べ、眠り、話し、誰かを好きになり、自分の名前を呼ばれて生きていく場所だ。
過去にいるはずの人々が、自分たちの未来で待っている。
ジョンには、もう疑いはなかった。
EDENは間違いなく、自分たちにとっての希望だった。
――第百三十一話 了
【作者よりお願い】ここまでお読みいただきありがとうございます!もし「続きが気になる」「おもしろい」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、評価の【☆☆☆☆☆】をタップして応援していただけると、執筆の大きな励みになります!




