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第130話 10秒の距離

 宇宙から見たEDENは、以前より明るくなった。


 ほんの少し前まで、夜側の大部分は暗闇だった。


 町や村に明かりがないわけではない。だが、それらは地上で暮らす者たちのための灯火であり、宇宙から見てはっきり分かるほどのものではなかった。


 それが今では違う。


 SHINAR CITYを中心に光が広がり、BABELの根元には巨大な光の集まりが生まれている。さらに王都など、人類との交流が深い地域にも新しい明かりが少しずつ増え始めていた。


 第一発電衛星群の稼働によって、EDENが使える電力は一気に増えた。


 必要量という言葉だけで考えれば、過剰とさえ思える供給量だった。


 人類はその電力を使った。


 照明に。


 交通に。


 工場に。


 通信に。


 そして、それまで電力というものをほとんど意識せず暮らしていた者たちの生活にも。


 結果として、EDENの夜には少しずつ光が増えている。


 宇宙から見れば、それは文明の輪郭が浮かび上がり始めたようにも見えた。


 そして最近――。


 地上から見上げる宇宙にも、一つだけ光が増えた。


      ◇


「見える」


 三上紗季は、通信管制室の窓越しに夜空を見上げた。


 無数の星の中に、一つだけ以前にはなかった白い点がある。


 知らなければ、星と区別するのは難しい。


 この星系の恒星光を反射した巨大な船体が、この距離では一点の光にしか見えない。


 だが紗季は、その正体を知っていた。


 NOAH。


 百万人を乗せてこの星系までやってきた、もう一隻の星間移民船。


 現在距離、およそ三百万キロメートル。


 ついにEDENの地上からも、肉眼で確認できる距離まで近づいていた。


「三上さん、そろそろです」


「はい」


 声をかけられ、紗季は窓から視線を戻した。


 通信端末の表示には、NOAHとの定時通信開始時刻が迫っている。


 もう何度繰り返したか分からない定時通信だった。


 最初の頃は、毎回それなりに緊張した。


 NOAHという未知の社会。


 百万人という途方もない人数。


 そして、その人々がこれからEDENへやって来る。


 向こうも同じだったのだろう。


 定時通信を始めたばかりの頃、NOAH側の通信担当者は必要なことしか話さなかった。


 名前すらなかった。


 正確には、個人を識別するための番号しかなかった。


 JS-417。


 それが彼の識別コードだった。


 通信開始時刻になった。


 紗季は回線を開く。


「EDEN通信管制よりNOAH。定時通信を開始します」


 送信。


 返答が届くまでには、どうしても間がある。


 だが、その沈黙にももう慣れた。


『NOAH通信管制、受信良好。こちらジョン。今日も問題なく聞こえています、Saki』


「こちらも良好です。定時確認を開始します」


 紗季は表示された項目へ目を落とした。


「まず乗員の健康状態から。前回報告以降、重篤者の増加は?」


『ありません。継続治療中の乗員にも大きな変化はありません。軽症者は減少傾向です』


「医療系統に新規警告は?」


『ありません』


「生命維持系」


『正常。酸素循環、水再生、温度管理、すべて基準値内です』


「電力系」


『正常』


「推進系」


『異常なし。予定された減速航程を維持しています』


「船体構造」


『新規損傷なし』


「警報履歴」


『重大警報ゼロ。軽微な整備警告が三件。すべて対応済みです』


 紗季は一項目ずつ確認していく。


 NOAHから受け取った情報は、同時にEDEN側の記録へ保存されていた。


「こちらからは、BABEL受け入れ設備に異常なし。医療区画、居住区画ともに予定どおり拡張中です。現在のところ工程遅延もありません」


『了解しました』


「EDEN地上の環境についても、大きな変化はありません」


『了解』


 一通りの確認が終わる。


 紗季は端末へチェックを入れた。


「こちらからの定例項目は以上です」


『こちらも以上です』


 以前なら、ここで通信終了だった。


 短い終了確認を交わして、それで終わる。


 だが最近は違う。


 紗季は、そのまま回線を閉じずに待った。


 少しして、ジョンの声が続いた。


『そういえば、最近、食事がずいぶん変わったんです』


 紗季は少し笑った。


「どんなふうに?」


『味も匂いも前よりはっきりしています。それに、食感の違いも増えました』


「食感?」


『ええ。柔らかいとか、硬いとか、噛むと弾力があるとか。以前は、そういう違いを意識することがほとんどありませんでした』


「ちゃんと料理になってきたんですね」


『たぶん、そういうことなんだと思います』


 そこでジョンは少し言葉を切った。


『それに最近、“美味しい”という意味も分かってきました』


 紗季の表情が少し変わる。


「意味は前から知っていたでしょう?」


『知識としては』


 また短い間があった。


『でも、今は違う気がします』


「どう違うんです?」


『食事の時間になると、今日は何が出るんだろうって話す人が増えました。調理区画の近くを通って、匂いで足を止める人もいます』


 紗季は黙って聞く。


『味の好みを言う人も増えました。もっと濃い方がいいとか、これは好きだとか、これは嫌いだとか』


「好き嫌いまで出てきたんですか」


『ええ』


 ジョンの声には、少し笑いが混じっていた。


『以前なら、そういうことを言う人はほとんどいませんでした』


「栄養が取れれば十分?」


『そんな感じです』


 紗季は椅子へ背を預けた。


「でも今は違う」


『違いますね』


 ジョンが続けた。


『食事だけじゃないんです』


「というと?」


『最近、みんな前より話すようになった気がします』


 通信には確かな遅延がある。


 それでも、その声は以前よりずっと近く感じられた。


『仕事に必要のないことを話すんです。地上に着いたら何をしてみたいとか、何を食べてみたいとか。BABELの映像を見て、あそこへ行ってみたいとか』


「いい変化ですね」


『私も、そう思います』


 短い答えだった。


 だが、以前のJS-417なら言わなかった言葉だった。


 紗季が初めて彼と話した時、彼は自分を「JS-417」とだけ名乗った。


『NOAH通信管制、JS-417。受信しました、Ms. Mikami』


 声も硬かった。


 質問には正確に答える。


 それ以上は言わない。


 紗季も最初は、それがNOAHの普通なのだと思っていた。


 何度目かの通信で、彼女は何気なく言った。


「JS-417って、毎回呼ぶにはちょっと長いですね」


『短縮して構いません』


「JS……ジョン・スミスみたい」


『ジョン・スミス?』


「昔の英語圏では、ものすごくありふれた名前です。仮名みたいに使われることもありました」


 少し長い沈黙のあと、返事が来た。


『では、ジョンで構いません』


 それ以来、紗季は彼をジョンと呼ぶようになった。


 だが彼の方は、ずっと変わらなかった。


『了解しました、Ms. Mikami』


『次回までに確認します、Ms. Mikami』


『お疲れさまでした、Ms. Mikami』


 それが変わったのは、それからしばらくしてからだった。


 ある日の通信終了間際。


『では次回通信で。Saki』


 紗季は思わず聞き返した。


「……今、名前で呼びました?」


『はい』


「急ですね」


『あなたは以前から私をジョンと呼んでいます』


「まあ、そうですけど」


『こちらだけMs. Mikamiでは、不均衡でしょう』


 紗季はその時、少し笑った。


「じゃあ、それでいいですよ」


『了解しました、Saki』


 それ以来、一度もMs. Mikamiには戻っていない。


 紗季は現在の通信画面へ意識を戻した。


「ジョン」


『はい』


「こっちから、NOAHが見えるようになりましたよ」


 送信したあと、紗季は窓の外へ目を向けた。


 白い光点は変わらずそこにある。


 返事は、まだ来ない。


 分かっている。


 自分の声はいま、宇宙を渡っている途中だ。


 NOAHまで約三百万キロ。


 光でさえ、届くまで十秒近くかかる。


 いつもなら気にならないはずの沈黙が、この時だけは妙に長かった。


 やがて。


『……本当に?』


 紗季は少し笑った。


「肉眼で見えます。まだただの白い点ですけど」


 また沈黙。


『そうですか』


 それだけだった。


 だが、声の調子が変わっていた。


「嬉しくないんですか?」


『いえ』


 返ってきた声が、一度途切れる。


『嬉しいです』


 紗季は夜空の光を見つめた。


「こっちでは、もう結構話題になってますよ」


『こちらでも、地上が近づいたって話す人が増えています』


「まだ三百万キロありますけどね」


『以前に比べれば、すぐそこです』


「宇宙船に乗ってる人の距離感ですね」


『Sakiたちは違うんですか?』


「三百万キロを“すぐそこ”とは言いません」


『では、そちらへ着いたら感覚を修正します』


 紗季は笑った。


「そうしてください」


 少しして、ジョンが言った。


『Saki』


「はい?」


『地上の食事、本当にそんなに美味しいんですか?』


「それは来てからのお楽しみです」


『最近、そういう言い方も分かるようになってきました』


「美味しいの意味も?」


『それもです』


 紗季はまた笑った。


 定時通信が終了すると、紗季は記録をまとめた。


 乗員状態、異常なし。


 生命維持系、正常。


 推進、減速とも予定どおり。


 BABEL側の受け入れ準備も問題なし。


 定型の項目を並べ、その最後に短い一文を付け加える。


【乗員間で、到着後の生活や嗜好に関する会話が増加しているとの報告あり】


 報告を送信する。


 その情報は、NOAH受け入れに関わる各部署へ共有された。


      ◇


「……余裕が出てきたか」


 蓮は、送られてきた定時通信報告を読みながら呟いた。


 場所はBABELの管理区画だった。


 目の前には、NOAH乗員の受け入れに使用する区画の進捗状況が並んでいる。


 居住設備。


 医療区画。


 物資搬送系。


 入域管理。


 輸送能力。


 どれも、まだ完成して終わりではない。


 百万人という人数を実際に受け入れるためには、最後まで調整を続ける必要がある。


「食事の味と匂いと食感、か」


 報告書の付記に残されていた会話の要約を見て、蓮は少し笑った。


「随分、普通の話をするようになったな」


『NOAH乗員には、以前より精神的余裕が生じていると推測されます』


 ナミの声が返る。


「こっちが見えるところまで来たってのも大きいんだろうな」


『その可能性は高いでしょう』


 蓮は表示を閉じようとして、別の通知に目を留めた。


【NOAH 地上肉眼観測可能域へ到達】


「ああ、そうか。もう見えるんだった」


 蓮は窓の外へ目を向けた。


 夜空。


 無数の星。


 その中に一つ、つい最近まで存在しなかった光点がある。


「……あれか」


『はい』


 三百万キロ。


 数値だけなら、まだ途方もなく遠い。


 だが、ついに肉眼で見えるところまで来た。


 蓮はしばらくその光を見ていたが、やがて視線を戻した。


「ナミ、アマテラスの主観測系を借りる」


『NOAHの観測ですか?』


「うん。定時報告じゃ推進系は正常になってるけど、ここまで来たなら俺も一度ちゃんと見ておきたい」


 NOAHはまだ減速中だ。


 これからEDEN近傍へ入り、最終的には指定された待機宙域へ進入する。


 BABELがどれだけ完成していても、NOAHが予定どおり止まれなければ意味がない。


 そして重力推進なら、蓮の専門だった。


『接続します』


 視界が切り替わった。


 アマテラスの観測系が捉えたNOAHの映像が、蓮の網膜へ表示される。


「……見えるな」


 地上からは、ただの白い点だった。


 だがアマテラスから見ればまるで違う。


 黒い宇宙を背景に、全長約三十キロの巨大構造物が浮かんでいる。


 複数の区画を連結した船体。居住部。資源区画。推進構造。


 長い航海を、百万人とともに越えてきた船。


 NOAH。


「これ、どこまで実画像?」


『可視光だけではありません。赤外線、複数観測点からの干渉情報、測距データを統合しています』


「だよな」


 蓮は観測情報を拡大した。


 船体そのものを見るのは一瞬だった。


 すぐに視線は船尾後方へ移る。


 背景の星が、そこだけわずかに歪んでいた。


「……井戸はこの辺か」


 蓮が一点を指定する。


『推定形成中心と一致します』


 補助表示が現れ、重力場の解析結果が重なる。


 一部の星像が細く引き延ばされ、別の星は緩い弧を描いている。


 重力場そのものが見えているわけではない。


 その周囲を通る光が曲げられているのだ。


 蓮は重力勾配を追う。


「この距離なら、これくらい後ろへ置くよな。船体が三十キロある分、形成領域は広いけど基本はアマテラスと同じ」


『はい』


「減速用に出力を絞ってる。重力勾配も素直だな」


 数値をいくつか切り替える。


 形成中心。


 重力勾配。


 船体への潮汐力。


 減速度。


 航路誤差。


 蓮の目が次々と情報を追っていく。


『すべて正常な運用範囲です』


「うん」


 蓮は頷いた。


「この状態なら予定どおり止まれる。進入軌道にも問題なし」


『同じ結論です』


「よし」


 それは単なる観測ではなかった。


 NOAH側から送られてくる報告を疑っていたわけでもない。


 ただ、自分たちが受け入れようとしている船が、本当にそこまで来ている。


 そして予定どおりEDENへ近づいている。


 蓮は、それを自分の目で確かめたかった。


 観測像のNOAHを見たまま、BABELの受け入れ進捗を横へ表示する。


「こっちも、もう待ったなしだな」


『はい』


 居住設備。


 医療区画。


 輸送路。


 物資。


 百万人を迎えるために造ってきたものが、ようやく実際に使われる時期へ入りつつある。


 蓮はもう一度、NOAHの後方で歪む星空を見た。


「通信遅延は?」


『現在、片道約十秒です』


「十秒か」


 蓮は少し笑った。


「もう目で見えるのに、話すと十秒待つんだな」


『光速の制約です』


「分かってるよ」


 観測画面の隅には、先ほどの定時通信報告がまだ残っていた。


 乗員状態、良好。


 船体、異常なし。


 推進、正常。


 そして――。


【到着後の生活について自発的に話題にする乗員が増加】


 蓮はそこを見てから、再びNOAHへ視線を戻した。


 EDENではNOAHを見上げる者がいる。


 NOAHではEDENへ到着したあとの話をする者が増えている。


 BABELは、そのために造られている。


 定時通信では、船の状態だけではなく、食事の味や匂い、食感まで話題に上るようになった。


 通信ラグは、まだ十秒もある。


 それでも、その十秒は以前よりずっと短く感じられた。


 EDENの夜に増えた光。


 そして、その空に増えた一つの光。


 二つは少しずつ、近づいていた。


     ――第百三十話 了


挿絵(By みてみん)

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