第132話 誘導艇
NOAHは、もう探さなくても見つけられた。
日が沈み、空が暗くなると、BABELの周辺では自然と空を見上げる者が増える。星々の中に混じった白い光は数日前より明らかに強く、位置さえ知っていれば見失うことはなかった。
「あれがNOAHか?」
「そうらしいぞ」
「まだ星みたいだな」
「あと三十万キロだってさ」
そんな会話も、今では珍しくない。
足を止めて見上げるエルフもいれば、子供を肩車して指を差すゴブリンもいる。通り過ぎかけて、わざわざ戻ってくる者までいた。
全長三十キロ。
百万人を乗せた星間移民船。
数字だけを聞けば途方もない存在なのに、地上から見れば、まだ一つの白い光にしか見えなかった。
それでも、昨日より近い。
明日は、もっと近くなる。
◇
BABELの会議室では、最後の受け入れ確認が行われていた。
中央の立体表示にはEDENとその周辺軌道、JANUS、そして接近中のNOAHが映し出されている。
『現在距離、三十万四千キロ。NOAHは予定航路を維持しています』
イザナミの報告に、柳原が頷いた。
「到着予定に変更は?」
『ありません。現在の減速を維持した場合、二日後にJANUS近傍へ到達します』
「では、予定どおり進めましょう」
柳原はテーブルを囲む面々へ視線を向けた。
「各部門、変更点だけお願いします」
JANUS側、BABEL側、医療、地上受け入れ。
返ってくる答えは短かった。
問題なし。
予定どおり。
変更なし。
JANUSでは千五百人乗りの大型連絡艇六艇が、すでに出番を待っている。
地上では、人類居住区の隣に造られたNOAH CITYが百万人を迎える準備を終えていた。
受け入れ方針も、NOAH側にはとうに伝わっている。
ここへ来て、新しく決めることはほとんどなかった。
「……終わりですか?」
蓮が訊いた。
柳原が手元の表示を確認する。
「終わりですね」
「早いな」
「今まで散々やりましたから」
美冬が呆れたように言った。
「なんか、もっと最後までバタバタすると思ってた」
「してたでしょう」
「今日の話」
「何も起きてないんだから、いいことじゃない」
「それはそうなんだけど」
蓮は椅子にもたれ、立体表示のNOAHを眺めた。
何か忘れているような気がする。
だが、イザナミも問題を挙げていない。各部門からも異常なし。NOAH側との連絡にも問題はない。
本当に、やることがなくなったのだ。
「変な感じだな」
思わず口から出た。
「何がです?」
柳原が訊く。
「ずっと『NOAHが来るまでに』って言ってたじゃないですか。BABELもそうだし、JANUSも、NOAH CITYも」
「ええ」
「それが、あと二日って言われると……」
蓮は少し考えたが、うまい言葉が見つからなかった。
「もう『そのうち』じゃないんだなって」
美冬もNOAHの表示を見る。
「明後日には、もう目の前まで来るのよね」
「百万人」
「そう」
それまで「百万人」という数字は、何度も計画の中で使ってきた。居住区も、食料も、移動手段も、すべて百万人を前提に考えてきた。だが明後日から、その数字には一人ずつ顔が付く。
自分の名前を持つ者もいれば、まだ管理番号だけの者もいる。地上へ降りるのを楽しみにしている者も、不安に思っている者もいるだろう。食べたいものや行ってみたい場所があり、誰かと一緒に降りようと決めている者もいる。それが全部で百万人いる。
「急に重くなったな」
蓮が呟く。
「何がです?」
「百万人って言葉が」
柳原は少しだけ笑った。
「今まで軽かったんですか?」
「数字だったから」
「それは分かります」
柳原もNOAHを見る。
「私も、ずっと受け入れ人数として見ていましたからね」
「議長がそれ言っていいんですか?」
「だからこそ、ですよ」
柳原は肩をすくめた。
「百万人を一度に人間として想像できる人なんて、そうはいません」
しばらく誰も何も言わなかった。
会議室の中央では、NOAHの現在位置を示す光がゆっくりとEDENへ近づいている。
『JANUSより連絡です』
イザナミの声が沈黙を破った。
『無人誘導艇、発進準備完了。予定どおり出発させます』
柳原が蓮を見る。
「問題は?」
「ないです」
「ではお願いします」
『了解しました』
◇
JANUSの外部格納区画が開いた。
黒い宇宙を背景に、一艇の小さな機体がゆっくりと姿を現す。
NOAHと比べれば、あまりにも小さい。
機体はJANUSから十分に離れると、船首をNOAHへ向けた。
『誘導艇、発進』
小さな光が加速し、JANUSから離れていく。
三十万キロ先のNOAHへ向かって、誘導艇は速度を上げていった。
蓮たちは会議を終えたあとも、しばらくその映像を見ていた。
「出たな」
「出ましたね」
美冬の返事も、いつもより少しだけ静かだった。
やがてNOAH側から通信が届く。
『誘導艇の発進を確認しました』
短い報告だった。
それだけなのに、蓮は少し笑った。
「迎えが来たって、向こうも思うかな」
「思うんじゃない?」
「そっか」
JANUSから見たNOAHは、肉眼ならまだ一つの光だった。
観測像を拡大すれば、その光に輪郭が現れる。こちらへ船首を向けているため、全長三十キロという長さのほとんどは奥へ重なって見えない。
それでも、もうただの点ではなかった。
三十万キロ。
人類が星と星の間を渡ってきた距離を思えば、残りはほとんど誤差のようなものだった。
蓮は、遠ざかっていく誘導艇の光と、その先にあるNOAHを交互に見た。
あの船から、百万人が来る。
自分たちと同じ人間で、それでも自分たちとはまるで違う時間を生きてきた人々が。
「いよいよ着きますね」
蓮が言った。
「ええ」
柳原はNOAHを見たまま答えた。
少し嬉しそうにも見えた。
それ以上に、何かを覚悟しているようにも見えた。
やがて柳原は息を吐き、いつもの調子で笑った。
「大変なことになりますよ。百万人ですからね」
――第百三十二話 了




